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5-9 秘された遺書

 夏丞かじょうが足を止めたのは、水祥殿の外れ――殿舎からかなり奥まった、荒れた園林(にわ)の一角に着いてからだった。


「ここは?」

 ゆっくりと地面に降りながら、深玉は問う。

「今は使われていない、(ふる)い庭です」


 顔の周りを飛び回る虫に辟易しつつ、深玉はあたりを見渡す。長く使っていれば、殿舎内にも使用されない区画は出てくるが、ここは中々の仕上がりである。

「ずいぶん荒れ放題ね」

 深玉が呟けば、夏丞は肩をすくめ、闇に沈む背後の殿舎を見やる。

「かつて水祥殿は、こちら側が正門だったのですよ。けれど自死事件が起き、居室や正門は、裏側の今の位置に移った」

「じゃあここはかつての正殿と園林にあたる?」

「そうですね。自死現場で寝起きしたいと思う人間がいないように、この庭も気味悪がって人が寄り付かなくなったのだと思いますよ」


 夏丞の横顔に乗る色はなんの感慨もなく、いっそ平素より淡々としている。深玉は膝下まで伸びる下草に足を取られながら、夏丞のそばに寄る。

「じゃあ、蓉昭儀さまの示す『はじまりの場所』というのは、かつての正殿のことになるのね」

「いえ、違うと思います」

 夏丞は先程乗り越えてきた殿舎を囲う(かこい)を指差し、歩き出す。

「おそらく、殿舎内ではなく外かと」

「外?」

 深玉も夏丞の後に続く。

「建物内は死後くまなく皇后の捜索の手が入るでしょう。わざわざ危険を冒してまで中に隠す理由はない」

「文書のような湿気に弱いものを、雨晒しで隠せるとは思えないけど」

「私もそう思います」


 話が堂々巡りになってはいないか。

 深玉は眉を寄せる。「つまり……どういうこと?」

「外で、かつ雨風がしのげる場所があるんですよ」

 夏丞は迷いなく歩みを進めていく。園林の終わりまで行き着くと草をかき分け、ささくれた門柱に手を伸ばした。


 ここが昔の水祥殿の正門とやらか。門のあたりを探る夏丞の後ろで、深玉ははたと気づく。

 このあたりの下草に、わずかに踏まれた形跡がある。そして、緑に埋もれるようにして覗く、月光に照らされる白い塊。


「夏丞、これ」

 肩を叩いて注意を促せば、夏丞もそれを確認する。

(ろう)ですね。汚れ方からして、最近のものでしょう」

「……誰かが夜、このあたりに来てたってことね」

 いよいよ夏丞の推理が確信に変わる。

 二人で蝋が落ちていたあたりの草をかき分けていく。

「水祥殿の敷地内とはいえ、ここは外なのに。なんで蓉昭儀さまはここを夏丞の『はじまりの場所』としたのかしら」


「……ここはただしく、私のはじまりの場所ですよ」

 吹きざらしの庭にざあと風が吹く。ぽつりと落とされた言葉に隣を見れば、夏丞は、ただ手元だけを見ていて。

「この門を潜り外へと逃げたことで、かつての皇子の私は、水祥殿で死んだ。……今の私の人生がはじまった場所なのですよ」


 と、ふいに膝下程度で収まる小さな木箱が現れた。夏丞が「ありました」とかたい声を上げる。深玉も裾が汚れるのも忘れ、しゃがみ込んで手を伸ばす。


 それは、小さな祠だった。

 長年の風化で木板はそそけ立ち、薄茶けている。正門の横にあるということは、かつては殿舎を(まも)宅神(やかつかみ)(まつ)るものだったのだろう。


 夏丞と顔を見合わせ、扉に手をかけた。軋んだ音を立て、真っ暗な箱が口を開ける。


「こんなところに――」おもわず、声が漏れた。


 かつての祀る神もなく、護符もない。ただの箱と成り果てた場所に、たしかにそれはあった。がらんどうの(だん)の奥――畳まれた真白な書簡が一通、置かれていた。厚さは、指のひと関節分はゆうに超えていよう。

 これが蓉昭儀が命を賭して書き上げたもの――夏丞がゆっくりと開く様を、深玉ははやる胸を押さえて見つめる。


「この文字は蓉昭儀のもので間違いないでしょうか」

 紙面に目を滑らせた夏丞が、深玉に紙面を差し出す。受け取る手が震えた。


 真実を記す――やはりその一文から始まった文書は、煕貴皇后のこれまでの行い、それを裏付ける証拠が綴られていた。証拠として機能しそうな女官の書き付けや高官の文のやりとりの一部が、書簡の間に幾枚もの挟み込まれていた。

 その文字の伸びやかで、なんと力強いこと。


 深玉はそっと文を撫でる。「間違いなく蓉昭儀さまの文字だわ」

 安堵と、彼女への哀悼と。深玉の目から自然と涙がこぼれ落ちる。

「やっと、会えた」


 蓉昭儀と(まみ)えたことも、言葉を交わしたこともない。けれどこの文は、まさに蓉昭儀自身のように思えてならなかった。


「あなたが多くの点を繋いで、ここに連れてきてくださったのです」

 夏丞の呟きが夜風に乗って溶ける。

 呪い、因縁。様々なものが降り積もった場所へ、夏丞とふたりで辿り着くことができた。むかしの深玉では、きっと考えられなかったことだ。


「これで蓉昭儀さまも、水祥殿から解放されるかしら」

「ええ、きっと」 

 夏丞は深玉から書簡を受け取ると、促すように背を押してくる。

「さあ、ここを離れましょう。長居は危険です」

「分かった」


 眦を拭い、頷きかけたところで、

「それと、深玉さんとはここでお別れです」

「……え?」

 驚いて夏丞を見やれば、彼は穏やかに笑んでいて。

「ここを出たら、あなたは真っ直ぐ掖庭局へ。漣衡がまだ局内にいるはずですから、包み隠さず状況を話してください」

「でも――」 

「嫌な顔はするかもしれませんが、必ず保護してくれます。そのあと皇后から接触があっても、すべて知らぬ存ぜぬで突き通してください」


 有無を言わせず、来たときのように抱え上げられる。

「夏丞は? どうするの?」

「私はこの書簡とともに後宮の外へ出ます。急ぎ主上のもとへお運びしなければ」


 耳をすませば、郭の外で人の気配がしていた。一気に現実感が押し寄せてくる。夜警の女官だろうか。よく見ると、夏丞の表情も緊張を帯びたものに変わっていた。目が合えば、再び微笑まれる。

「私は表向き後宮から退去命令が出ている身ですから、夜間にここで見つかれば騒ぎになります。掖庭局までお送りできないのが、心配ではありますが……」


 夏丞の手が深玉の眦を撫でていく。そういえば、この男に泣き顔を見られるのは二回目であった。

「そう不安げな顔をなさらないでください。深玉さんの処遇については、こちらに巻き込まないよう、最大限努力します」

「別に、そこは心配してない」

「それはそれは」男の口が弓なりに弧を描く。「その信頼には応えねばなりませんね」


 今のは本心からの言葉だ。けれど、訊ねたいことはもっと別にあった。

「ねえ、また会――」


 言いかけて夏丞の顔が目に入り――止めた。

 彼を困らせたくはない。それに、ほんのすこしの矜持もあった。


「……なんでもない。落とさないでね」

 また埃っぽい上衣を握りしめれば、

「もちろんですよ。――深玉さん」

「なに」

「もし次にお会いすることがあれば、あとひとつ、聞いていただきたいことがあるのですが」

 次があれば――深玉は聞かなかったことにする。湿しめっぽい言葉は口にしたくなかった。

「……気が向いたらね」


 振り仰げば、夜闇に沈んでいた水祥殿へ降り注ぐように、満天の星が瞬いていた。

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