5-8 真実のもとへ
✣✣✣
窓の外が徐々に茜色に染まってきた。深玉は、うとうとと閉じていた瞼をこじ開け、柱に凭れていた身体を起こす。
寝不足で回らない頭で、無人の殿舎を見渡す。あたり一面、薄灰の埃が積もっており、長らく使用されていないことがうかがえる。深玉と夏丞の足跡だけが、斜陽に照らされて点々と残っていた。
すぐにでも蓉昭儀の遺言が指し示す場所へと向かいたいが、日の高いうちに外へ出れば皇后の追っ手に捕まる可能性が高い。かといってあのまま筆録房に留まり続けるのも危険――よって移動するしかなく、ふたりして人目を避け、今の場所で夜を待っていた。
夏丞のはじまりの場所――水祥殿へ向かうために。
「起きましたか? 傷の具合はどうです」
深玉が目を覚ましたことに気づいた夏丞が、窓から離れ、こちらへやってくる。
「ちょっと痛い……けど大丈夫」
深玉はぼんやりとする視界に何度も目を瞬く。体力も限界のはずだが、休めた気がしない。
「外は静かなものですよ。現段階で捕まることは、まずないでしょう」
「……よかった」
夏丞が隣に座る。彼は人目を引く朱の衣は着替え、今は薄墨の衣に変わっている。しかし裾には深玉同様、埃がまとわりついていた。
「なにか腹に入れますか? すこしはしゃんとするかと」
朦朧とする深玉を見かけたように、夏丞が自身の懐を漁っている。
食べ物の気配を察知してか、卑しく深玉の腹が鳴る。「……貰う」
空腹で指先がじりじりと痺れていた。
手負いの深玉がついていくのは足手まといでしかないと分かっているが、深玉には筆跡から真贋を担保する役目がある。隠れているわけにもいかず、怪我をおしてついていくという選択肢しか残されていなかった。
夏丞が取り出した巾着から拳大の塊を差し出してくる。
「湯でふかしていないので固いと思いますが、食べられないことはないでしょう」
「平気。食べられればなんでも……なに、これ」
「餅餌ですよ。携帯食ですが、見たことはありませんか?」
「いやそれは分かるけど」深玉は掌の中の刺々しい塊を見つめる。「なんだかこれ、妙じゃない?」
餅は餅なのだが、なぜだか脯が一本刺さり、果乾が周囲に張り付いており。あとやけにべたべたしている。
深玉は鼻を寄せる。「表面になにを塗ってるの……柘漿?」
「ええ。中には醤も入っています。一個で栄養がすべて取れる、万能食ですよ」
なんでちょっと誇らしげなんだ。
どう見ても食べ物の見た目じゃないし、禍々しすぎる。深玉は意を決して端から齧る。
うん、見た目通りの味だ。
「不味……独特な味がする」
口からまろび出そうになった言葉を飲み込み、婉曲に伝えたつもりだったのだが、夏丞は不思議そうに同じものを頬張っていて。
「そうですか? 食べ物なんて、だいたいどれも腹に入れば同じでしょう」
「食材に謝った方がいいと思う」
人の味覚にとやかく言いたくはないが、こんな形にされた餅が哀れだと思った。
餅の固さと格闘していれば、気づかぬうちにすっかり夜の帳が降りていた。腹の膨れとともに、背筋も伸びてくる。
「外に出ましょうか」
閉門の鐘くで鳴るのを聞いた後、夏丞が静かに告げた。深玉も立ち上がる。
「水祥殿内のどこが隠し場所か分かってるの?」
「覚えはあります」
外に出ると、雲に月がかすんでいた。夜陰に乗じ、水祥殿の近くまでは容易に寄ることができたが、その先はどうするのか。
と、夜目のきく夏丞が、深玉を木陰に押しやった。
「門に衛士がついています」
見れば、眠たげに欠伸を噛み殺す宦官が二名、煌々と燃える松明の脇に立っていた。
「掖庭令の部下……ではない?」
「違いますね。見張り程度はいると思っていましたが……」
夏丞は水祥殿の高い郭を見上げ、深玉をちらりと一瞥。「深玉さん、高いところは平気ですか?」
「まさか」頬が引きつる。「ここから侵入する気?」
「私が怪我に障りがないよう引き上げます。裏手に回りましょう」
多少屋根が低い場所を狙い、夏丞が壁をよじ登る様子を下から見守る。低いと言っても、ゆうに六尺はある。周囲に人影はないが、こんな場面を誰かに見咎められれば、ただでは済むまい。
登りきった夏丞が涼しい顔で上から手を伸ばしてくる。
「深玉さん」
木登りすらしたことがないのに。
ええい、ままよ。
動く右手を伸ばせば、細身の身体からは想像できない力で引き上げられる。夏丞は軽々と深玉を抱え、猫のように敷地内へと飛び降りた。
「夏丞、あなたすごいのね」
傷口は痛みはするが、身体への衝撃もすくない。感心してこぼせば「この程度で褒められるとは約得ですね」と返されて。
「このまま抱えていきますから」
「は? いや歩ける――」
「明かりもありませんし、転ばれると大変ですから。見つかる前に移動したい」
こちらの返答を聞くことなく夏丞が走り出す。速い。落とされないようしがみつけば、彼の衣から埃っぽい香りがした。先程の殿舎の移り香だろうが――色気もへったくれもなくて、こんな状況なのにすこし笑えた。




