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5-7 亡霊の痛み

「……え?」

 一拍、理解が遅れた。「どういう、こと?」

 意味が分からない。


 夏丞を見つめると、彼は()いだ瞳で深玉を一瞥し。

「正確に言うと、あのとき殺されて逃げおおせた皇子、でしょうか」

「でも、皇子は亡くなったって噂が……というより夏丞、あなた、皇家の方ってこと?」

 混乱から矢継ぎ早に質問が口をつく。

「もと、ですよ」夏丞はなぜか愉快そうに笑う。「今は亡き者として除籍されていますから、身分などありません。もう十五年も前になりますね、私が九つのときです」


 水祥殿で殺されたのは――夏丞が訥々と語る。

「母は権力も後ろ盾も持たない、凡庸な妃のひとりでした。見目麗しい……その一点だけで即位まもない帝の目に留まり、懐妊した。産んだのは、奇しくも皇子の私。しかも、第一皇子です」

 立太子されない限り、帝位を継ぐ権利は皇子に等しく与えられているものだが、やはり出生の早い者の方が有利ではある。出来が良ければ、尚更のこと。

「私は人より多少物覚えがよかった。数年後に続けて他の皇子が誕生しましたが……やはり帝の目に留まるのは私でした」

 帝の覚えめでたく、水祥殿をあてがわれて母子ともに順風満帆な人生を送っていた――つもりだった。

「煕貴皇后が皇后に封されたのは、私が六つのときです。そこから、すこしずつなにかが変わっていった」


 外廷で勢力を伸ばす高官どもは皇后を見て、若く世間知らずな娘よと、こぞって彼女へ取り入ろうとしたが――取り入れられたのは、高官らの方であった。


 彼女は可憐な見た目とは裏腹に、相手を自身の懐へ取り入れる術に長けていた。外廷を影で意のままに動かし、後宮も掌握し不要な者を処分し自身の足場固めを行った。

 帝が皇后を警戒し始めるのに、時間は掛からなかった。気づけば外廷は、皇后派とも呼べる派閥が密やかに蠢くようになっていた。

 彼女は常に優しい言葉で巧みに立ち回り、帝の調査の手からするりと逃げていく。表向きは穏やかな皇后であった分、証拠を掴むことが難しかった。まさに女傑といえる。


 夏丞は吐息を落とす。

「経緯は省きますが……私は皇后の目に悪い意味で留まってしまったのです。外の権力闘争が絡んでいたせいでしょう。私が男であったがため、否が応でも立太子争いに巻き込まれてしまった」


 その日は、月のない(くら)い夜だった。就寝前の水差しに毒を盛られ――蓉昭儀と同じ手口で、呆気なく母は絶命した。同じく命を落としかけた夏丞であったが、たまたま戻ってきた側仕えの童子が異変に気づいてくれた。

 童子はこれらが自死でないと気づいた時点で、すでに息のない母妃を諦め、虫の息であった夏丞を抱え後宮の外へと連れ出した。中へ留まっていては、とどめを刺されかねないと判断したのだと、後に夏丞は聞いた。


「それで、どうしたの?」

 深玉は息を詰める。心がなにかで刺されたように痛かった。「なぜあなたは助かったのに、除籍されたの?」

「生きるためですかね」

 夏丞は窓の外へと顔を向ける。

「童子は私を外廷の主上のもとへと送り届けてくれました。毒で頭が朦朧としていたので記憶もさだかではありませんが……あの方は、母が亡くなったことにも、さして心を動かされた様子はありませんでした」


 口から血を滴らせる夏丞と童子の説明に、大方を察したのか「そうか」と呟くのみで。

 この時点で、幼くも聡い夏丞は気づいてしまった。

 このまま己は助命されることなく、見捨てられるのだと。


 帝は当時、ようやく三十に手が届いたばかりの若く頑強な男。老いさらばえた身体ならまだしも、若くあれば跡継ぎを急く必要もない。亡くなった母は数多いる女のひとりでしかなく、夏丞もまた、出来がよくとも皇子のひとりに過ぎなかったのだ。

 うまくいっていたように見えた日常は、すべてが薄氷を踏むような仮初のもので。自身の処遇を前に、夏丞が取れる手はひとつしか残されていなかった。


「助命を乞う代わりに、私は帝の駒となって働くことを誓いました」夏丞は静かに続ける。「帝の、目となり手足となり役に立ってみせると、惨めたらしく頭を下げて。帝はそれを受け入れ、私を鬼籍に入れた」

 深玉は愕然と呟く。「主上が自ら、死んだことにしたの? 実の息子なのに?」

「そういう方なんですよ」淡々と語るには、あまりにも重く。「死んだことにすれば、私は公には存在しなくなる。皇家は籍を持たないので市井に降りて暮らすことも叶わず、当然これまでどおり宮中に留まることもでき ない……私の人生は、帝に縋る以外の道を絶たれた」

 吐き捨てるように付け足された一言に、深玉は拳を握る。


「私は帝の元に帰るしかない、なんでも言うことを聞く利口な(いぬ)になった。上手に芸ができたとて、たいした褒美も貰えないので、それ以下かもしれませんが」

 深玉は顔を歪める。「そんな、こと」

「あるんですよ。こんな陳腐な話、きっと歴史の中では幾度となく繰り返されてきたことでしょう。……ですから、そんな顔をなさらないでください」

 夏丞が困ったように眉を下げる。

「でも」

「深玉さんだって、帝や謀略に人生を狂わされた人間のひとりではないですか」


 夏丞は綿密に調べて深玉に近づいてきたのだ、こちらの過去を知らないはずがないのか。今更気づいたとて、さほど衝撃はない。

 深玉は俯く。「わたしには、母がいた。父だって、母が亡くなっても生きていてくれた。外に開いてはいなかったけれど、ひとりじゃなかった。でも、あなたには……」

「私を助けた童子ですが、あれは漣衡なんですよ」

 唐突な告白に、深玉は目をしばたく。「霍、掖庭令?」

「私のそばにはあれがいた。当時は童子で、今はずいぶんと偉そうになりましたが。口うるさく、心配性な男ですよ。だから大丈夫です」


 霍がやたら夏丞と接触していたのは、同じ密偵同士という関係以上のものがあったか。

 ふいに夏丞が顔を覗きこんでくる。「それに、今は深玉さんもいてくださるのでしょう?」

「わたしがいたところで、あなたのためにできることなんて」

「今こうして話を聞いてくださった。それだけで十分です」

「……なら、いいのだけど」

 夏丞の視線がどうにもくすぐったくて顔をそらせば、忍び笑いをこぼされた。


 ここまで話を聞いて分かったことがある。水祥殿は夏丞と因縁深い場所だということ――深玉はひとつ息を吐く。

「……聞きたいことがあるのだけど」 

「なんでしょうか」

「あなたのこの話、蓉昭儀さまはご存じだった?」

 予期しない質問だったのか、夏丞は眉を寄せる。

「どう、でしょうね。私が後宮の任にあたることは主上より聞いていたと思うので、事前情報として漏れ聞く程度はあったかもしれませんが……なぜお聞きに?」

「いや、その」


 この期に及んで、まだ恐ろしさがある――あれを言うべきかどうか。

 夏丞がそっと深玉の手に触れた。「この話を他人にしたのは、深玉さんが初めてです」

「……はじめて」


 じっと見つめてくる夏丞に、決意が固まる。この信頼に、自分は報いねばならない。

 深玉は深く息を吸うと、夏丞の手を握り返す。

「――『夏が巡り来るとき、私は死ぬだろう。あなたのはじまりの場所に、それを託す』」


 夏丞の目がゆるゆると見開かれる。「それは、まさか」

「蓉昭儀さまが雪燕に託した言葉よ。これはあなたに向けた言葉だと思う」

「……いいのですか。知るだけでなく辿り着いてしまえば、あなたは本当に引き返せなくなりますよ」

 そんなことは百も承知だ。深玉は目を閉じる。

「思い出したの。父が昔わたしに言った言葉を」

「言葉?」

 真っ直ぐにこちらを射抜く父の眼差しが鮮やかに蘇る。


『深玉、信念はな――大事な人が作ってくれるんだ。私の信念は、お前や母さんが作ってくれた』


 父の目の奥には、悲しみはあれど後悔はなかった。 

「大事な人に恥じない自分でありたい、寄せてくれる信頼に応えられる自分でありたい。そう強く思うとき、それはその人の信念になる……父はそう言ったの」


 父は、正義感でも義務感でもなく、ただ家族に誇れる自分を求めて真実を追った。信念に代償が伴うと言ったのも、結果的に母が死んだのは仕方がないという意で言ったのではない。誰かに支えられた信念には、自身の人生や価値観を大きく損ね、変えるほどの力があると言いたかったのだと思う。


「母が死んだのは父の鑑定の結果が引き起こしたことですが……だからといって、父が真実を諦めなかったことが悪いんじゃない。真実を曲げた人たちが悪い」

「……そうですね」


 こんな簡単なことに、長い間気づけなかった。悲しい辛いと、自分のことばかりで殻に閉じこもっていたからだ。


「わたしは、信じてくれた雪燕や蓉昭儀さま、夏丞に、向き合える自分でありたいと思うの」

 夏丞の握る手がわずかに強まった。

「なにかを失うとしても、それはわたしが決めて、背負うべき信念だから。夏丞が気に病む必要はない」

 夏丞がなにかを言いかけるも口をつぐみ、自嘲気味に笑った。「あなたといると自分も信念を持つ人間になれるような気になります」


 彼の人生を思えばこそ、安易な言葉をかけられない。深玉は黙って握られる手の温さを感じていた。

 

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