5-4 生死の境で思い出す
次に目を開けると、室内が明るかった。
「……うそ、もう朝?」
深玉はぼんやりとした頭を叩き起こし、上半身を被子から持ち上げる。どうやら昨夜は考え事をしながら、そのまま意識を飛ばしてしまったようだ。
窓からはすでに仄白い朝日が覗いている。
ずっとまともに身体を休めていなかったせいで、疲れが出たのかもしれない。脇の卓には、世話役が持ってきたと思われる替えの衣服と冷えた夕餉が置かれていた。
思えば、長らくまともに食事を摂れていない。食べ物を求めて腹が切なく鳴るが、ここで出された食事に口をつける気にはなれない。唾液を飲み込んで、立ち上がる。
夜が明けたなら、筆録房に帰らなければ。
さすがに不寝番はいないだろうが、中宮殿ともなればどこかに控えの女官くらいはいるはずだ。外に誰かいないかと、扉に手を掛けて押したところで。
気づいてしまった。
「……なんで」
押せど引けど、扉が開かないのだ。客間に鍵をするなど、通常ならあり得ない。
慌てて室内を振り返る。出入口になり得るのは、嵌め殺しの花窓ひとつ。複雑な装飾の隙間から、腕が一本通るかどうかといったところだ。
「まさか、閉じ込められてる?」
自分で言って、血の気が引く。
しかし、そんなあからさまな真似をするだろうか。昨日の皇后は、あんなに婉曲に言葉を選んでいたというのに。
今は明け方、起床には些か早過ぎる頃。施錠を深玉に気付かせる意図はないとして――しかし万が一にも外へ出ないよう、扉を封鎖しているのだとしたら?
「わたしが今外に出たらまずいことがある……?」
深玉が外に出て向かう場所など、ただひとつしかない。
筆録房だ。
もし皇后らが、深玉が筆録房に告発文を隠している可能性を考えていたら? 今回深玉を筆録房から引き離したのは、中をあらためるためだとしたら――そこに、運悪く凛凛が鉢合わせしてしまったら。
息が止まる。殺された魏美人が頭によぎった。
「……凛凛」
なんとしても外に出なければ。
扉に耳を当てて外の音を探るも、人の気配はない。皇后が女官らに本来の目的を伏せているなら、あえてこのあたりは人は手薄になっているかもしれない。
両開きの扉の隙間から覗き見れば、腕の太さ程度の木板らしきものが見えた。外の取手に渡して閂のようにしてここを封鎖しているらしい。
深玉は卓の上に置いていた釵子を掴むと、扉の隙間に差し込む。引っ掛けて木板を動かせないかと思ったのだが、細すぎて釵子の方が折れそうだった。
ならばと、懐からいつも持ち歩いている筆囊を取り出す。
「細筆ならいけるか……こうして太筆と……」
細筆を隙間に差し込み、太筆と十字に渡し梃子のように細筆を動かす。何度か繰り返すと木板が上下に跳ねてずれていく。
あと少し。
誰かに見つかる前に出なければ。軋む音を立てる扉に冷や汗をかいていると、どうにか木板が床に落ちた。
やはり持つべきものは筆だ。文胜于武。
深玉は周囲を見渡し、走廊に人がいないことを確認する。もしなにもなければそれでいいのだ。あとで挨拶もなく中宮殿を辞したことを詫びればいい。
朝靄の中、深玉は裾をからげて走る。日出の鐘はまだ鳴らない。大路にいつもの人気がないことが、余計に焦りをかき立てる。
まろぶようにして殿舎の最奥にある筆録房へ辿り着き――血の気が引いた。
扉が開いている。
あそこは機密文書が多い関係で、夜間は必ず施錠されるのに。
「か、帰ってください! ここに貴重品はないですよう!」
唐突に甲高い女の悲鳴が上がる。ついで、なにかが倒れるような音に、男の声。
深玉が急ぎ中へと駆け込めば、凛凛が深玉の作業台に張り付くようにして倒れていた。その額からは一筋血が流れている。彼女の前には、面布で顔を隠した二名の男。光るなにかを持ち、今まさにそれを凛凛へ突き立てようとしている。
「駄目……っ! 凛凛!!」
それが匕首であると分かっていても、深玉の足は止まらなかった。刃先が届く寸でのところで、間に割り込み凛凛を抱きしめる。
衝撃とともに、左肩に鋭い痛みが走る。
「きゃあ!!」
腕の中で凛凛が悲鳴をあげた。
「ちっ……次から次へとなんなんだよ……!」
背後で男ふたりがたじろいでいるのが分かる。左肩が焼けるように痛い。
「深玉さま! 深玉さま! ああどうしましょう……!」
凛凛が深玉の左肩を懸命に押さえているのが分かる。上衣を伝って、床へぼたぼたと血が落ちていく。
このままでは、ふたりとも殺される。なんとかここから逃げおおせなければ。
深玉は奥歯を噛んで踏ん張り、男たちを睨む。
「ここに、あなたたちの、探している文は、ないわ。帰って」
言いながら、視界の端に卓の上の硯と文鎮が目に入る。足止め程度にはなるかもしれない。後ろ手にそれらを掴んだ。
男らは深玉の動きには気づかず、匕首を構え直していた。
「こいつ目的を知ってるぞ。脅せば文のありかを吐くんじゃないか?」
「知らねぇよ。殺るべきだろ。見つからねぇ上に見られたとあっちゃ、どうなるか」
「けどよ……」
男らは雇われの身らしく深玉のことをよく知らないようだ。
「そっちの都合なんて、どうでも、いいわ、よ……っ」
深玉はふたりが言い合う隙を見て、手の中の硯を投げつける。しかしうまく飛ばす、男の脛に当たっただけで終わる。
それでも怯ませる効果はあったようで、男が呻きながらよろめき。続けざまに文鎮を投げつける。
「うがっ」
それは、もうひとりの男の眉間にぶち当てることに成功した。倒れ込む男を見やり、深玉は凛凛の腕を引いてなかば引きずって立たせる。
「行、くよ……!」
扉へと駆ける。ふたりでもつれるようにして外に出かけたところで、ぐんと後ろに首が仰け反った。くそ、と普段は口にしない悪態がまろびでる。男に髪を掴まれている――気づいたときには遅く、体勢を崩して後ろに転んでしまう。したたかに打ちつけた背中と頭に、ぐっと息が詰まる。
「深玉さ……ひゃあ!」
凛凛が扉の外に蹴り飛ばされ、庭木の影に倒れ込むのが視界の端で見えた。
「凛、凛」
「このくそ女ども、手間取らせやがって」
馬乗りになった男が深玉の首に手をかけた。
「いや……!」
「しくじって俺らがあの女に殺されたらどうしてくれんだよ。この時間は人がいねぇって聞いてっから派遣されてきたのに、ガキが出てくるわお前が来るわで、話が違うっての……」
だんだんと男の手に力が込められていく。
「あ、ぐ」
「後宮は似たような女の集まりだからな。お前みたいな女がひとりいなくなろうが誰も困らねぇよ」
苦しい。いやだ。薄汚れた太い指が深玉の喉にめり込み。視界が明滅する。
「ここに来たお前が悪いんだからな。来なけりゃ死ぬともなかったってのに」
――こちらが、悪いのか?
蓉昭儀の遺書に関わらなければ、こんなことにはならなかったのだろうか。夏丞に引っ張られるがまま、奥深くまで踏み込んだのが間違いだったのか。
真実を守るため、皇后に脅されて、凛凛を傷つけられ。
ここまでして貫かねばならなかった信念は、いったいなんなのだ。
深玉に言葉を託す、雪燕の顔が脳裏に浮かぶ。切実な色をしていて。蓉昭儀の文字。濃藍の簪に、後悔と口にした夏丞の慈しむ瞳。雷鳴の中、父に問う幼い深玉の姿が。
『おとうさん。その信念は、だれのためにあるの?』
振り返る父の目は真っすぐで。あのとき父がなんと答えたのか、ずっと思い出せずにいた。混濁していく意識の中で、はっきりと思い出す。
『深玉、私の信念はな――』
そうだ。あのとき、父は。
「――深玉さん!」
そのとき、鈍い衝撃音が響いた。