書き残し
その寺には、公開されていない記録がある。
題名はない。
表紙もない。
何度も書き写されたらしく、紙の厚みも色合いも揃っていなかった。
内容の多くは、この土地に関する覚え書きだった。
川の氾濫、道の付け替え、疫の流行。
誰が読んでも、退屈な記録だ。
ただ、その中に、明らかに筆を止めるような頁がある。
『人に似るものあり。これを、ヒトノリとは呼ばず。』
文字は丁寧だが、どこか言い切るような強さがあった。
『古くは、忌声様と記す。』
数頁進むと、筆跡が変わる。
同じ人間が書いたのかどうか、判別がつかないほど、線が揺れていた。
『人替は、初め、形をなぞる。衣。持ち物。立ち居振る舞い。』
行間が、妙に広い。
さらに進むと、文字が小さくなる。
押し殺すように書かれている。
『その次に、声を欲しがる。』
ここで、一度、記録は途切れている。
頁の下半分が空白のまま、次の頁に移っている。
次の記述は、明らかに後から書き足されたものだった。
『声を真似られた時点で、すでに半分、替わっている。そうなれば助かる道はない』
その下に、かろうじて判読できる文字が続く。
『助かる道があるとすれば、声を重ねられる前に、自ら離れること。』
帳面の最後の頁。
そこには、たった一行だけ、走り書きが残されている。
『ただし、気づいた者は、すでに見られている。』
それ以降、新しい記述はほとんど増えていない。
ただ、余白だけが、少しずつ、減っている。




