5-3 雷雨からの解放
深玉は牀榻へ倒れ込む。髪が崩れて顔にかかるが、気にする余裕はなかった。ようやくひとりきりになれた。脱力して、頭から釵子を引き抜いて脇の卓に置く。
「はやく、筆録房に帰りたい……」
声に出したところで、叶うわけではないと分かっている。
――まさか一晩、中宮殿に留まることになろうとは。
『深玉、顔色が悪いわ。外で倒れてしまったら大変よ。今日はここに泊まりなさいな』
話の一区切りがついたところで、煕貴皇后がとってつけたようにそう言った。適当な理由を並べて辞そうにも、あとからやってきた杜局長にまで強く勧められてしまえば、拒めるはずもなく。これが形ばかりの配慮――見えない圧であることくらい、深玉も理解していた。
囲い込まれた気がしてならない。
深玉は室内を見渡す。北向きの涼しい小房だ。絹の寝具、螺鈿の嵌め込まれた漆の卓、替えの着衣――いち女官にここまであてがうのは破格の待遇だろう。
これが罠でないとしたら、なんだというのだ。
室内を整える女官らの訝しげな視線をなんとかやり過ごし、ついでに世話役の宮女も外に追い出して。やっと一息をつける時間が今だった。
「……凛凛は大丈夫かな」
呟けば、胸にじわじわと不安感が押し寄せる。
彼女をひとり、筆録房に残してしまっている。彼女は深玉らの事情を知らないのだ。杜も皇后側の人間である以上、筆録房が安全とは限らない。
寝返りをうてば、窓から漏れる夕陽が深玉の顔を照らした。眩しさから目を背ける。
対面した感触からして、皇后が事件の裏を握っていることは確実だった。くわえて、深玉や夏丞が探りを入れていることも知られている。
問題は雪燕の託された言葉の存在を皇后側が把握しているか、だが。
おそらく存在は認知していても、内容までは把握していないだろう――深玉は吐息する。
深玉を囲い込もうとしているのは、雪燕が廉明殿で守られており情報を聞き出したくとも近づけないからだ。深玉に注意が引きつけられている限り、雪燕の身は安全ということで。やり方はどうであれ、こういう夏丞の手抜かりのなさだけは信用できると思う。
――あの男は、今なにをしているのだろうか。
夏丞と口論になったのが、遠い昔のようだ。あのときの急き立てられるような感情の熱はとうに冷えている。
彼にも曲げられない信念があるのだろう、と思う。頑なな職務への姿勢は、夏丞を形作る要素のひとつにすぎない。
そして、その信念ゆえに深玉に明かせないことがあるのであれば――それは仕方がないことなのだ。
「……ああ、そうか」
夏丞が深玉をどう思おうと、それは夏丞の問題だ。深玉の信じたいという気持ちが間違いだったわけではない。
ふっと心が軽くなった気がした。
裏切りと感じているのは、彼を知らなかった痛み――嘘をついた彼が悪いのではなく、知れなかった自分が悔しかったのだ。
母のこともきっとそうだ。
あたたかな記憶まで塗りつぶして、母の気持ちを疑ってしまっていた。
人と向き合うのは難しい。でも、繋ぎ止めたいなら、ここで逃げてはいけない。悲しい記憶で塗りつぶしては駄目だ。
瞼が重い。目を閉じれば、どっと眠気が襲ってくる。
「なら、わたしは……」
母と夏丞、ふたりの優しい嘘に救われた事実はなにがあっても変わらない。
母と話すことはもう叶わない。だから、せめて彼に会うことが叶うなら――そのときは、ちゃんと夏丞のことを知りたい。
そう思ったところで、意識が途切れた。




