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5-2 不気味の中宮殿


 ✣✣✣


 中宮殿は紫薇(しび)木槿(むくげ)が咲き乱れていた。先をゆく案内(あない)の女官の背中を追いながら、深玉(しんぎょく)は廻廊からのぞむ庭園に目をやる。

 満開の庭花、瑞々しい木々、雑草ひとつない玉砂利。皇后ともなれば住まいが最上級であるのは当然なのだが、ここはあまりに整いすぎていて――美しさの中に、不気味さを帯びているように思えるのは、こちらの心持ちのせいだろうか。


 ふと通り過ぎた硝子の透かし戸に、自身の姿が映り込む。凛凛が奮闘してくれたおかげで、謁見にも耐えうる装いに仕上がっている。結い上げた(もとどり)釵子(さいし)を飾り、いつもより丁寧に化粧を施して。

 しかし、普段より顔色が悪いことは隠しようがない。深玉は落ち着きなく手を組んでほどく。

 煕貴皇后とは、廉明殿で一度話したきりだ。いったいなんの目的でわざわざ深玉を呼びつけたのか、考えるだけで足が震えた。


「――深玉」

 見知った声に顔を上げると、()が側殿の扉の脇に立っていた。案内の女官が杜に一礼をし、場を辞していく。

 おもわず声が漏れる。「局長? なぜ……」

「お前の上司なのだから、取次は私がするに決まっているだろう」杜はどこか疲れた面持ちで、深玉の側に寄ると肩をたたく。「今日はなんでも聞かれたことは素直に答えなさい。中宮さまは、お前と気負わず話したいとおっしゃっておられる」

「わ、分かりました」

 上司の顔を見れなかった。深玉は、送りつけられた脅迫文――あの差出人が、杜ではないかという疑念を抱いていた。


 あの眠れぬ夜の日、知るうる限りの女官の筆跡をひとつずつ照合していった結果、脅迫文に()()()内の女官の文字が多く使われていることが判明した。尚宮の女官の文を自由に扱え、かつ深玉の筆跡鑑定の手法を熟知し、偽装する知識と技術を持つ者。思い当たるのは、杜くらいであった。


「私は外で待つよう言われている。なにかあれば、声をかけなさい」

「……かしこまりました」

 緊張による固さだと思ったのか、杜はこちらの態度に言及してこない。


 以前、尚宮の女官がこちらを監視していたこともあった。それがもし、杜による指示ならば――いや、それ以前に彼女が皇后側の人間ならば、杜の手引がをして沙李に蓉昭儀を毒殺させたのではないか?

 足元から震えが立ちのぼってくる。誰ひとりとして、ここに自分の味方はいない――しかし負けるわけにはいかない。深玉は息を吐き出すと、決然と室内へと足を踏み入れた。身を低くし、膝をついて皇后のもとまで擦り寄る。


「中宮さまにご挨拶いたします」 

「まあ、いらっしゃい。どうぞ立って」

 直接皇后から声がかかる。どうやら室内に伺候している女官はいないらしい。早々にふたりきりにされてしまうのか――深玉は焦りを押し殺し、揖礼をささぐ。

「尚宮は筆録房より参りました、陶深玉と申します。中宮さまにおかれましては、ご機嫌麗しゅうございます」

「顔を上げて。楽にしてちょうだいね」


 顔を上げれば、深い臙脂(えんじ)襦裙(じゅくん)(まと)った皇后と視線が交わった。椅子に腰掛け、茶杯を手にふわりと笑まれる。

「さあ、こちらに来て。一緒にお茶を飲みましょう」 

 深玉ひとりを呼び出した気安さからか、皇后の装いは格式張らず、装飾も高髻(こうけい)金鈿(きんでん)()すのみに留まっている。金糸の牡丹があしらわれた上衣の上には白の薄衣を重ねており、後宮の主として喪に服す様子がうかがえた。


 あくまで、良き皇后としての体面は崩さないつもりか。

 深玉は勧められた椅子に慎重に腰掛ける。目の前の卓には、湯気の立つ茶杯が置かれていた。


「突然呼び出されて驚いたのではなくて?」

 皇后は(わきま)えのある女性らしく気遣いを見せる。

 深玉は曖昧に笑む。「はい、その。すこし驚きました」

「ふふ、ごめんなさいね。脅かすつもりはなかったの。ただ、お礼が言いたくて」

「お礼ですか?」

 繰り返すと、皇后はおっとりと頷く。「蓉昭儀ようしょうぎの遺書の件よ。鑑定してくださったのでしょう? 」

 いきなりか。心臓が跳ねる。「……職務の一環ですから」

 当たり障りのない返答で濁してみれば。

「あのような場で確かな手を示せるのは、並のことではないわ。おかげで事が穏便に収まったもの。ありがとう」

「……恐れ入ります」


 膝の上で揃えた手が冷えていた。皇后はどこまでも穏やかで――事件に関わっているようにはみえないのだ。

 けれど、これまで積み重ねてきた事実は、確実にこの女性を指し示している。皇后がどこまで深玉の得た情報を把握した上で話をしているのか、疑問は募っていく。


「そう固くならないでね」皇后はその細い指で皿から桂花糕をつまみ、「よかったらお茶も飲んで。外は暑かったでしょう?」

 目の前の茶杯を指し示してくる。 

「……では、いただきます」

 言って、本当に口をつけるか悩む。蓉昭儀も魏美人ぎびじんも、毒を盛られて亡くなったのだ。もしここになにか仕込まれていたら――そう思うと、手が止まる。

 しかし手つかずでは心象も悪い。ここで彼女を疑っている素振りは見せてはいけない。


 深玉は意を決して茶杯に口をつける。さりげなく飲むふりをして「美味しいです」と微笑めば、皇后は嬉しそうに目を細めた。

「よかったわ。わたくしが外廷経由で取り寄せてもらうお気に入りの茶葉なのよ」

「そう、なのですね」

「……ああ、外廷といえばなのだけど」

 見れば、皇后が困ったように眉を下げた。「すこし小耳に挟んだことがあって。深玉はよく外廷の官人と、ともに行動をしているらしいわね」


 夏丞かじょうのことも当然、把握しているか。あの男はあれだけ堂々と歩き回っていたのだ、皇后の耳にも届いているに決まっている。

「それは……」

「勘違いしないで。わたくしは心配しているだけよ」彼女の衣擦れの音がやけに耳に残る。「後宮の中には、あれこれと余計な詮索をしたがる方もいるでしょう?  特に、女官が男官と親しげに行動しているとなれば、ね?」

「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません」

「大丈夫よ。あなたの働きぶりは、みなが見ているもの。やむにやまれずだって、ちゃんと分かっているわ」

「……ありがとうございます」

 口調は穏やかだが、端々にひりついたものを感じる。


「ただ……あなたのような立場の方は少しのことで評判がついて回るわ。損よね」

 皇后は一口茶を飲むと、ため息をつく。「わたくしも昔、心ない噂に悩まされたことがあるの。若い頃は、特にね」

「噂、ですか」

「ええ」つ、と皇后のまろい目が細められる。「でも、噂が真実になるとは限らない。気をつけていれば、それで済む話よ」

 背中を汗が伝う。釘を刺されていると思った。言外に、これ以上嗅ぎ回るなと言っているのだ。

 深玉は静々と頭を下げる。

「はい、心に深く刻みます」

 表情を変えるな。悟られるな。

 乾く喉に唾を飲み込んで口を引き結んでいると。


「わたくしは、あなたのお父上のことも知っているのよ」


 前触れなく落とされた言葉に、深玉はおもわず息を呑んだ。

「あなたと同じ筆跡鑑定官だったのでしょう? 陶浩俊(とうこうしゅん)。当時の集賢殿(しゅうけんでん)でとても優秀な方だったと聞いていますよ」

 こちらが言葉を発せずにいると、皇后はわずかに声の調子を落とす。

「出納帳の改竄(かいざん)、だったかしら? あのときは主上がとても頭を悩まされていたから、よく覚えているわ。あなたのお父上が同平章事(どうへいしょうじ)の不正を指摘したのよね。けれど、それは誤りだった」

 誤り――深玉は俯いたまま唇を噛む。


 そうだ。父はこの出来事をきっかけに失脚した。

 当時の父は集賢殿の出世頭で、筆跡鑑定官として主に戸部(こぶ)に関する書簡を検閲していた。しかしあるとき、父はときの同平章事――宰相が、財政の台帳の一部を書き換える不正を働いていることに気がつき、帝に奏上した。


 この件は当時の朝廷で揉めに揉めたと聞く。

 しかし、確たる証拠が筆跡の真贋以外にないこと、他の鑑定官らが鑑定結果を否定したことから、父は虚言を吐いたのだと声高に罵られることとなった。そして、不当な汚名を宰相に着せようとしたとの嫌疑がかけられ――結果、父は朝廷を追われた。

 鑑定結果に間違いはなかったのに、だ。

 そのときの朝廷の権力図など、深玉には分からない。けれど、周囲が権力におもねる形で父が孤立していったのだと、間近で見て思い知った。


 皇后は痛ましそうに顔をしかめると、深玉の隣に膝をついた。

「あなたもきっと苦労したでしょうね。辛くはなかった?」

「わ、わたしは――」言葉に詰まる。

 辛いなんてものではない。

 父母は、深玉は。

 この失脚を機に、人生が一変したのだから。


 深玉は、あのときの父が寝る間を惜しんで文字に向き合っていた姿を見ていた。信念には代償が伴う――そう言い、自らの地位を掛けて不正を証明しようとした姿も、はっきりと覚えている。

 なのに、いまや地方の閑職。ほとんどを家の中で過ごし、ろくに出仕もしない。

 母は周囲からの視線に耐えきれず、心労から気を病み、深玉を残して自ら逝ってしまった。


 あの日を境に、陶の名は嘘つき呼ばわりされるようになった。つらい記憶が頭を巡り、目の奥が熱くなる。

 皇后がいたわるように深玉の肩を抱く。「力ある人ほど周囲の目を惹くもの。影響力の大きさから、行動ひとつで人生が大きく変わってしまうのよね。……そういうの、見ていると苦しくなるわ。わたくしは、あなたにそうなってほしくないの」

「中宮、さま」

 肩を抱く手に力が込められる。細い指が、きゅうと深玉の肌に食い込む。

「どうか、何事にも慎重にね。もしなにか気がついたことがあれば、わたくしに話してちょうだい。きっと力になれるわ」


 雪燕の託された言葉を読み解けば、きっと真実に辿り着ける。けれど、見つかった告発文を世に公開すれば――深玉も父が通った同じ道を歩まねばならなくなるのか?

 苦しい。

 また、辛い思いをするかもしれない。突き通した先の信念に、いったいなにが残る?


「――深玉?」

 顔を上げると、皇后がやわらかに微笑んでいた。

「わたくしは、あなたを信じているわ。賢い深玉なら、きっと正しいことを為してくれるって」

「……はい」

「ふふ可愛い子。これからも後宮のために尽力してちょうだいね」

 なにを指摘されたわけでもない。けれど、その言葉に、笑みに。すべてを見透かされているような気がして。

「……はい、中宮さま」


 ただ――おそろしいと。

 この女性の底知れなさが、怖かった。



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