1-8 掖庭令の依頼
「それにしても、やはり深玉さんの腕は素晴らしいですね。いつから筆跡鑑定を覚えられたのです?」
深玉は一瞥するだけに留める。
「……仕事中に私的な話はしたくないのだけど」
言外に話したくないと伝えたつもりなのだが、夏丞に気にした素振りはない。
「そうですか。では、仕事が一区切りついた今はいいということで?」
「なにもよくない」
思わず丁寧な口調を忘れてしまった。うんざりと深玉が椅子から立ちかけたところで。
「やはりお父君からの教えでしょうか」
夏丞の落とした言葉に、深玉は固まる。それを肯定だと受け取ったのか、夏丞は興味深そうに身を乗り出す。
「あなたのお父君は、他に類をみない正確な鑑定士だと、とても高名でしたからね」
高名――それは、どちらの意味だ。
変わらず笑みを浮かべる夏丞に深玉が歯噛みしていると、ふいに夏丞が扉の向こうへ顔を向けた。つと目が細められる。
「誰か来ます」
耳を澄ませど深玉の耳は音を拾わない。聞こえない――と言いかけたところで、ようやく筆録房の扉の向こうから急いた足音がした。凛凛が取次に向かう。
「失礼する」ひとりの宦官が入室してきた。「ここに姚夏丞はいるか」
人名に疎い深玉でもさすがにこの人の顔と名前は把握していた。自然と背筋が伸びる。
冷徹な面立ちに、感情を乗せない瞳。後宮に身を置くものならば一度は目にしたことがあるだろう、掖庭を取りまとめる宦官の若き長、霍漣衡である。
「これはこれは掖庭令。私に何用でしょう」
夏丞がにこやかに彼のもとへ向かう。
「蓉昭儀の居室を物色していると聞いていたから、どこへ行ったのかと思えば。こんなところにいたのか」
「探させてしまいましたか? 申し訳ございません」
「それは構わないが」
霍の視線が一瞬深玉へ向く。その冷えた瞳に射抜かれると、自然と背筋が伸びた。
「話がある。場所を変えよう」
夏丞はわずかに逡巡する素振りをみせたが、「ここで構いませんよ」と言う。
「そうか」
霍は頷き、懐から折り畳まれた紙片を取り出した。
「蓉昭儀の臥室にある文几からこれが見つかった」
夏丞が受け取り、中を開く横で霍が腕組みをしている。
「抽斗の裏に隠して入っていたと、部下から報告があった」
「なるほど……これを見たものは?」
「私の部下くらいだ。尚宮の女官に託そうとしたんだが、忙しそうでつかまらなくてな。面倒だが持参した」
「そうでしたか」
わざわざ掖庭令が持ち込むほど、急ぎの案件なのか。
「預ける。俺では立ち回れない」
「もちろんです。承りましょう。……深玉さん」
逃げようがない。夏丞が当然といわんばかりに、こちらを振り返る。
「筆跡の鑑定を、お願いできますね?」
まだ、この依頼は終わりそうにない。霍が筆録房を後にするまで、深玉は気が重かった。