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0 後夜


 筆録房(ひつろくぼう)の涼しさがもう恋しい。

 深玉(しんぎょく)は腕いっぱいの箱を抱え直しながら、顔をしかめた。門を抜けて屋根のない走廊(ろうか)に出ると、ここぞとばかりに燦々(さんさん)と太陽が脳天を焼いてくる。


「溶けそう……」

 深玉がうんざりとぼやけば、横で快活にお喋りをしていた凛凛(りんりん)がきょとんとする。

「そうですか? 夏ってこんなもんですよう」

「なら早く冬が来てほしい」

「たぶん深玉さまは、冬が来たら来たで、寒いし辛いとおっしゃるんじゃないですか?」

 ずいぶん鋭いことを言うではないか。


「そんなことより、楽しみですねえ!」凛凛が引っ越し荷物を胸に抱きしめ、目を輝かせる。「外廷なんて初めてです! どんなところなんでしょう!」

 無邪気にはしゃぐ凛凛を横目に、深玉は苦笑を漏らす。元気そうでよかった。一時はどうなることかと思った。

 平素と変わらぬ凛凛だが、頭にはまだ痛々しく包帯が巻かれている。


 あの夜から、すでに一月(ひとつき)

 目まぐるしくも、長い日々だったと思う。


 夏丞(かじょう)と別れた後、深玉は迷いなく掖庭局(えきていきょく)に駆け込んだ。(かく)掖庭令は渋い顔をしつつも、甲斐甲斐しく動いてくれた。そのおかげで深玉も凛凛も、怪我が大事に至ることはなかった。

 身体の傷は問題なかったが、中宮殿から突如姿を消したことへの説明には苦慮した。まさか皇后に閉じ込められた挙げ句、筆録房で刺客に襲われたのだと正直に伝えるわけにもいかない。言ってしまえば、皇后との表立った対立を避けてきた夏丞らの努力が水泡に帰してしまう。


 結局表向きには、深玉の滞在した室に鍵など()()()()()()()、朝起きて筆録房に戻ったら()()()()機密文書を狙ってやってきた賊に鉢合わせしてしまい――という、馬鹿みたいな言い訳に落ち着いた。裏では夏丞らが賊を締め上げ、証言を取っているのかもしれないが――そこは深玉の預かり知らぬところである。

 皇后も、深玉の言い訳に納得した顔は見せているが、内心己の失敗にほぞを噛んでいるに違いない。


 近頃、中宮殿の園林に萎びた花々が見られるようになったのだと、今朝方、深玉と凛凛を見送りがてら霍がこれみよがしに耳打ちしてきた。それは、蓉昭儀の告発文が無事帝のもとへ届けられた証左な気がして。深玉が直接問える立場にない分、霍が気を回してくれたのだろう。霍も存外冷徹なだけではないのだと思わされる。

 あの夏丞にずっと付き従っている人間なのだから、まあ当然か。


「あのう、深玉さま」

 凛凛の呼びかけに、ふと我に返る。

「集賢院ってどちらなんでしょうか? 新しい局長が持たせてくださった地図によれば、このあたりなんだと思うんですけど……」


 尚宮は、この一月で杜局長が職を追われる事態となっていた。筆録房、ひいては後宮に賊を入れた責任――という名目で、職を辞したのだ。もともと皇后は蓉昭儀の件以降、杜を見限るつもりだったと夏丞は言っていたため、賊の話は皇后にとっても渡りに船であったろう。


 あっさりと切られてしまった杜に、心が痛まないと言えば嘘になる。上司として尊敬もしていたし、頼りにもしていた。けれど、犯した罪は消えない。償いはすべきだと思う。


 深玉は箱を下に置き、凛凛の手にする地図を覗き込む。

「迷子になってるってこと?」深玉も地図と今の位置を照らし合わせるが、方角は合っていそうである。「ううん、父さんの話をもっと聞いておくべきだったな。まさか自分が集賢院に飛ばされることになるなんて……」


 まさかの集賢院への異動。

 それが今回の件で深玉へ下された処遇であった。


「深玉さま、本当にすごいことですよ。女の身で外廷で働けるだなんて」

 深玉の世話役として共に異動となった凛凛は誇らしげにしているが、深玉としては複雑な心境である。


 蓉昭儀の件での堅実な職務ぶりが評価されたからだ、などと霍は濁していたが、この時分でそんなわけがない。帝と皇后の水面下の対立、裏で蠢く密偵の存在――深玉は影の部分を知りすぎてしまった。野放しにしておくのは危険と判断されたのだろう。

 殺されなかっただけ良い方だ。夏丞が裏で口利きをしてくれたのだと信じたい。


「やりがいはありそうだけど、人間関係が面倒くさそう」

「大丈夫ですって。きっとまた、雪燕さまや夏丞さまみたいなお友達ができますよう」

 人から夏丞の名を聞くと、ぎくりと心が跳ねる。

 夏丞とはその後、音沙汰もなく会えないままだ。彼の立場を思えば、会わない方が互いのためであることくらい、理解している。

 あの夜は、暗黙のうちに別れたのだから。

 



「あ、集賢院ってここではないですか!」

 凛凛が声を上げ、突き当たりの黒檀の扉を押し開けかける。と、「おい見ろ」と囁く仄暗ほのぐらい声が深玉の耳に届く。


「あれ、とうの娘らしいぞ」

 見れば、学者然とした見た目は慎ましやかな文官らが、柱の陰からこちらに胡乱な目を向けていた。

「女など信用に足るわけがない」

「外から得体の知れない官人まで引き入れられて、主上は集賢院の権威をなんと心得ておられるのやら」


 深玉は背筋を伸ばし、無視を決め込む。他人の噂に時間を割くなど、よほど暇と見た。

 凛凛が顔を曇らせる。「……歓迎されていない感じ、なんでしょうか」

「でしょうね。面白くないに決まってる」

「でも、官人ってどういうことでしょう。深玉さまは女官ですのに」

 深玉が答える前に、背後から涼やかな声がした。

「さあ、それは会ってからのお楽しみですね」

「…………は?」

 嘘でしょう。


 聞き慣れた声に深玉が振り返ると、同じく振り返った凛凛が目を輝かせた。

「わああ! 夏丞さ――もごっ」

 深玉は慌てて彼女の口を手で塞ぐ。外廷に出てきたばかりの女官が官人と親しげなど、怪しまれるに決まっている。


「よろしければご案内いたしましょうか? 私もまだこちらへきたばかりなので、あまり詳しくはないのですが」

「……ええ、お願いします」


 抱えていた引っ越し荷物を奪われ、中へと通される。集賢院の大客庁(おおひろま)には、所狭しと机が並び多くの文士が詰めていた。足を踏み入れれば、みなが手を止め、遠巻きに深玉らを眺める。

「こちらへどうぞ」

 一際奥まった室へと案内されるや否や、深玉は汗で湿る手で扉を閉め、男の袖を掴んだ。

「ごめん、凛凛はちょっとここにいて」

 そのまま男を衝立の陰へと引っ張っていく。


「おやおや、どうされました」

「どういうこと?」

 声量は押さえているつもりだが、語気は抑えられない。深玉は男に詰め寄る。「あれは二度と会わない流れだったでしょう!?」

「そうでしたか?」夏丞は愉快そうに笑い、「誰もそんなことは言っていませんでしたよ」

 実に腹立たしい。あの感傷を返せ。


「噂されてた異動してきた官人って、あなたのことだったのね。なんで集賢院にとばされたの」

「深玉さんの監視と、身元の保証のためです」

 さらりと怖いことを言われた気がする。

「ちょうど刑部に身を置く必要もなくなったところでしたので、都合がいいと主上が判断されまして……ああ、凛凛さん」

 前触れなく、夏丞が衝立の向こうへ声をかける。

「はーい?」

「深玉さんが喉が渇いたそうなので、お茶をお願いできますか?」

 嘘をつくな、言っていない。声を上げそうになるも、手で容赦なく口を塞がれる。

「分かりました!」


 凛凛の軽い足音が遠のいていく。追おうと衝立の陰から出ようとするも、腕を掴まれる。

「もう一度お会いできれば、聞いていただきたいことがあると言ったことを憶えていますか?」

「し、知らない」

「憶えてらっしゃるのですね」夏丞は短く息を吐く。「どうお伝えすべきか悩んだのですが……あなたにだけは、きちんと伝えておきたくて」


 聞きたいような、聞きたくないような。逃げ出したい気分だった。

 深玉は顔を上げる。「なにを――」

 言い終わる前、距離を詰めた夏丞が耳元で一言、囁いた。


「――――」


「今の……」

 深玉は目を瞬く――予想に反した、耳の奥に残るやわらかな音。「誰かの、名前?」

 夏丞が頷き、おだやかに笑んだ。

「私が幼い頃に捨てた、(あざな)です」

 時が止まったような気がした。

「母だけが、その名で私を呼んでいた。偽りに塗れていない、私が差し出せる唯一はこの名だけです」

 不覚にも鼓動が速くなる。「それって……」


「深玉さんの中でこの名が生きている限り、私の信念はきっとあなたになる」

 これほど誠実な言葉があるだろうか。深玉は落ち着きなく手を握り合わせる。

「……ずるいわ」

「どうか、覚えておいてもらえませんか?」


 これでは拒めるはずもない。形を変えたこの関係は、友愛でも、親愛でもなく。ふたりだけの、唯一無二の形で。

「絶対、忘れない」

 夏丞が微笑んだ。初めて見る、どこか幼さが残る笑顔だった。


「――で、ここからが仕事の話なのですが」

 すべての雰囲気をぶち壊すように、夏丞が一歩前へ距離を詰めてくる。「深玉さんは、威州へ行ったことはおありですか?」


 相変わらずこの男ははぐらかすのが上手い。

「……あなたには情緒ってものがないわけ?」でも、これくらいの温さがまだちょうどいいのかもしれない。「行ったことはないけど、それがなに」

「実は州令の偽書が出回っているとの噂がありまして、主上から至急調査を依頼されているのですが――ご興味ありませんか? 京師から移動だけで半月。ちょっとした息抜きのふたり旅ですよ」

「興味ありませんし、ひとりでどうぞ」


 深玉が衝立の陰から逃げ出せば、外から差し込む陽の明るさに、おもわず目を細めた。


 文字だけの世界から、人と文字の絡み合う世界へ。

 かりそめの関係から、一歩前へ。

 その先に待つ世界は、きっと厳しくもあたたかいものであると信じたい。 



 了

ここまで読んでくださり、誠にありがとうございました!

評価などいただけますと作者は大変喜びます。

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