5-5 心に触れる
深玉にのしかかっていた男の重みが消え、一気に肺へ空気が押し寄せる。
「てめぇ、なにを……ガッ」
暗転しかけていた視界にじわじわと光が差す。何度もむせながら目を開けると、涙でかすむ視界の端に、ひときわ鮮やかな朱をまとう人影がなにかを持ち上げていて。
その後ろ姿に安堵する自分がいた――と、同時にどこか様子がおかしいことに気づく。
人影に吊り上げられたそれは、足を浮かし、先ほどの深玉のように息を吸おうと、もがいている。
深玉は朦朧とする頭を叱咤し、手を伸ばす。
「かじょう、だめ」
かすれ声だったが、届いたようだ。朱の官服をまとった男が――夏丞が、ゆらりとこちらを振り返る。ぞくりとするほど昏く、感情が削げ落ちた目をしていた。
深玉はゆっくりと繰り返す。「それ以上は、だめよ」
「……なぜ」彼は締め上げる男を無感情に一瞥し、「あなたは自分を殺そうとした人間を、庇うのですか」
冷えた声音は彼らしくもない。夏丞に締め上げられている男の指先が、苦しそうに何度も虚空を掻く。口からは泡がこぼれ、点々と床に染みをつくっていた。
これ以上は、いけない。
「そうじゃないでしょう」否定しても、夏丞の手は緩まない。「この男たちは皇后の手の人間。しかるべきところに突き出すの。自白させて、証拠を取らないと」
深玉は震える上半身を起こし、夏丞と目を合わせる。凍てついた彼の瞳に、深玉の姿が映る。
「いつものあなたなら、きっとわたしにそう言うと思う」
夏丞の瞳がわずかに揺れ――おもむろに男を掴んでいた手が緩んだ。支えを失った男は、憐れにも床に転がる。気絶しているのか、目を閉じたまま動くことはなかった。
深玉は詰めていた息を吐き出す。取り返しのつかないことにならなくてよかった。ふと夏丞が扉の外を見たので深玉もつられて顔を上げかけ――彼女の存在を思い出す。
「凛凛!」
立ち上がりかけるも左肩に刺すような痛みが走り、うずくまる。
「まだ動かない方がいい」
夏丞が深玉の隣に膝をついた。その声は先ほどより人間味があった。
「あの子も怪我をしてるの。手当てをしないと」
「一時的に気絶しているだけでしょう。じきに目を覚ます」夏丞に身体を押し留められる。「それより、あなたはまず止血をした方がいい」
そう言われても納得はできない。凛凛は倒れたときの姿のまま、低木の繁みにその小さな身体を力なく投げ出している。ここからでは息をしているのかすら、確認できないのだ。
夏丞がたしなめるように腕を掴んでくる。
「まもなく漣衡が部下を連れてここに来ます。凛凛さんは彼らに任せておけば問題ありません」
一拍遅れて、漣衡という名が霍掖庭令を指しているのだと気づく。
見れば、夏丞の首筋には汗でおくれ毛が張り付いていた。呼吸もまだ荒い。ここへ急ぎ駆けつけてきたことは、一目瞭然であった。
彼の言葉通り、にわかに外が騒がしくなり、数名の宦官が筆録房へと駆け込んできた。夏丞は小声で彼らとやりとりすると、凛凛を運び出すよう指示を出す。
「あの子をどこに連れて行くの?」
「掖庭局へ」夏丞は人目避けにと筆録房の扉を施錠する。「容体が悪くなければ、手当だけしてすぐにこちらへ戻します」
あそこなら宦官の医者もいるだろう。深玉は力を抜き、大人しく床に座った。
「なんで……夏丞はここに来たの」
「あなたが中宮殿に呼ばれたと聞いたときから、監視のため中宮殿周辺に人を遣っていましたから」夏丞は懐から手巾を取り出している。「あなたが出てくればすぐに保護できるようにと。……まさか折檻を抜けて、こんな時間に外へ出られるとは思っていませんでしたが」
折檻という言葉に、深玉は眉を寄せる。「わたしがあそこに閉じ込められてるって知ってたの?」
「ええ。日が落ちてもあなたが出てこなかった時点で、あちらの目的はおおかた想像がつきました」
夏丞は筆録房に賊が入ることを予想していた。ならば、彼が考慮していないはずはない――深玉は視線を落とす。
「夏丞の中では、凛凛があの男たちと鉢合わせする可能性も頭にはあったんでしょう」
「そうですね」彼の淡々とした口調は揺るがない。「けれど、事情も知らず、情報も持たない凛凛さんを守る必要がないことは、お分かりでしょう」
「じゃあ、なぜわたしは……もともと用が終われば口封じの予定だったんでしょう」
「あなたは情報を持っていますから」夏丞は手巾を広げ、服の上から傷口を押さえるように縛る。「皇后の手駒になることが一番の危惧ですが、あなたがそうやすやすと情報を受け渡すとは思えない。あちら側につかないのであれば、私は助けるために動きます」
彼らしい理論だと思う。けれどそれは、彼がそれらしく取り繕った言い訳だ。
深玉は夏丞の腕を掴む。「理由は、それだけ?」
「だけ、とは?」男の澄まし顔は、いつもと変わらないように見えるのに。「おっしゃりたいことがよく分かりません」
分かっているくせに――腹立たしくも、もどかしい。あのときはたしかに彼の心に触れたと思ったのに、今はとても遠い。これが当然と思っているような彼に、納得をしたくなくて。
深玉は口を一度引き結ぶと、腹を括る。これが最後の機会だ。今を逃せば深玉も、夏丞も、きっと一生後悔する。
深玉は傷口を見ようと上衣に手をかけていた夏丞の手を払い、男の襟首を掴んだ。ぐとこちらに引き寄せれば、不意を突かれた夏丞が、驚いた顔で深玉を見る。
「やっとこっちを見たわね」
「どう、されて」
「恥ずかしいから一度しか言わない。ちゃんと聞いて」
握る手に力を込める。逃げるな。そんな意味を自分にも、彼にも込めれば、気圧されたように夏丞が黙る。
「便利な駒だろうが、情報を持ってるからだろうが、どんな理由でもいい。わたしは、あなたが助けに来てくれて嬉しかった」
無感情ぶる男の瞳が、はっきりと揺れる。
「あなたの存在や発言が偽りばかりだったんだとしても……あなたがかけてくれた言葉や態度の中に、わたしが救われたものはたしかにあったんだと知ってほしい。わたしは、あなたがどんな人だろうと……わたしが見てきたあなたを信じてる」
以前、夏丞と互いを猫に喩えたことがあった。
あのときの深玉は、彼を誰も寄せ付けないと揶揄したが、今なら少し違うのだと言い切れる。『人に近寄りたい甘ったれなのに、糞真面目すぎて近寄れない』――夏丞が深玉を喩えたものだが、これはそのまま夏丞のことを指していた。
深玉は襟首から手を離す。けれど夏丞は動かない。
「前にあなたが言った通り、わたしたちは似た者同士だわ。傷つく前に相手から逃げてしまう」
過去に囚われて動けなくなっていた深玉を、夏丞が外に連れ出してくれたように。
今度は深玉が夏丞の手を引くのだ。
「わたしから逃げないで」
真っ直ぐに見つめると、夏丞が眩しそうに目を細めた。「わたしもあなたから逃げない。どんなあなたであっても、ちゃんと向き合うから」
しばし沈黙が落ちる。さざめきのような人の声が遠くから響いている。明るさを増していく朝日がきらきらと床を照らしていて。
深玉が視線を落としかけたとき。
「――抱きしめても?」
おもむろに夏丞の腕が伸びてきて、有無を言わせず引き寄せられた。許可を取る意味はあるのだろうか。逃げようにも、背中に回された手が緩む気配はなく。
「……血がつく」
抵抗すれば、くぐもった笑い声を返される。
「今更でしょう」
触れた体温はあたたかくて、頬をくすぐる彼の髪が、深玉の心に不思議な波紋を落とす。
「……口に出すことが許されるのであれば」
耳許で夏丞の囁きが落ちる。声音にかたさは、もうない。
「深玉さんが無事で、よかった」
応えるように背に手を回せば、甘えるように首元に顔を埋められた。やはり彼は猫のようだと思った。