1-6 蓉昭儀の侍女
夏丞の袖を引き、耳打ちする。
「あのふたり、おそらく蓉昭儀さまの侍女です」
玉を縫い込んだ刺繍帯は、妃嬪付き侍女の証である。
「では、彼女たちにお話をした方が早いでしょうね」
夏丞が彼女たちに近づいていく。先程のことをあえて問うてこない夏丞に、どこか安堵する。距離をあけ、男の背中を追うことにした。
「お忙しいところ申し訳ございません」
夏丞が背後から侍女らに声を掛けると、ふたりは肩を揺らして振り返った。
「これは失礼。驚かせてしまいましたか」夏丞は微笑む。「私は蓉昭儀さまの件で外廷からまいりました、調査官の姚夏丞と申します」
「か、官人の方……? あの、私たちに、なにか」
細面の女性がおそるおそるといった雰囲気で夏丞を見上げる。歳は深玉より下か。品のいい顔立ちに、薄化粧がよく似合う。
「お話をする前に、まずはあなた方のお名前をお伺いしても?」
夏丞の顔に甘やかな笑顔が咲く。ふたりは顔を見合わせると、絆されたように口を開いた。
「私が胡雪燕で――」細面の女性が先に話し出す。「横の子が、張沙李です」
沙李と呼ばれた娘が、縮こまって頭を下げる。小柄で愛らしい顔立ちをしているが、今はすこぶる顔色が悪かった。
「では、雪燕さんと沙李さん」
夏丞が自然な流れでふたりの背を押し、室内の隅へと誘う。
「私たちは今、あの方が遺した手記や書きつけなどを探しているのですが、なにかお持ちではないですか?」
「昭儀さまのもの、ですか? それは、何故……」
沙李が不安げに手を握り合わせる。
「確認したいことがあるのです」夏丞が安心させるべく笑みを浮かべるが。「大丈夫です。心配なさらずとも、お借りしたものは確認が済み次第、すぐにお返ししますから」
「でも、室内のものはそのままにしろと、杜尚宮局長から言われておりまして……」
沙李が助けを求めて視線を彷徨わせ――そして、夏丞から離れたところで見守る深玉に目を留めた。
「あの方は……?」
夏丞が振り返る。「筆録房の陶深玉さんですよ」
「筆録房の、陶さま……?」
雪燕の目が深玉の裙へと吸い込まれていき――その色に気づいたようで、恐縮して頭を下げられた。
「も、申し訳ございません。不躾な態度をお許しくださいませ」
立場というものは面倒くさいものだが、安心もできる。こうして人との間に絶対的な一線を引いてくれるから。
「筆録房はたしか、書面の確認や検閲を行う部署でしたよね……?」
沙李が戸惑いがちに深玉を見つめる。
なんといえばいいか迷い、「……間違いではありませんが、筆跡鑑定をもとに書簡の検閲を行うのが主な業務です」
結果、突き放したような言い方になってしまう。
「で、では、昭儀さまの遺書になにかご不明な点でも?」
沙李が声音をかたくする。
「安心してください、そのようなことはなにもありませんから」夏丞が握り込まれた沙李の手に触れる。「昭儀さまほどの方になりますと、詳らかに主上へご報告する必要があるのです。そのための形式的な手続きですよ」
よく淀みなく嘘がでてくるな、と深玉は思う。それでも沙李の表情は晴れない。
「そう、なのですか」
「ええ。主上は昭儀さまの一件に深く御心を痛めておいでですから」彼の指が労るように沙李の手へ絡む。「雪燕さんと沙李さんも、さぞお辛いことでしょう」
雪燕はわずかに思い出すような仕草をすると、眦に涙を滲ませた。
「ほん、とうに……」何度も頷き、声に嗚咽が混じる。「まさか、こんなことになるだなんて……」
忠義をもって仕えていた主を亡くしたのだ、その心痛を思うとこちらまで苦しくなる。
彼女の涙に、沙李も俯いてしまう。「やっぱり、呪われている場所に住むべきじゃなかったんだわ……」
夏丞が牀榻へ視線を向ける。「最初に昭儀さまを発見されたのはおふたりと聞いています。遺書は枕元にあったのですよね?」
「はい、そうです」
沙李は悲しげに目を伏せた。
「服毒と聞いていますが、ご遺体を診た太医はなんと?」
雪燕が声を震わせ、顔を覆った。
「お酒に毒を、混ぜていたんじゃないかと……」
「具体的には」
「寝酒で……いつもご就寝される前に一口飲まれるものがあるんですけど……そこに烏頭、だとか言っていました」
「烏頭、ですか。即効性の劇薬ですね」夏丞が深玉へ視線を寄越す。……なんだ。「就寝間際に飲まれて、そのまま亡くなられたのでしょう」
夏丞がくいと顎を反らす。こちらへ来いと言っているようだ。
「詳しい死因は太医からの報告書を待つとして……ああ雪燕さん、そんなにお泣きにならないで。辛いことを聞いてしまいましたね。申し訳ございません」
「そんな、お気遣いありがとうございます……」
泣き崩れる雪燕の肩を抱いている夏丞の様子に、深玉はどうしたものかと思案する。
雪燕と沙李はずいぶんと夏丞に心を許したようではある。深玉の一押しがあれば彼女たちは動いてくれそうな雰囲気ではあるが――女を籠絡して情報を得ようとしている場に呼んでほしくはなかった。ただただ気まずい。
深玉は夏丞を一瞥すると、咳払いを落として口を開く。
「遺書が昭儀さまの遺された声だと、ただ確認したいだけです。筆録房が確認した後、書きつけはすべて返しします」
あくまで後宮内での手続きだと印象づける。外に持ち出されるやもと思わせるより、ずっといいだろう。
「でも、杜尚宮局長が……」と、沙李が顔を曇らせるが、それを雪燕が押し留める。
「確認していただきましょう。昭儀さまが生きておられたら、きっとそうおっしゃると思います。あの方は、とても真面目な方だったもの」
「ご協力ありがとうございます」夏丞が雪燕の顔を覗き込む。「昭儀さまはあなたのような誠実な侍女をもって、さぞ幸せだったことでしょう」
「そ、そんな」
雪燕の白い頬に朱がのぼる。
深玉は打てど響かずだった己を思い出す。そうか、これが正しい反応か。
「こちらが昭儀さまの手記です」
沙李が小さな文箱を持ってきた。「私も雪燕も昭儀さまの侍使を兼ねていました。全てではないですが……最近のものも入っているはずです。どうぞすぐにお返しください」
「ありがとうございます」
侍使とは、主の代わりにそばで筆を執る役割のことをいう。彼女たちは日常的に蓉昭儀と書面のやりとりがあったということだ。
深玉は受け取り、はたと背後を振り返る。目付役の女官たちに見られては困ると思ったのだが。
「あれ、人がいない……」
室内にはまばらに宦官がいるのみで女官の姿は見られなかった。
なぜ、と問おうとする深玉を急かして夏丞が腕を引いてくる。
「好都合です。さ、今のうちに出ましょう」
ふたりはひっそりと蓉昭儀の居室を後にしようとする――が、外へ出るとすぐに足止めを食らってしまった。来たときにはなかった人垣があったのだ。
門から殿舎へ伸びる白砂に、緊張を帯びた女官と宦官が傅いている。人垣から垣間見えたのは、弔いの白を着込んだ美しい女性だった。黒黒とした横髪からのぞく、柔和な横顔が印象的で。まみえたことはないが、周囲の様子からすぐに察する。
――あれが、煕貴皇后か。
後宮を統べる女主人の弔問とあらば、物々しくなるのも頷ける。だからみなが出払っていたのか。
みなが出迎えのために扉口に押し寄せる間隙を縫い、深玉たちは水祥殿から離れた。