5-6 あなたの過去に
すこし気持ちが落ち着いてくると、じわじわと傷の痛みが戻ってくる。深玉が情けない呻き声を上げると、夏丞が身体を離し、肩に触れてきた。
「まだ血が止まっていませんね。きちんと手当をしましょう」
「……痛い」
思わず泣き事が漏れる。焼けた石が肌を焼いているような痛みと言ったらいいのか。とにかく、痛いのだ。
「当然です。切創ですから」夏丞は血が染みてきた手巾に触れ、「ここで最低限の処置をします。今外に出て、中宮殿の人間に見つかると面倒なことになるでしょうから。医官ほど手際はよくないですが、我慢してください」
夏丞に上衣の襟元を緩められる。平時だったら肌を見られることに多少の恥じらいもあっただろうが、今はそれどころではない。痛みを紛らわすために、話すことに集中する。
「さっきの男たちは、尚宮の内通者が手引きして引き入れたのよね?」
「そうでしょうね。本来、筆録房はこの時間帯は施錠していますから」
深玉は頭に思い浮かぶ人物に、顔を歪める。
「脅迫文の送り主なんだけど、杜局長じゃないかと思っていて」
「杜尚宮局長ですか?」
夏丞は筆録房に保管してあった新しい布を当て、深玉の傷口に巻きつけていく。
「脅迫文を調べていくうちに、あれを作れるのはあの人しかいないはずだと」
「……局長ほどの立場の人間が裏についていたのであれば、香の手配含め、皇后が不自由なく動けていたことには納得できますね」夏丞はわずかに言葉を切って、「左遷の話も出ていると聞きましたし、口封じの意味もあるのでしょうね」
深玉は眉をひそめる。「左遷?」
「あちらの目的であった水祥殿の取り壊しも叶いそうですし、もう不要と判断したのでしょう」
水祥殿の封鎖――深玉は首をかしげかけて「ああ」と納得した。
呪われた水祥殿。あそこは死に至らせる場所だと印象づけ、実際犠牲者まで出てしまえば、取り壊しの話が上がるのも妥当である。
「皇后が香を使ってまで呪いの噂を流していたのは、そういうわけだったのね」
後宮内の殿舎は、皇后といえど軽く扱うことはできない。宮廷は殿舎から草木に至るまですべて帝のもの。皇后は後宮を治めているだけで、持ち物ではないのだ。
「でも」深玉は夏丞を見つめる。「取り壊しが目的ってことは、水祥殿が皇后にとって脅威となる場所だってことで……いや、もしかして蓉昭儀自体も脅威だった?」
夏丞は布を縛り終えると、じっとこちらを見下ろす。「……相変わらず、よく頭が回りますね」
「茶化してほしくはないんだけど」
「真面目に話していますよ、とても」夏丞の手が伸び、深玉の頬を拭われた。「ここから先をお話するのは、あなたを危険に晒しそうで私としては本当に気が進まないのですが」
「……夏丞が話すべきじゃないと思うなら、これ以上は聞かない」
夏丞がそう判断したのであれば。突き放されただけではないと理解できる今なら、強くは言えない。
夏丞は逡巡するような表情を見せた後、ゆっくりと口を開く。
「私の過去にも触れることになります。それでも、聞きますか?」
「……ええ、聞かせて」
「では、すこしだけ昔話に付き合ってください」
夏丞は複雑そうに笑むと、隣へ腰掛けた。
✣✣✣
「主上のもとには、かの方の命のもと隠密として影で動く者が幾名もいます。私も……そして、蓉昭儀もそのひとりでした」
夏丞はぽつりと切り出す。
「彼女の目的は、煕貴皇后のこれまでの行いを洗いざらい調べ、まとめること。後宮内に散らばる証拠を集めることでした」
深玉は眉を寄せる。「蓉昭儀さまが……?」
「ええ、最初はうまく潜入できていたようですよ。水祥殿をあてがわれて主上の寵妃らしく振る舞い、侍女や他の妃から話を引き出して。けれど、どこかで綻びが出たのでしょうね。それを皇后に勘付かれた」
夏丞は皮肉げに口をゆがめる。「見つかってからは、事件の通りですよ」
「水祥殿の呪いの噂を流されて孤立して、居場所を失った?」
「ええ、皇后としてはふたつの目的があった。まずひとつ目」夏丞はすらりと一本指を立てる。「蓉昭儀を孤立させ、密偵としての活動を制限すること」
「情報を取れなくなったら、密偵として存在している意味がなくなる……?」
「そうですね。煕貴皇后は表向きは温厚な女性ですから、あからさまに悪意を向けるような心象を悪くするやり方は好まない。それで、呪いの噂を流すような回りくどいやり方を選んだ」
夏丞は「次にふたつめ」と指を立てる。
「蓉昭儀が集めていたであろう証拠や、書き残した文書を安易に外へ持ち出されないようにするため」
「持ち出さないって……つまり、人の出入りをなくすということ? だから、水祥殿の封鎖って言ったのね」
「そうです。文書、小道具、家具に至るまで、蓉昭儀がどこになにを隠しているか分からない。だから、殿舎ごと皇后が支配下に置けるよう、呪いを使って封鎖した」
なるほど。これでぼやけていた部分がはっきりとした。
深玉はふと思い出す。「じゃあ、魏美人さまは? 彼女も蓉昭儀さまと同じ……」
「いいえ、彼女は違います。蓉昭儀の後宮での協力者だったのでしょう」
蓉昭儀と魏美人の暗号めいた書簡のやりとり、会話。水祥殿に足繁く通い――それらすべて、蓉昭儀のためだったのだとしたら。
「いい友人、だったのかもしれない?」
「……今となっては、敦皇子のみが知ることですね」
皇子といえば――深玉が顔を上げると、夏丞はやんわりと笑む。
「彼は回復しつつありますよ。水差しに微量の烏頭が混ぜ込まれていたようです。毒見役が注意深く見てくれていますから」
「あなたが、指示したの?」
「あそこまで執拗にチクチク言われては、私としても目覚めが悪いので」
はぐらかすように言われたが、あのときも裏で深玉の意を汲んでくれていたのだ。そのことに申し訳なさと、一抹の嬉しさがあった。
「――と、ここまでが蓉昭儀の話ですね」
夏丞はいったん切ると、深玉を見つめる。
「深玉さんは、水祥殿の呪いの発端がどこから始まったか覚えていますか?」
突然話題が変わったことに、深玉は面食らう。「どこから? ええと、皇后が呪いで倒れてから……」
「いいえ。それはある者に呪われたから倒れたという話のはずです。その呪いとは、いったいなんだったか覚えてらっしゃいますか?」
呪いの大元――深玉は記憶を辿り、思い出す。
「あ、水祥殿で亡くなった妃と皇子だ」
夏丞と出会ったばかりのときに、聞いたではないか。
『なんでもずいぶん昔に、ここで妃とかつての第一皇子がふたりで自死したのだとか。それ以来、呪われてしまい、水祥殿に出入りするものは謎の体調不良に襲われると』
皇后の話や破邪香の話で埋もれてしまっていたが、呪いの大元はこのふたりの自死であった。
深玉は首をひねる。「このふたりの死が、どうかした?」
「その亡くなった皇子というのが、私のことなんですよ」