1-5 透ける過去
蓉昭儀の臥室は、昭儀の位にあった者とは思えないほどにこざっぱりとしていた。調度品や物が少ないのだ。あまり外に出ない人だとは聞いていたが、物にもこだわりがない性だったのかもしれない。
奥の牀榻には衝立が立てられていた。この奥に蓉昭儀の遺体があるのかと思うと、喉が絞られるような息苦しさを覚える。
享年、十九。深玉と同じ歳である。花の盛りでの夭逝に、太医署から派遣されてきた医官らの表情は沈んでいる。
「こちらが遺書だそうです」
行き交う宦官の中で、上背のある夏丞は一際目立っていた。深玉は女官の間をすり抜け、手のひらほどの紙切れを受け取る。
内容をあらためて――深玉は眉を寄せた。
都是我的錯,請原諒。(すべて私の責任です、どうか許してください)。
偽遺書で見せられたときと、全く同じ文面がそこに綴られていたからだ。
「どうしてあなたは遺書の内容を知っていたんですか。はじめてここへ来たんですよね?」
夏丞はやんわりと微笑む。「あらかじめ掖庭より内容を漏れ聞いておりましたから」
遺書の意味もなにもない。故人の言葉に対してなんとも軽い扱いである。
「それに刑部の件、どうして黙ってたんですか」
「言ったらあなたは承諾してくださらないでしょう?」
舌先三寸の男め。
深玉は内心憤りながら紙片を裏返す。墨のにじみは、ほとんどない。
「紙は……上質な玉版宣。妥当ね」
「他にわかることは?」
「たった一文ですし、蓉昭儀さまの他の筆跡と比べてみないことには、この場ではなんとも」
そう伝えると夏丞は首をすくめた。
「そうですか。困りましたね」ちらと背後を確認する。「遺書の持ち出しは許可していただけないようです」
深玉も彼の影から確認すると、鋭い目をした女官らがこちらを監視していた。深玉たちが杜の意にそぐわぬ行動でもしようものなら、ここからつまみ出されるに違いない。深玉はわずかに逡巡すると、ため息を落とす。
「はあ……少しの間でいいので、わたしをあなたの背に隠しておいてもらえますか?」
深玉は懐から筆囊を取り出すと、布を解いて筆と紙を引っ張り出した。
依頼を終わらせねばこの男から解放されないのであれば、他に手はない。
「なにをするんです?」
夏丞が興味深そうに手元を覗き込んでくる。
「蝋紙で遺書を写し取ります」
深玉は薄い半透明の紙を広げ、卓に置いた蓉昭儀の遺書に重ねる。
「わたしが筆跡を模写するので、正確な蓉昭儀さまの遺書ではなくなりますが……これなら持ち出してもいいはずです」
「それは素晴らしい」
「あなたは女官たちの気を引いておいてください。なるべく早く終わらせます」
深玉は夏丞の背に隠れるようにして縮こまり、小さな墨瓶を開ける。筆を浸し、蝋紙ごしに透けて見える蓉昭儀の筆跡をなぞっていく。
夏丞が用意した遺書とは違う、彼女に近しい筆跡だとは思うが、まだ断定はできない。楷書で書かれている分、模写は比較的容易かった。
目付役の女官が何事か言っているが、夏丞が受け流しているのを背中越しに聞く。
「……よし、できた」
一通り模写が終われば、次は全体か。
墨の掠れや濃淡までは写すことができない。よって、文字に遺された情報は目に焼き付けねばならない。
一画ずつ目でなぞる。運筆は遅く、送筆にも固さが残る。迷いか、慎重さか――文字の中に己が沈み込んでいくような感覚が、頭を冴えさせる。
淡々と並ぶ文字は、感情を排しているようにも見えて。蓉昭儀がどんな想いで筆を執ったのか、深玉には判然としない。
けれど――自死は唐突に訪れるものなのだと、深玉は知っている。
降り積もった感情や、凝った想い。それらがふと心からこぼれ落ちたとき――人は、死を選ぶ。
だから人はこわいのだ。内面に渦巻くものは、いつだって不鮮明で。
文字の嘘は見えるのに、人の嘘は見えない。
自分は今もおそれている。
嘘にすがって、母を見送った日から、ずっと。
「――深玉さん」
はっと、夏丞の声に意識が引き戻された。
「次は手記を探しに行く、でよろしいのでしょうか」
顔を上げる。知らず息を詰めていたようだ。指先が冷たく痺れていて。
こちらを窺うような表情の夏丞と目が合う。
「なんでもありません」絞り出した声が掠れていた。
深玉は筆先を紙で拭うと、息を吐き出す。
死に引きずられるな。切り替えろ。
「蓉昭儀さまの、普段の書きつけや、手記でいいので……いくつかいただけると、鑑定の精度があがります」
夏丞から物言いたげな視線を感じるが、それを断ち切り、深玉は室内を見回す。清掃の女官に混じり、特徴的な帯を締めた女性ふたりの姿が見られた。