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5-1 憧憬


 掖庭局(えきていきょく)内の奥まった里院(にわ)は、薄紅の夾竹桃(きょうちくとう)が群生していた。(かこい)ひとつ隔てた先の中宮殿は、麗しく整った花木が立ち並んでいるというのに、対してここはろくに手入れもされていない。夏丞(かじょう)は里院に面した欄干(らんかん)へ腰を下ろし、額に張り付く髪を苛苛(いらいら)と払い除けた。


 これでは、せっかくの大輪の花々もただの雑草も同然だ。

 生温い風に涼を任せて襟を緩めていると、控えめに「夏丞さま」と声をかけられる。視線だけ寄越せば、執務を抜けてきた旧知の官が深々と頭を下げていた。


「なんです」

 淡々と返すと、霍漣衡(かくれんこう)はさらに頭を低くする。

「お詫び申し上げます。まさかあの女官に立ち聞かれているとは思わず」 

「ええ本当に」うんざりと(くつ)先で床を小突けば、霍が顔を強張らせた。「素人相手に盗み聞きを許すとは、掖庭はなにをやっているんでしょう」 

「返す言葉もございません」

 深玉が口にしていた内容からして、情報が漏れたのは霍経由であることは明白だと夏丞は踏んでいた。

「……まあ、済んだことをとやかく言うつもりはない」夏丞は霍に顔を上げるよう促す。「ところで、蓉昭儀の件はどのように主上へ報告したのです」


 こちらを一瞥した霍は、さらに顔を曇らせる。「彼女が何通か分散して秘匿していた告発文は、中宮の手によってすべて破棄された可能性が高いと。もしまだあるとすれば水祥殿内ですが……こちらも現在中宮により封鎖されており、いずれ取り壊しの予定と聞きます。中への立ち入りが難しい状況かと」

「なるほど。あの女狐が甲斐甲斐(かいがい)しく後宮を扇動してきた成果はあったのか」


 呪いだなんだと(うそぶ)いて水祥殿を孤立させてきた目的は、これだったか。

 すべてが後手に回っている――夏丞はため息を落とす。書庫に隠されていた告発文を墨塗りにした時点で、あの(さか)しい皇后は勝ちを確信していたに違いない。一通として回収できていない状況に、腹を立てるなという方が難しい。


 むっすりと黙りこくっていれば、見かねた霍がおそるおそる切り出してきた。

「夏丞さま、芙蓉の侍女から話は――」

「引き出せていれば、こんなところで油を売ることなく主上に報告をしているとは思いませんか?」

「……おっしゃる通りです。申し訳ございません」 

 半ば八つ当たりであった。見やれば、夏丞の指摘にこうして背中を丸める霍の姿は昔から変わっていなかった。冷徹とも名高い後宮の長も形無しである。


 夏丞は髪をかき上げ、先程まで話していた雪燕の様子を思い出す。

 深玉から情報を得られなくなった以上、彼女が言う通り雪燕から聞き出す他ないのだが――雪燕はこちらを警戒して、ほとんど話に応じなかった。

『私は深玉さまにお話したのです。内容をお知りになりたいのでしたら、どうぞ深玉さまからお聞きください』


 信頼して任せたはずの深玉が夏丞に話していない時点で、雪燕の不信感を煽るには十分すぎた。以前からこちらに気があるような素振りがあったのでうまく懐に入れば多少はいけるかとも思ったが、まったくの空振りであった。

 さすが、あの蓉昭儀が信頼して死後の遺言を任せた人間なだけはある。


「……人の心とは、面倒なものですね」

 他者との結びつきなど、所詮環境に応じて変わる利害関係でしかない。状況が変われば簡単に壊れるものに心を寄せるなど、愚かしいことこの上ない。


 そのはずだった。

 深玉への気遣いも、はじめは彼女が大切な駒であるが故のものだった。一線を引いて付かず離れずの距離を保ち、利用しやすいよう関係を詰める。

 心など痛むはずはなかった。己の長所、利用できるものは把握していた。


 けれど――いつからだろうか、彼女の夏丞自身を見ようとする姿勢に、心が揺れるようになったのは。


「では、あの女官の身柄はどうされますか?」

 やはりこの話題になる。霍が横に並ぶも、夏丞は庭に視線を落としたまま口を開く。

「どう、とは。放っておけばいい」

「そんな訳にはいきません。あなたの立場が知れてしまったのであれば、速やかに対処を――」

「すべてを知られた訳じゃない」夏丞はざらついた欄干を撫でる。「刑部の人間でないことは露見しましたが、核心は見抜かれていない」

 そも、己の正体など誰も気づきようがないのに――夏丞は自嘲する。

「ずいぶんと、甘い対応ではないですか」霍が声の調子を落とす。「情けをかける理由がおありで?」

「余計な手間を省きたい。時間は有限なのだから」

 言いながら、深玉が真っ直ぐに放った言葉がなぜか耳に残っていて。

『あなたに殺されたとしても、文句は言わない。最後にきちんと言葉で話ができたから、わたしはそれで十分』

 自分が利用されていたと知った上で、よくそんなことが臆面もなく言える。


「……放っておけと申しますが」霍が郭の向こうへと顔を向ける。「中宮があの女官を呼び出していることは、ご存じですか?」

「……そんな馬鹿な」初耳だった。首筋を嫌な汗が伝う。「いつです」

「本日としか聞いておりませんが……早く動かねば、手遅れになります」

 口を閉ざしていれば、霍が目の前に立った。

「夏丞さま、分かっておられるのでしょう?」珍しくこちらを前にして強気な眼差しだ。「いまや芙蓉の告発文の在り処を知っているのは、胡雪燕と陶深玉のみ。雪燕はすでに廉明殿にて監視させているので、身の安全も情報を引き抜かれる心配もありませんが……陶深玉は違う」

 黙ったままの夏丞に、霍はじれったそうに袖を掴んでくる。

「あの女官が中宮のもとに行き、もし情報を渡したら……中宮のもとに(くだ)ったら、どうなります。こちらが探りを入れていた尻尾を、堂々とあの女に掴ませることになりますよ。そうなる前に――」

「始末しろ、か」

 吐き出すように告げれば、霍は頷く。

「始末でなくとも、せめて後宮から引き離すべきです。そうすれば、拷問なり脅しなりで情報を引き出せます」


 分かっている。いつものこちらのやり方だ。影に紛れて必要な情報を得る。

 侍女の沙李も、同じようにして自白させた。たった一度話した程度の女に感情など動かされやしないが、もしあの泣いて許しを請う沙李の姿が――もし、深玉だったら? 考えただけで、胸に棘が刺さったような痛みが走る。


 霍の目がすがめられる。「いつになく迷っておられますね。まさか、あの女に(ほだ)されたのではありませんよね?」

 絆される? そんな綺麗なものではない。

「すこし、違うな」この胸の棘に名をつけるのは難しい。夏丞は薄く笑む。「あの人は、私たちがとうの昔に捨てたものをすべて持っている。それが妬ましくて、羨ましくて……とても眩しいんですよ」


 薄闇に身を潜めねば生きていけない己との違いを、まざまざと見せつけられているようで。過去に怯えながらも懸命に前を見ようとする姿は、痛々しく。そばにいると息苦しさを覚えるのに、彼女の見て語る世界は誠実で美しく――捨てがたく、否が応でも目を惹くのだ。

 だから、脅迫文の存在を隠し夏丞から遠ざかろうとする彼女に苛立ちを覚えた。散々こちらの一線を踏み越えようとしたのに、やはり最後には離れていくのかと。


 自業自得と分かっていても、この憧憬(どうけい)()えとも似ている。

 恋と呼ぶには軽すぎて、愛と呼ぶには歪すぎる。誰かの名付けた安易な枠に、収めたくはなかった。


 霍はしばし唖然としたように夏丞を見つめていたが、「やはり」とこぼす。

「あなたさまにそんな顔をさせるあの女官が、私は(うと)ましいです」

 気まずそうに視線をそらされた。それがなんともおかしくて。

「はは、それはそれで嬉しいな。お前がそう躍起になるのは珍しい」

 破顔すれば、霍がむっと口を尖らせた。

「ですが、感情を捨てるのがこの仕事だと夏丞さまは常おっしゃっておられた。それは、お変わりありませんよね?」


 悲しいことに現実はいつも残酷だ。永遠などありはしない。

「……そうですね」夏丞は欄干から腰を浮かす。「美しい夢も、いつかは終わるものですからね」


 胸に刺さる棘から血が流れようと、歩みを止めることはできない。

 生き残るために、帝に人生を捧げた身なれば。その人生を、今さら否定することは許されないのだ。

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