4話 水祥殿の呪い
蓉昭儀の住まいであった水祥殿は、哀悼よりひりつくような緊張感が漂っていた。人目避けにと外郭に張りめぐらされた白幕に宮女らが群がり、あたりは騒然としている。
「ついに死人が出たな。もう何人ここで倒れたことか……」
「あな恐ろしや。やはり水祥殿の呪いは誠であったか」
警備にあたる宦官らのさざめくような会話を背後に聞く。白幕の合間からは、白衣を着込んだ女官らが納棺の準備に追われている様子がうかがえた。
「呪い? なにそれ」
深玉が首をかしげると、前をゆく夏丞が唖然として振り返った。
「嘘ですよね? ご存じないのですか?」
「知らないものは知らない……え、なにかおかしいですか」
「おかしくはありませんが」夏丞が苦笑する。「筆録房での凛凛さんとの会話から思っていましたが、深玉さんはあまり人の輪に入られない方なのですね」
いいように表現して濁された気がする。別に事実だから否定はしないが。というか、さらっと内容まで立ち聞きしていたことを暴露するな。
「で、水祥殿は呪われてるんですか?」
深玉は殿舎に立ち入るべく、白幕を持ち上げる。
「らしいですよ。なんでもずいぶん昔に、ここで妃とかつての第一皇子がふたりで自死したのだとか。それ以来、呪われてしまい、水祥殿に出入りするものは謎の体調不良に襲われる……後宮では有名な場所と聞いています」
「それで呪い? ふうん」
「蓉昭儀はそのあらぬ噂で生前は孤立し、この殿舎に籠りきりだったらしいです」
謎の体調不良とやらは引っかかるが、それにしたって突飛すぎる内容である。深玉は首をひねる。
「後宮内で人が死ぬなんて、別に変わった話じゃないでしょうに、なんで水祥殿に限ってそんな呪い話が……」
「病死や事故死とは違い、自死ともなるとやはり縁起が悪いからでは?」
そこから派生して呪い話になった、と。
娯楽の少ない後宮の女たちが、こぞって飛びつきそうな怪談話である。
深玉のあとに続く夏丞が、身をかがめてささやく。男だと認識されていないのか、衛士に引き留められる様子はない。
「深玉さんも、蓉昭儀は呪い殺されたのだと思いますか?」
「は、まさか」深玉は鼻で笑う。「そんな不確かなもので人が殺されるわけないでしょう」
いつだって人が死ぬときには理由があるのだから。
夏丞の口がはっきりと嘲笑に歪む。「同感です。この上なく、馬鹿馬鹿しい」
幕の内側は、女官だけでなく、花をたずさえた幾人かの妃の姿もみられた。外へ出ないなりにも深い仲の妃がいたのだろう。「魏美人さま」と呼ばれた線の細い女性が、幼い御子を伴い、悲痛な声をあげて地面に泣き崩れていた。
慌ただしく行き交う人々の中、「なんと……深玉か?」とこちらの姿を認めて足を止めた人物がいた。
深玉は上司に向かって静々と礼をする。
「お疲れさまでございます。杜局長」
「どうしてお前がこんなところにいるのかね」
尚宮局長の杜敬芝は、驚いた様子で深玉のもとにやってきた。四十代半ばにもなり、白髪が交じり始めた頭髪に、皺の深い目許。平素はどこか鋭さのある彼女だが、今はくたびれた表情を浮べていた。
「誰の指示で来たのだ。私は筆録房を呼んだ覚えはないぞ」
杜の咎める調子に、深玉は顔を強張らせる。今は機嫌が悪そうだ。
「それが、その……色々ありまして」ため息をつきたい気持ちを堪える。
「人の多い場所へ自ら来るなど、お前らしくもない。それに」杜の顔が不信に曇る。「横の内監は誰だ?」
その言葉に夏丞は深玉の前へ歩み出て、人当たりのいい笑みを浮かべた。
「ご挨拶が遅れました、杜尚宮局長どの。私は此度の蓉昭儀さまの件で調査を仰せつかりました、刑部郎中の姚夏丞と申します」
「なぜ刑部がここに。私はあなた方の立ち入りを許可した覚えはないぞ」夏丞とは対照的に杜の声音は固い。「いくら主上の命といえど、これは後宮の諸事。中宮さまを通じ、深入りは不要だと伝えていたはずです」
許可していない? 嘘でしょう。
「ええ。承知しております」夏丞は百も承知とやんわり微笑む。「ですが、昭儀さまは後宮でもとりわけ主上のお側近くにあった方。御自ら人を遣わせて事情を確認したいというお気持ちをお止めするのは、到底無理なことかと」
後宮は女の庭、余所者に踏み荒らされることを極端に嫌うきらいがあり――その上、今回は中宮、すなわち煕貴皇后の命に背く形で刑部は夏丞を送り込んできたらしい。
これは杜の怒りももっともだ。深玉としても当然後宮側も承諾した上で調査に来ていると思っていただけに、言葉を失う。
「その寵は煕貴皇后の地位より重いと、主上は仰りたいのですか」
杜は威嚇だと言わんばかりに低く吐き出す。
どう対応するのかと深玉が夏丞の横顔を盗み見るも――そこに動揺した様子はなく。むしろ、腹立つほどに澄ました顔があって。
「どうなのでしょう」夏丞は悠然と微笑む。「一介の官人に過ぎぬ私が、帝の意思を計るなど、とてもとても」
とんだ嫌味である。はっきりと杜の顔が不快に歪む。
「蓉昭儀さまの件は中宮さまが滞りなく気を配ってくださっている。貴殿が調べたところで、不備はないと思いますがね」
「分かっています。あくまで主上へのご報告に備えた、形式的な確認にすぎません」
「……とにかく手早くしてくれ。追ってこちらからも確認は取らせてもらう」
「もちろんです」
夏丞が恭しく礼をする。その様子を深玉は黙って見ていた。おいそれと口を出せる雰囲気ではなかった。
これで深玉と地位が同格? どの口が言うのか。刑部郎中といえば、高官とまでは呼べないが外廷でもそこそこ立場ある人間ではないか。あの杜が口で押されている姿を初めてみた。
そのまま室内へ入ろうとする彼の背についていこうとすると、「深玉」と声を尖らせた杜に引き留められた。今度は胃が痛い。
「……はい、なんでございましょうか」
「男をやすやすと後宮へ立ち入らせるなど、どういう了見かね」
こちらが呼んだわけではないのに、間接的に叱責されてしまう。
そこに間が良いのか悪いのか、ひとりの女官がやってくる。「あの、杜局長、ご弔問中の魏美人さまがご気分を悪くされてしまいまして……」
「この忙しいときに……ああ今行く。――深玉」脅すような杜の声色に、自然と背筋が伸びる。「とにかく形式的に確認して、すぐ終わらせなさい。いいな」
「かしこまりました」
「――どうしました深玉さん」
先を行く夏丞が呼ぶ。
これでは板挟みだ。深玉は苦渋の思いで杜に頭を下げる。背中に突き刺さる視線を断ち切り、夏丞のもとへ向かう。
これはもう、早く終わらせるしかない。