新生活が始まって
もしよければお読みください。
朝、目が覚めると部屋の扉の向こうから、何かを焼いている小気味いい音が聞こえてきた。枕元で今日も一日、酷使していくであろう携帯を手に取り時間を確認すると時刻は6時12分だった。
今日から初めての環境で初めての仕事が始まるので、昨日の夜は早めに自室に戻り部屋の灯りを消し、ベッドの中に潜り込んだが、緊張しているのかなかなか眠ることができず気が付けば携帯が手の中にあり、動画サイト内にある趣味の動画を見漁っていた。
窓を開け新鮮な空気を部屋の中に取り込み、目いっぱい深呼吸をし、体の中に溜まった鬱々としたものを全て交換した。
「あっ、おはよう。朝ごはん準備できているから食べて言って」
まだ朝だというのに彼女は既に軽快な様子だった。西宮結花は一緒に暮らすためのルールを忘れることなく守ってくれており、その正直な姿に好感を抱いた。
「おはよう、いただきます」
髪も髭もまだ何も整えておらず、傍から見れば落伍者のような風貌だったが彼女はそんなことは気にも留めてない様子で次々に目の前に食事を運んできてくれ、最後に暖かい緑茶を入れてくれた。
「どう、おいしい?」
「うん。朝からこんな料理が食べられるなんて思ってもなかったよ。正直一人暮らしが始まるって想像したときに朝食なんて、トーストにジャム塗って食べるか、適当に白ごはんに納豆か何かかけて食べるだけだなって思ってたぐらいだし」
「だめだよ。朝しっかり食べないと倒れるかもしれないし。朝は眠たくってもしっかり食べないと」
彼女は諭すような感じで、でも別に説教されているような気は全くせず、純粋にその言葉を受け入れることができた。
「それに、小学校で働くんでしょ?食べないと子どもたちに負けちゃうよ」
「そうだね」
彼女の言葉をだしの味がしっかりとした味噌汁と一緒に飲み干すように体の中に流し込んでいった。
「ところで、食べないの?」
ふと彼女の方を見た時に俺の目の前には豪華な食事が用意されているにも関わらず彼女の前には、お茶を入れたコップが一つだけしかなかった。
「あっ、うん。亮介君が言った後に食べようと思って。実は朝起きてからすぐ食べると私、お腹の調子があまりよくないんだ。だから、いっつも起きてから三時間ぐらいして食べてるんだ。別に病気とかじゃなくて精神的なものだと思うんだけど、でもそう言うことだから気にしないで」
「そう、でも食べたいものとかあったら言って。買って帰ってくるから」
「ありがと。それじゃあ駅前にあるカフェの新作ドリンク買ってきてほしいかな」
彼女の携帯にはその店のホームページが載っており、一番上に出てくる「桜フラペチーノ」の文字が春の鮮やかな桜色と草花の芽吹きをイメージ穏やかな黄緑色でその存在を主張していた。
「おいしそうでしょ?」
彼女の言葉から飲んでみたいという気持ちが強く表れるかのように、彼女の携帯がこちらに突き付けられた。
「うん、確かにおいしそう。それじゃあ帰りに買ってくるね」
「ありがと」
その後はテレビから流れる自分たちとは関係の無い土地でのニュースを見ながら、二人で他愛無い話をしながら過ごした。
「それじゃあ、行ってきます」
靴を履き横に置いてあったカバンとゴミ袋を持ち扉を開けて見送ってくれる彼女に目を向けた。
「いってらっしゃい。あっそうだ、夜ご飯の準備もしておくからお腹すかして帰って来てね」
「分かった。それじゃあ行ってきます」
扉を閉めた。彼女は姿が見えなくなるまでこっちを見ていてくれた。
今日から務めることになった小学校に着くと既に何人かの人がいた。事務室に顔を出すと教頭を呼びに行くから少し待っていてくれと言われ別の部屋へ案内された。待っている間、部屋の中にあるものを一つ一つ確認しながら時間をつぶしていると扉が開き二人の少し年配の男女が立っていた。
「おはようございます。これからお世話になります。坂上亮介と言います」
あらかじめ決めておいた言葉を吐くと二人の男女は部屋の中に入りながら、挨拶と自己紹介を始めた。
「おはよう。この学校の校長をしている友国と言います。それでこちらが教頭の村中と言います。今日からよろしくね。坂上先生」
「教頭の村中と言います。この学校のことで気になることとかがあったらすぐに相談してね。これからよろしく」
二人の管理職は丁寧にかつ相手の目を見て話しのすることのできる人達だった。
「それで。今日なんだけど8時45分くらいに挨拶してもらおうと思うから、よろしくね。あっあと、坂上先生以外にも今日から2人の先生がくるから、よろしくね」
一体何がよろしくなのか分からないがとりあえず素直に返事をしておいた。そうしてそのあと他の二人という人達が部屋の中に入ってきた。部屋の中で互いに挨拶を交わし無難な話題で気まずくならないようにこの学校の職員への挨拶までの時間を過ごした。
「今日からお世話になります、坂上亮介と言います。教員という仕事について、いろはのいも分かっておらず、ご迷惑をおかけすることになることもあると思いますがどうぞよろしくお願いいたします」
言い終わると職員室の中では拍手が起こり、その後残った二人も同じようなことを言い、つつがなく顔合わせは終了することとなった。そして今日から来た三人含め、自分が何年を担当するのか発表があり、机の移動などが済んだあと、今日から来た三人は事務手続きを済ませるために職員室から事務室へ移動することになった。そして午後になり、お昼を食べた後定時になり少しずつ人が減り始めた。
「坂上さんも今日は早く帰りな。子どもたちが来たら嫌でも遅くなる日があるから、帰れる日に帰ってた方がいいよ」
その人は既に十年以上教員をやっているらしく、毎年の恒例というように束の間の安寧を過ごすように勧めてくれた。
「ありがとうございます」
愛想よくそう答えるとその人はそれじゃあと言って自分の席に戻っていった。その姿を目で追いながら隣で帰る支度をしている岡本先生に自分も帰ることを告げた。
「お先失礼します」
職員室全体に聞こえるように声を出し学校を後にした。
電車のホームに着くと人がまばらに立っておりどこか座れる場所が無いか探してみるが無かった。仕方なくカバンの中から携帯を取り出し昨日見ていた動画の続きを見るためにイヤフォンを耳に挿しこんだ。周りの音が一瞬でなくなり、すぐに自分の世界に没入することを可能にするこの機械は現代ではなくてはならないものだと思いながら、画面の中で悪ふざけをしている5人組のグループに意識はくぎ付けになっていった。しばらくして駅の電光掲示版に示されている到着時刻を眺め画面を見るとあと一分で駅に電車が付くことが分かり、動画を消して音楽アプリで好きなアーティストの曲を再生し、先ほどまで動画を見ることに使っていた視線を電車が来る方向に向けた。
電車がホームに入ってくると4月とはいえまだまだ冷たい風が体に叩きつけられるかのように吹き付けてき、思わずスーツの上から来ていたコートの襟を立てた。扉が開くと生ぬるい風と共にその駅で降りる客が下車していきそれを見送った後、中に入っていった。車内は外とは違い快適な気温に保たれており、先ほどまで寒さで収縮していた血管が拡張し、せき止められていた血が血管内を我先にと走り回るのを肌の内で感じ取った。
「次は~・・・」
最寄り駅の名前が言われ降りる準備をしながら窓の外を眺めると既に太陽の八割以上が地平線の彼方に沈み込み、陽の光が生み出すオレンジ色と宇宙が生み出す青黒い色がグラデーションになりながら綺麗に混じりあっていた。そして最寄り駅に付き、駅のホームを抜け出すと空の色は青黒くなっておりところどころに星が輝く空を眺めながら歩いていると西宮結花の髪色を急に思い出した。
「あっ、忘れてた」
朝約束していたことを思い出し、急いで駅の近くのカフェに寄った。注文が終わり横にずれて待っている間に店内を見回すと高校生や大学生がひしめき合うようにおり、店は大繁盛しているようだった。しばらくすると自分の注文番号が呼ばれカウンターに行ってみると二つの商品が袋に詰められ、それとは別に売られていた小さめのドーナツ2つが袋の中に入っていた。
店を出て急いで家まで帰った。家の扉の前に着き扉を開けようとしたが鍵が見つからずカバンの中を漁っていると扉が一人でに開き、扉の向こう側にはエプロンを付けた西宮結花が不思議そうな顔をして立っていた。
「お帰り、亮介君。どうしたの?何かないの?」
「鍵が見つからなくて」
「だったらインターホン押してくれたらいいのに。どれくらい外にいたの、寒かったでしょ?」
「ありがと、でも今帰って来たばかりだから大丈夫」
「そう、それならよかった。入って」
彼女に導かれ部屋の中に入ると体にまとわりついていた凍てつく冷気が瞬間に溶けだしていった。
「それで、どうする?お風呂にする、ごはんにする?それとも・・・」
「寒いのでお風呂でいいですか」
「もう、最後まで言わせてよ。一回言ってみたかったんだから」
彼女はコートをハンガーにかけながら不満そうにそう言った。でもすぐにこちらを向いてタオルと着替えを手渡してくれた。
「はい、お湯湧いてるから温まってきてね。あがったらごはんの準備しておくから。あとこれありがとね」
彼女は先ほど買った新商品が入った袋を顔のすぐ横まで持ち上げて嬉しそうに部屋の中に戻っていった。
風呂に入ると浴室が暖房で温められており、とても快適な空間になっていた。部屋を決めるときにお風呂に関しては少し気を使ったつもりで、いたため今の状態はとても満足のいくものだった。椅子に座り今日一日の疲れを汚れと共に頭からシャワーで流し落とし、その後体についた汚れを全てこそげ落とすように体を磨いた後、浴槽に身を沈めた。もちろんあーという声も忘れないように。
風呂からあがり、リビングに入ると部屋の中は豊かな夕食の香りが漂っており思わず腹の虫がなった。
「あっ、お疲れさま。ほら座って」
席に座るように急かされ、席に着くと色鮮やかな食事が次々に運ばれてきた。中でも驚いたのが肉と魚が両方とも食卓に並んでおり、そのどちらも美味しそうなのが分かる仕上がりだということだった。
「これ、準備するの大変だったでしょ?」
西宮結花の目を見ながら聞くとそんなことないよと言いたげに首を振った。
「これぐらい普通だよ。それに私がしたいからするんだから気にしないで食べて。それよりも料理の感想を言ってくれる方が嬉しいかな」
そう言われて料理に手を付けたが、味は想像以上のものだったので箸が止まらなくなった。
「あはは、慌てなくても大丈夫だよ。全部亮介君の物だか」
彼女は小さい子どもを見るかのような目線でこちらを見てきたが、別に馬鹿にされているようには感じなかった。
「えっ、食べないのかだって?うん、私はいいの。ちょっとお昼に食べ過ぎちゃって、ほら朝言ったでしょ、私朝起きてすぐ食べないって。それでいつもお昼ご飯と一緒にまとめて食べるから夜あまり食べられないんだよね。あっ、でも味見ついでにちょっとずつ食べてはいるから別にお腹は大丈夫なんだ。それよりもさ、どうだった初めての職場は」
そう言って話の話題を振ってくれたので今日あったことをいくつか、かい摘んで話したが別に子どもがいるわけでもなく特別面白い話などは無かったが、どんな話を聞いても彼女は嬉しそうに聞いてくれた。
「いろんなことがあったんだね。また明日からも頑張ってね。でも、疲れた時は休んだ方がいいよ。先輩からのアドバイス」
「うん。ありがと」
二人の間に変な空気が漂っているのが分かるが別に性欲やそれに通ずるものではなかった。なんというか本当に穏やかな気分になれる類のもので、できるならばずっとその空気の中で生活したいと思えるようなものだった。そんな満たされた雰囲気の中での食事は終始和やかなまま終わっていった。
「それじゃあ、お休み」
「うん。おやすみ」
食事が終わり適当に流していたテレビのバラエティー番組を二人で見た後、自分の部屋の前で今日一日を労うような気持ちを込めて互いに挨拶を交わしてそれぞれ自分の部屋に戻っていった。アラームをセットしベッドの中に潜り込んだ後、目を閉じて耳に飛び込んでくる壁掛け時計の秒針が時間を刻む音に意識を向けていると少しずつ意識が朦朧としてきて気が付くと深い眠りに落ちていた。
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