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わたくしが聖杯と呼ばれる意味

作者: 戸倉 儚

 初代国王の意向により、王国は王政の助言機関たる“元老院”を維持していた。元老院の権力は絶大であり、単なる(まつりごと)への進言にとどまらず、王位について彼らの意見が及び得るほどである。

 そして代々その元老院の筆頭を務めるのが、初代国王の乳兄弟を開祖とするホーエンベルグ公爵家である。国の運営にあたってはホーエンベルグ家の協力を取り付けることが必須となり、王位の継承争いにおいても、ホーエンベルグの縁者を娶った者が、大きく王座への歩みを進めることとなる。


 となれば必然、ホーエンベルグ家の娘は、王位継承争いで最も重要な立ち位置を占める。王位継承権を持っている者がこの娘と婚姻を結べば、それすなわち玉座に就くことに等しい。


 そのような事情から、かつての王国ではホーエンベルグの長女を、「聖杯」と呼んだ。


 しかし、世は太平、血みどろの王位継承争いなどは鳴りを潜め、元老院と王家の力関係も安定し、なんと今代は第一王子バルトウィンとホーエンベルグ公爵家の長女であるエイダが幼少より婚約している盤石ぶりである。「聖杯」の持つ意味も大きく変容し、エイダに課せられたのは、未来の国王のよき伴侶となると同時に、国王に臆せず進言できるよき友としての役割だった。


 王家とホーエンベルグ家と臣下たちの思惑が絡み合い、調整に調整が重ねられ、二人が婚約したのは、エイダ六歳、バルトウィン七歳のときである。 王宮にて婚約パーティーが催され、これにてエイダとバルトウィン双方の、本人たちによる承認も得たという格好に相成った。


 このパーティーにてエイダは次のように宣誓した。


「わたくしは殿下の伴侶として、ならびに先王陛下の御遺志を共にする者として、このたびのご婚約の栄を謹んで拝受いたします」


 それは六歳の子供にしては、飛び抜けて大人びた滑舌だったという。流れるように繰り返された貴婦人の礼(カーテシー)も、ホーエンベルグ家の妃教育の経過がたいへん良好であることを知らしめた。


 一方で問題だったのは、幼少のみぎりよりやけに高圧的な物言いを身に付けてしまっていた、バルトウィンの返答である。


「おお! きさまはおれのものになりたいともうすか!」


 言うまでもなく、これがエイダの受難の始まりであった。



***



 ──ああ、ここまで長かった。


 貴族学院の大広間の、その真ん中で踊っているバルトウィンを見て、エイダは長く息を吐いた。

 バルトウィンの十八歳の誕生日、そして叙任式が一週間後に迫っている。王家の慣習では、平時の王子は十八歳で成人を迎えると共に王家直轄の領土であるケーニヒス領を賜り、ケーニヒス公として王太子に叙されることが定められている。


 今宵のパーティーは、バルトウィンの貴族学院卒業が決まり、晴れて学位を得て王太子に着任することを祝うものだった。

 

 エイダは人知れず、今までの苦労に思いを馳せる。バルトウィンが他国の大使に失礼を働くたび、バルトウィンの首根っこを掴んで王宮に向かい、詫びの手紙を書かせ、あるいは代筆をした。腕っぷしの強さに任せた暴力事件は数知れず。市井の事件に思いつきで介入して己の力を誇示しようとした際には、なんとか憲兵ぐるみの捜査だったということにして王家の面子を保った。諸侯の娘にお手付きをしたときにはもう烈火のごとく怒り、王妃とホーエンベルグ公と連携した上で諸侯に手を回し、王子の寵愛を受けられるのだと舞い上がる令嬢に、詫び半分牽制半分で“おはなし”することもあった。


 どれも思い出したくもない苦難である。

 しかし、バルトウィンが王太子になればある程度状況も変わるかもしれない、とエイダは期待していた。バルトウィンのやんちゃはある意味での豪胆さでもあるし、女好きの癖などは、エイダが一番早く子を産みさえすれば、あとは多少の“処理”で済ませることができる。

 ここまで耐える間に、政略結婚であっても、エイダには多少の愛情が芽生えていた。たとえ些細なことでも聞かん坊のバルトウィンが行動を変えてくれたときなどは天にも昇るほど嬉しかったし、今こうして社交界の類を難なくこなせているのも、エイダや教育係の苦労の結果であると同時に、本人の努力の賜物である。


 今日はその意味での、一区切りだ。学院を出さえすれば、諸侯の令嬢がバルトウィンに接触する機会もぐっと減る。


 ──それはそうとして、ずいぶんあの娘と長く踊るのね。


 彼女らしくもなくぼうっとしていたエイダだったが、あまりに楽しそうに踊り続けるバルトウィンを見て、さすがに少し違和感を覚える。そして翻って、バルトウィンを惹きつけられない自身の容貌を憂う。


 エイダの容姿は、鼻は高くもなければ低くもなく、目は大きくないどころかなんなら細くて切れ長である。着飾らなければ至って平均的な、ややキツい女といった風貌。装いは王国の伝統的な舞踏会ドレス(バルクライド)で、ホーエンベルグの女に特有の金髪の直毛を長く美しく保って、どうにか未来の王妃らしい特別さなどを演出している。体形は貧相である。せめて殿方をがっかりさせない程度には太ろうとしたこともあったが、体質のせいかはたまた日々の苦労のせいか、なかなか太れなかった上に、どうしても不均衡な肉の付き方しかしなかったのでやめた。


 こんな有様だから、たまに、特に細いときには、天使が痩せこけたようだなどと言われることもあった。


 とても恵みをもたらすには能わないという陰口である。


 対して、今バルトウィンと踊っている令嬢は、エイダと対照的に豊満で、女性らしさに満ち溢れている印象を受ける。

 凹凸のはっきりした体の線に、燃えるようにうねった赤毛。それでいてどこか田舎育ちらしい純朴さと、何か押せば押しきれそうなしおらしさが同居している。バルトウィンの好みそのものだ。筋骨隆々のバルトウィンとはよく似合っているとも言っていい。


 名を、セラフィナ=フォーゲルと言う。王国の沿岸部にある男爵領の娘であり、そういえば、かつてエイダが“おはなし”した数多くの令嬢のうちの一人だった。


 これはあとで注意した方がいいかしら、とエイダは逡巡する。

 今まさにエイダの後ろには、彼女の傘下の令嬢たちが揃っている。今までのエイダとバルトウィンの関係からすれば、ここでバルトウィンを御せることを見せつけるか、あるいは未来の王妃たる器を見せるべく余裕たっぷりに見守るかは考えものだ。


 音楽が止まり、切り替わろうとしたとき、エイダは行くか行くまいか決断しようとした。


 ──あら?


 しかし、彼女が足を動かす前に、なんとバルトウィンの方がエイダに向かって歩み寄ってきたのである。


 それも、セラフィナの手を握ったまま。


 バルトウィンは少し緊張した面持ちで口を開いた。


「エイダよ」

「はい、殿下」

「俺はつねづね、おまえは学院に政局を持ち込み過ぎるきらいがあると考えていた」

「……はい?」


 ──いったい何をおっしゃるの?


 出かかった言葉を吞み込んで、エイダはまずとりあえず微笑みで返す。

 するとバルトウィンはくるりと周りを向いて、演説のように仰々しく大声で話し始めた。


「エイダは俺の伴侶となるべき女として、長らく共に過ごしてきたが、その最中に……言いたくはないが、権力に溺れてしまった、のだと思う」


 そして彼はセラフィナの手を掴み、大きく上に掲げた。


「セラフィナはその被害者だ。証するには時間が足りぬが、この悪女の人相を見れば、賢明な諸君なら、誰が悪を為し、善を欺いたのかがわかるはずだ。俺がこの真相に気づくことができたのも、ひとえにこのセラフィナがもたらしてくれた、真実の愛ゆえ」


 令嬢たちがざわめく。そのざわめきが瞬く間に伝播し、パーティーの人の流れが一気に淀む。


「殿下。落ち着いてください。誤解があると思います」

「して、俺は王たる者として、未来の伴侶は自分で決めるべきだと考えた」


 バルトウィンが突飛なことを言い出すのは珍しいことではない。だが、今回ばかりは様子が違う。そう直感したエイダのぴんと張った背中に冷や汗が流れた。


「エイダ=ホーエンベルグ。おまえとの婚約は破棄だ」


 握っていた手を振り上げ、バルトウィンは周囲に聞こえるように声高らかに宣言する。


「セラフィナ! 俺はおまえを王妃にする!」


 パーティーが完全に静止する。

 遅れてセラフィナが嬉しさのあまり呆けて、そしてパーティーの参加者たちが一気にざわめき始める。中には号外とばかりに大広間を出ていく者もいた。


 エイダが事の次第を把握するまで、いくばくか──実際には何秒もないほどだが──あった。


 その間に彼女が思ったのは、二つのことだった。


 ──ああ、いつもの無茶ね。どうやって解決しようかしら。


 一つはこのような、いたって冷静な、未来の王妃としての思考である。平和な王国を導く片翼として、どんな事件でも最後には治めねばならない。きっとバルトウィンのこの発言には背景があるだろうし、あるいは誰かよからぬ者に知恵を吹き込まれた恐れもある。それを解決しないことには、自分たちは夫婦としてやっていけない。


 そしてもう一つは次のような気持ちだ。


 ──わたくしは、この男に人生を捧げねばならないのかしら?


 真面目な彼女は考えたこともないようなことだった。貴族の娘として生まれた以上は、家を背負った政略結婚は必定であるし、ましてや彼女は王妃に成り得る存在である。選択肢がない以上は考えることも無意味。


 この気持ちをもたらしたものは何か。


 エイダの中で引っかかるものがある。


 ──この悪女の、人相。


 それは、先ほどバルトウィンに言われたことだった。

 彼からすれば、言い方の一つではあるのだろう。もし今の恋の熱が冷めたあとに問い直せば、言い方が悪かったなどと撤回することも目に見えている。

 ただ、エイダは昔からずっと努力をしていた。政略結婚とはいえ、いずれ子を為す男女の仲である。バルトウィンが成長と共に更生しようとする姿への愛情も、そういうことを念頭に置いて、必死に彼女が自身の心の中で育てたものだ。


 彼の態度は、そういったことを、何か根本から断ってしまうようなものだった。


 エイダは迷う。


 やるべきことは、とにかくこの場を治めること。

 しかし、その動機はもはや失せている。


 彼女は動けなかった。そして傍目にも、彼女はショックで脚が動かなくなったように見えた。


 そのとき、バルトウィンたちの背後から、宴の明かりを優にかき消すほどの、眩い光が差した。


「火事だ!」


 誰かの声が上がる。声の方を見れば、父兄のテーブルの方で大きな火が上がっていた。蝋燭と蒸留酒が入っていたであろうグラスが倒れている。


 困惑するエイダたちの下へ、長身痩躯の黒髪の青年が、体格に似合わぬ大声を出しながら駆けてきた。


「兄上! エイダさま! 広間の外へ!」


 第二王子のヴェルナーである。


 彼はさりげなくバルトウィンからセラフィナを引きはがしつつ、王家は王家、諸侯は諸侯と分けながら避難を促していく。

 そしてその途中で長い腕を掲げ、マントで庇いながらという体でエイダに耳打ちをしてきた。


「今日はこのまま兄上を引き取って、セラフィナ=フォーゲルには王宮に監視付きで泊まってもらう。事情は僕の方で聞いておくから」


 エイダは瞬時に意図を理解する。


「あの火、あなたが?」

「うん。酒精(アルコール)が燃えているだけ。すぐに鎮火できる」

「このままパーティーはお開きってこと」

「そうするつもりだ。君は噂の方を押さえてほしい。兄上が何を考えているかはわからないけど、今なら間に合うかもしれない」


 言うだけ言って、ヴェルナーは振り返って、火元の方に駆けていく。


「……恩に着るわ」


 エイダはスカートの裾を持って早歩きをしながら、静かに呟いた。



***



 バルトウィンが、幼いころの婚約パーティーでエイダに


「おお! きさまはおれのものになりたいともうすか!」


 と言い放ったくだりには続きがある。

 そのとき周囲は、この物言いについてはあくまで幼子の表現であって、威勢が良いのは悪くないことじゃないのかしらん、と思っていた程度で、囃し立てさえした。なんなら大人びたエイダ嬢とは良いカップルかもね、奔放な王と厳粛な王妃なんて理想じゃない、という雰囲気すら漂っていたのである。


 それは確かに理想的あって、以後のエイダの人生は、この理想をなんとか現実に可能な範囲で叶えるべく尽力したものだ。

 しかし、肝心要のエイダ自身の気持ちが置き去りだった。彼女がなんとかバルトウィンに振り回されながらもやってこられたのは、同年代に一人の理解者がいたからでもある。


 それがバルトウィンの実弟、第二王子ヴェルナーである。

 バルトウィンとエイダの婚約パーティーに同席した彼は、エイダの宣誓とバルトウィンの応答が誘った不可思議に微笑ましい空気の中で、たった一人、こんなことを言い放った。


「あ、兄上。そういうことではない……と思います」


 当時のヴェルナーは、幼子であるということを差し引いてもなお細い、頼りにならなさそうな子だった。利発そうではあるがひねくれもので、人の会話についていけるのかいけないのか、ふと流れと反対のことを突然投げかけるようなことがある。


 急に反論された当時のバルトウィンは目を丸くして、それから何もわからずに困惑した。パーティーに同席した諸侯たちは、変なときに変なタイミングで兄弟喧嘩が起きるかもしれないと唾を呑み、人によっては、このヴェルナー王子は厄介な弟君やもしれぬなどと考えた。


 ただ、エイダだけは、その率直な物言いに胸がすくような気持ちだった。


「ヴェルナー殿下」


 彼女はゆっくりと歩み出でて、ヴェルナーにも挨拶をする。


「殿下はたいへん、ご聡明でいらっしゃるのね」

「え、えっと……そう、じゃ、なくて、僕は、その」


 ヴェルナーからすればさっきの言葉は反射的に出たものだったから、話しかけられたことが予想外で、あたふたしながら返答せざるを得なかった。夢中だったから、言葉はエイダだけに聞こえる、とても率直な本心となった。


「エイダさまが、その、可哀想? と思って……」


 エイダは目を丸くした。

 当時のエイダはまだ六歳。未来の夫の拙さのっけから目の当たりにし、不安に駆られて仕方がなかった。

 正直に思い返せば、少し泣きそうにもなっていたのだ。


「わたくしは、バルトウィンさまの未来の妻として、殿下のような弟君がいらっしゃることを心強く思います。これから先、殿下に頼ることがたくさんあるでしょう」


 でも、周囲の空気だとか、兄だとか、王位のことではなくて。自分のことを気にかけてくれる友がいてくれるなら、状況はずいぶんと変わる。


「どうか、支えていただけると嬉しいわ」


 それ以来、エイダとヴェルナーは協力関係となった。



***



 翌朝、ヴェルナーから王都にあるホーエンベルグ別邸に手紙が届き、事の次第が知らされた。


 曰く、バルトウィンとセラフィナはかなり前から通じており、それはエイダがセラフィナに“おはなし”した後も続いていたという。

 それどころか二人の間ではエイダが悪者のような扱いになったようで、立太子が迫って巡幸の予定も確定したころに、あのように告発する手筈になっていたそうだ。今回ばかりはバルトウィンと言えど多少の根回しもしており、昨夜のパーティーで決行に至ったのも、今は国王が地方に出向いて不在だったからとのこと。諸侯の中にはこれを知っていて、ホーエンベルグ家を糾弾できるやもしれぬと、ちょっとした旗揚げの準備すらしている者もいるらしい。


 件の婚約破棄宣言については、もはや噂をとどめておくことは不可能になっており、バルトウィンの側も撤回するつもりはないそうだ。そして今、バルトウィンとフォーゲル嬢は、二人たっての強い希望で共に居るのだとか。


 手紙を読み終わったホーエンベルグ公爵は大きくため息をついた。


「……エイダ。バルトウィン殿下には監視をつけていたな。そういう素振りはなかったのか?」

「確認は、できませんでした。わたくしの不手際です」

「いや、おまえを責める気はないよ。監視の目を潜りぬけてバルトウィン殿下とフォーゲル嬢が睦言を交わしていたとしたら、何が考えられる」


 エイダは目を細め、窓から太陽が昇る様を見て考え、答える。


「伝書鳩……でしょうか。鳩でなくとも訓練された動物の類を使えば、手紙のやり取りくらいは可能かと」

「それは、微笑ましいな」


 ホーエンベルグ公爵は苦笑する。

 それから応接間のソファーにどかっと座って、懐からパイプを取り出し、火皿にたばこの葉を詰めて、ゆっくりと火を付ける。


 頃合いを見て、エイダは尋ねる。


「父上。バルトウィンさまが強権を発動させれば、婚約の破棄は可能なのですか」

「法的には可能だろう。そして残るは立太子のみという今、おまえのおかげで支持の地盤も固まっている。陛下の認可がなくとも、なし崩し的に王太子の身分を得たということにして、フォーゲル嬢を王太子妃に据えたと言い張るのは不可能ではない。その場合にケーニヒス領を賜れるかは定かではないがな」

「法的には、ですか」

「ああ。常識的には不可能だ。おまえたちの婚約は臣下が進言し、国王陛下が決め、私が了承したものだ。それを壊した場合には、王太子になったとてただでは済まん」


 ホーエンベルグ公爵は肺まで深く煙を吸い、ゆっくりと吐いて続けた。


「だがな、陛下は後継ぎたちに裁量を持たせている。そしてこれはこの国が元老院という組織を維持してきたことと組んで考えられるべきことだ」

「父上。それは……」

「私たちは先代が背負ってきた責務を忘れていたのかもしれんな。本来のホーエンベルグの役割は、王を見定めることだ。これは先王が、自らの血族を、自らの目以外の承認をもって後継ぎにしようとしたことに端を発する。それが時代と共に形骸化し、私たちには王子を支えるという役割だけが残ってしまった」


 エイダは、父の目が生き馬の目を抜く高位貴族のそれに代わっていたことを悟る。


「私の失態だ。エイダ。おまえには大変な役目を背負わせてしまった。そしてその上で、まだ求めることがあるのは、父親として大変心苦しい。ただ、これはおまえでなければならんのだ」


 ホーエンベルグ公爵は愛娘の目をじっと見つめた。


「おまえの目から見て、バルトウィン殿下はどうだ」

「どう、とは」

「王たる器か、と聞いている」


 エイダは唾を呑んだ。

 父が自分に何を聞いているのかわからない彼女ではない。そしてそれは、一人の少女の手に余る巨大な決断でもある。


 エイダが沈黙してまもなく、ホーエンベルグ別邸の正門がガシャンと音を立てて開かれた。馬車が停まっている。そこから一人の青年が降りてきて、すぐさま応接間の扉が開かれた。


 やってきたのは、第二王子ヴェルナーである。


「ホーエンベルグ公」


 眠っていないのか、目の下に隈があり、装いも最低限である。わずかな私兵と書記を伴うのみだ。


「兄上が、ネーベルメーアの教会に掛け合って、正式に婚約破棄の文章を出させました。同時にフォーゲル嬢との婚約も。来週の兄上の叙任式までには、すべて知れ渡るでしょう」

「……ネーベルメーアか。外国勢力にそそのかされたということかね」


 苦々しく眉を寄せて、ホーエンベルグ公はため息をつく。


「王宮はなんと?」

「無論、叙任式までにどうにかせねば、という話になっています。兄上の擁護派ですらそのように言っています」

「それはそれは」

「結末は二つに一つです。対外的にはかの婚約は破棄になったものの、現状を回復し、兄上に謝罪をさせることはまだ不可能ではないかと。擁護派が望む結末はこちらでしょうね。王家が被る痛手は大きく、貴公にも犠牲を強いることになりますが」

「……して、もう片方の結末は?」

「ホーエンベルグ公。叙任式までに()()()()()()、というやり方は一つではありません」


 ヴェルナーの目は据わっていた。


「僕もさすがに、愛想が尽きました」


 彼はそう言って、ホーエンベルグ公の方から、隣で座るエイダの方に視線を移した。


「エイダ。いつもの通り、君と僕で頑張って、兄上を助けるという道もある。……だが今回は、君の気持ちを聞かねばならない」


 これは奇しくも、先ほどホーエンベルグ公がエイダに問うたことと同じことである。

 エイダは息を吸って、答えた。


「わたくしも、覚悟が決まりました」



***



 バルトウィンの視点では、以後はすべてがつつがなく進んでいた。


 うるさい元婚約者は退け、有力者ヅラをしていたホーエンベルグ家も、一度はねのけてしまえば何も言ってこない。婚約の破棄が認められない恐れもあったが、そんなことは別の教会を利用すればどうとでもなる詮なきことだ。


 彼にはそのように考えて、立太子の叙任式の準備を独自に進めた。

 なお、進めたと言っても、基本は臣下に丸投げしている。彼はずっとそのようにして他者をこき使い、他者はそれに応じるものだと考えていた。


 叙任式当日の朝には、臣下に、王宮の庭に設置された天幕(テント)の中で待機するように言われていた。然るべき合図があれば親衛隊が覆いをめくって、民が万雷の拍手で殿下を迎えるから、と。


 バルトウィンは言われた通り、親衛隊に守られながら、セラフィナと共に天幕(テント)の中に入った。

 外では何やら準備が始まっている気配もある。さすがのバルトウィンと言えど緊張し始めて、隣のセラフィナに呟いた。


「セラフィナ。俺はおまえを妃にするぞ」

「……はい!」


 セラフィナも不安でいっぱいの中、赤髪をはためかせながら頷いて答える。


 しばらく経って、天幕(テント)の外から親衛隊の声がした。


「殿下。おいでください」


 バルトウィンはセラフィナの手を握る。そしてゆっくりと歩みだし、覆いをめくって、外に出た。


「……は?」


 そこに彼らが期待していたものは何もなかった。

 静寂である。音楽も何もなければ、民衆が迎えてくれることもない。


 正面には、第二王子ヴェルナーと親衛隊たちが立っていた。


「兄上。聞かねばならないことがあります」

「なんだヴェルナー。もう式が始まるぞ」

「その前に、今一度、エイダ=ホーエンベルグについて伺いたい」


 困惑する中でバルトウィンは、忌々しい名前を聞いたことで途端に不機嫌になった。


「それは今必要なことなのか?」

「ええ、大事なことです」

「なら早くしろ」

「兄上は、エイダさまがお嫌いだったのですか? それともそのフォーゲル嬢をものにするために、邪魔だっただけ?」


 バルトウィンはセラフィナを見ながら、勝ち誇った笑みを浮かべて言った。


「そんなもの、あの女が王妃として不適格だったというだけだ。なあセラフィナ?」

「そうよ! あの人、私とバルトウィン様が愛し合ってるのに、権力を使って私の家まで脅してきたの!」


 やはりその程度の認識か、とヴェルナーは心底呆れる。


「兄上。今日の式にやってくるはずの大使たちや、祝ってくれる臣下たち、あなたをいずれ王と奉る民草に対し、あなたは何か示す気があるのですか?」

「なんだその口の利き方は。あの女とお前になんの関係がある?」

「わかっていないのでしょうね。そういったことは、エイダさまがもたらしてくれたものだから。あなたが身に付けた知識やふるまいの何もかもは、国のためにあるのだと、彼女はそう言い続けてくれていたはずなのですが」

「おい、聞いているのか」

「……いや、そうじゃないか。そういうことを感じ取っていたからこそ、兄上はエイダさまを避けた」

「何が言いたい」

「つまりあなたはエイダの正しさと、その背後にある歴史と、人々の思いから目を背けただけだ」


 いくらバルトウィンといえど、ヴェルナーの物言いにいい加減勘付く。

 彼は明白に、バルトウィンとエイダを比べて、バルトウィンの方が格下であると宣っている。


「俺はあの女から、何一つ受け取ったことなどない! あの口うるさくて愚鈍な醜女は、俺の邪魔をしただけだ!!!」


 バルトウィンの大声が王宮の庭に響く。

 臣下たちと親衛隊は空虚な表情でその声を受け流した。


「……だそうだよ、エイダ。これが兄上の決断だ」


 ヴェルナーがそう言うと、親衛隊の間から、一人の淑女が歩み出でてきた。


「兄上。彼女を手放したことの意味を、その身をもって理解するといい」


 下がるヴェルナーと入れ替わりになって、その淑女──エイダ──が前に立つ。

 バルトウィンは周囲を見回して困惑する。親衛隊は、彼やセラフィナではなく、エイダの方について彼女を守っていた。


「おい、どういうことだ! 捕らえろ! この女はもう俺とは無関係だ!」

「エイダ=ホーエンベルグが、第一王子のバルトウィン殿下に申し上げます」


 エイダは混乱するバルトウィンに向かって、口火を切った。

 

「殿下のご婚約者の大任を拝し、はや十余年。わたくしは殿下の終生の伴侶たるべく研鑽を重ねつつ、恐れ多くも、殿下の王たる資質を拝察(つかまつ)る光栄を得ました」


 臣下たちも、親衛隊も動かない。この場にいる全員が黙ってエイダの言葉を聞いている。


「体躯壮健にして気勢旺盛。算術および地理の学におかれましてはやや不得手のご様子ながら、その威勢から、言をもって人を制し、応酬の場においては一歩も引かぬ才をお持ちです」


 エイダは一息を吸って、続ける。


「が、気性に難ありと拝察します。あるいはその豪胆さが良き力となるやもしれぬと期待しましたが、成人の齢に至られてもなお改善の兆しが見えません。このままでは外交はおろか、(まつりごと)もおぼつかないでしょう。また、御身の節をわきまえられず、所構わず情を交わされる御振る舞いは、王家の血脈を乱し、王国の未来に陰を落とす恐れさえございます。よって謹んで奏上いたします──」


 そして最後に、次のように言い放った。


「──バルトウィン殿下におかれましては、王たる資質が備わっておりません」


 わけのわからぬうちに頭から否定をされ、バルトウィンの頭に一気に血が上った。


「なんだと、貴様」

「わたくしの報告に基づき、元老院筆頭たる当家の主が臣下を招集し、元老院での会議がもたれました。慣例にしたがい、以後は元老院による上奏をもって、陛下の御裁可を仰ぎ奉る所存です」

「何をわからぬことをごちゃごちゃと! 不敬であるぞ!」


 バルトウィンはエイダに掴みかかろうとする。が、鋭く太い槍が交差して、盾のように彼女を守った。


「そもそもこれはどういうことだ! 俺の叙任式はどうなった!」

 

 そのとき、ざっと靴の揃う音がした。そして水面が割れるかのごとく臣下たちが頭を垂れ始め、その間から、一人のひげを蓄えた大男が歩み出でてきた。

 バルトウィンはその男の顔を見た瞬間に固まって、呟いた。


「……父、上?」

「我が息子バルトウィン。おまえには失望したよ」


 現れたのは、国王その人である。


「元老院がおまえの立太子に異議を申し立てた。エイダ=ホーエンベルグが受けた仕打ちと、おまえの適性が疑われる過去の事件をまとめ、筆頭のホーエンベルグ公爵が元老院に問うた形だ」

「なっ──、陛下! まさか承認を!? 元老どもに屈してはなりませぬ!」

「おまえにそう思わせてしまったのは、余の落ち度だろうな」


 国王は深くため息をついた。


「元老院の権能は国王たる余への進言に過ぎん。あくまで判断するのは余だ」

「なら!」

「そして此度はその進言を、受け入れることに決めた」


 その言葉を聞いた瞬間、バルトウィンの顔から力が一気に抜けた。


「初めはな、王位の争いなどない方が良いと思ったのだ。余が目にした凄惨な戦いを、おまえたちに味わわせたくなかった。だが、致し方ない」


 バルトウィンは、悪い夢でも見ているかのように四方に目を遣る。

 しかし返ってくるものは冷たい無関心か、見下しの目線だけ。


 これは絶対に覆らない。


 そう確信するまでいくばくもなかった。


「おまえは騎士団にやる。前線で民の盾となれ。王子ともなれば陽動に使えるだろう。交渉の材料にはならんがな」


 国王は右手を挙げ、背後に控えた親衛隊に合図をする。するとぞろぞろと精鋭たちがバルトウィンを抑えにかかる。


「待ってください! 父上! 父上ぇーーー!」


 いくら喚いても、同情する者は誰もいなかった。



***



「ああああああああああああああ!」


 セラフィナの慟哭で、初めて人々は彼女が捨て置かれていたことを思い出した。

 どうしようこの娘、と困惑する周囲だったが、親衛隊に取り押さえられていたバルトウィンのみが大声で応えた。


 「セラフィナあああああああ!!!!!!」


 その滑稽な様子を見て、エイダとヴェルナーはほほ笑んだ。


「……終わりましたわね」

「うん。エイダ。君には本当に、苦労をかけてしまった」


 エイダは呟き、ヴェルナーは頭を振って応えた。


 そのとき、親衛隊の一人がぽーん、と空中に飛んだ。バルトウィンが投げたようである。事態が収束すると思っていた臣下たちは一瞬ざわめいたが、すぐさま人員が追加され、ようやく彼は捕縛された。


「バルトウィンさまも、腕っぷしは褒めて良いくらいなのに」

「……まあ、今の時代の王には不要なものだよ」


 ヴェルナーは溝に唾を吐き捨てるように、そう付け加えた。

 エイダも同意する。バルトウィンに関しては、なまじ小さなころから腕っぷしが強かったことが災いしてあのような性格になってしまったことも考えられた。その点、昔からもっぱら文官向きであったヴェルナーは兄を反面教師にして──

 

 ──あら?


 のように考えている途中で、彼女ははたと気づいた。

 内容はとにかくとして、このことを吐き捨てるように、そして半分勝ち誇るように、()()()口に出すことは、ヴェルナーにしては少々迂闊というか、彼らしからぬことだった。


 彼女は今、ヴェルナーが零した言葉から、彼らしからぬ感情的なものが垣間見えたことを見逃さなかったのだ。


 エイダは目を丸くして、ヴェルナーの横顔を見た。 


「ヴェルナーさま、あなた」

「なに?」

「もしかして、昔から妬いてらしたの?」

「ぶふぉっ!」


 ヴェルナーは急にむせた。


「ぼ、僕が兄上なんぞに妬いてる? それじゃまるで私怨で──」

「誰が誰に妬いてる、だなんて言っておりませんことよ?」

「ぐふぅっ」

「なるほどなるほど」


 先ほどまで凛としていた青年の顔が真っ赤に染まり、高い背を曲げて顔を覆い隠す様を見て、エイダは確信する。

 つまり、生まれもった使命とはいえ、バルトウィンと仲睦まじく見せ、上手くやっていくためにヴェルナーに協力を仰ぐというのは、当人からすればはなはだ残酷な仕打ちだったわけである。


 ──それは、悪いことをしたかしら。


 そう思いながらエイダも、自身の気持ちに気づいてしまう。


「あ、あー! そんなことより、兄上の立太子が台無しになったのだから、次の話が大切だ! 元老院が王の選定に口を出し、陛下が受け入れたということの意味は大きい。これから継承権争いが始まるだろう。君についても、結婚の直前で破談になってしまったということだし」


 心が解放されて、踊るようで、そしてこのヴェルナーという青年の純粋な反応が、とっても可愛らしく見えたのである。


「ヴェルナーさま」


 エイダはぶつぶつ言っていたヴェルナーの両手を掴み、ぐっと自分の方に引き寄せた。


「え? え、なに?」

「かつて、ホーエンベルグの女は“聖杯”に喩えられた──」


 そしてその両手を自身の腰の両側に添えさせて、互いに向き合う形になる。

 エイダはいたずらっぽく笑いながら、前に大きく跳んだ。


「ほら! 持ち上げなさい!」


 突然だったから、ヴェルナーはもちろんバランスを崩してふらふらする。しかし、かけられた言葉の意味を解して、なんとか踏ん張って耐える。


 第二王子だった青年はか細い腕で、誰よりも愛しい令嬢を掲げた。

ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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※11/07

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※11/11 

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― 新着の感想 ―
聖杯というより祝杯ですな。 若き王太子達に幸あらんコトを。
トンチキに政務は無理だからこそ、スペアである第二王子がいる訳で、国王はこのような事態になる前にトンチキは処分すれば良かったのに。 取り敢えず、略奪馬鹿女の家には責任取らせないと。トンチキのやらかしに…
ヴェルナーにとってエイダは、王権の象徴たる聖杯じゃなくて、ただ愛する女性なのだ…と深読みしてニコニコしました。 弟から兄へ向ける嫉妬心が確かにあったというところ、うまく言えないけど何となく好きです。何…
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