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【完結】後宮の筆跡鑑定官 秘された遺書とかりそめの関係  作者: 高里まつり
第四章 破られた紙はもとには戻らない
34/44

4-11 決裂


 ✣✣✣

 

 外から鳥の(さえず)りが聞こえる。

 もう朝か。深玉(しんぎょく)は乾いた目をこする。筆録房(ひつろくぼう)で夜を明かすのは、もう二度目だ。もともと寝るつもりもなかったので、長榻(ながいす)で脅迫文の送り主を特定させるものでもないかと、過去の資料を漁っていた。おかげで、多少の成果はあげられたと思っている。

 疲労はあるが、思考は昨日より正常に働いていた。夏丞と会っても、昨日ほど動揺せずに話せそうだと思った。


「……とりあえず、着替えるか」


 奥の小間(こべや)で身支度を整える。最低限の衣類のみ保管しておいてよかった。深玉は手早く上衣を脱ぐと、新しい衣類に着替えていく。

 窓の向こうからは、早朝出の宮女らが庭に散水をしている音がしていた。涼をとることが目的だが、こうも暑いと地面もすぐに乾いてしまうだろう。


 と、扉が開く音がした。

 ちょうど凛凛が来る頃合いだ。帯締めだけでも手伝ってもらいたい。深玉は衝立から顔を覗かせた。


「ああ、おはようございます」

「……おはよう」

 なんでこの男なんだ。いやたしかに明日話すとは言ったが、こんなに早く来るやつがあるか。


 深玉は憮然とした表情のまま衝立の奥に引っ込んだ。

「昨日に引き続いてそう嫌な顔をされるとさすがに傷つくのですが」

 誰のせいだと――近づいてくる気配に、深玉は声を上げる。

「来ないで。今着替えてるから」

「それは、失礼しました」ついでとばかりにため息を吐かれる。「施錠もせず、堂々と身支度を整えられるとは。無防備が過ぎるのでは?」

「ここには凛凛と私しかいないのに。気を張る必要なんてないでしょう」

「……前々から思っていましたが」支度を終えて衝立の陰から顔を覗かせれば、呆れたような顔をした夏丞がいた。「深玉さんはご自分のこととなると、相当()()()でいらっしゃいますよね」

「女しかいない職場でなにを気遣う必要があるの」言いながら、深玉は卓へと視線をすべらす。「なにか飲む?」

 脅迫文に関するものは、席を立つ前にすべて抽斗にしまっていた。夏丞には気づかれていないはずだ。

「今は、私がいるんですけれどね」夏丞が諦めたように首を振る。「いただければなんでも飲みますよ」


 思ったより夏丞と普通に話せる――深玉は胸を撫で下ろす。夏丞もこちらの出方をうかがってか、昨夜の深玉の様子に触れてこない。これが上辺だけの当たり障りのない会話だとしても、安堵してしまう。

 橱柜(たな)にたしか茶葉があったはずだと、深玉は中を漁る。


「そういえば、凛凛を見なかった?」

「来る途中でお会いしましたよ。ただ、呼び出しがあったとおっしゃって尚宮の方へ行かれていました」 

「……そう」

 こんな早朝から呼び出しとは珍しい。けれどそろそろ月の給金が出る頃合いだ。手当をもらいに行ったのなら、すぐに戻ってくるだろう。

 ならこの話をするのは、今しかない。


「ねえ、昨日の雪燕の話なんだけど」話して、きちんと正面から問うのだ。彼の立場について。深玉は茶缶を取り出し中を見て、「廉明殿で、雪燕が蓉昭儀さまから言付かってたことが……夏丞?」


 返事がない。嫌な予感がした。

 急ぎ振り返り――男が抽斗の前に立っていることに気づき、あっと声を漏らしてしまう。

「ちょっと!」音を立てて茶缶が床に落ちる。

「これは?」

 彼の手にはあの脅迫文――しくじった。深玉は顔をしかめる。

「返して」

 夏丞は抽斗を撫でる。「視線には気をつけた方がいい。頻繁に見ていては、なにかあると言っているようなものですよ」

「そんなこと聞いてない。いいから返して」

「抽斗の中でずいぶんぞんざいに畳まれていましたから」文面へと目を走らせている。「他は適当でも書面に関しては人一倍神経質に気を配るあなたが、文面を傷めるような扱いをするなんて、一目見てこれはなにかあると思いましたよ」

 夏丞はみるみるうちに表情を険しくする。

「で? この手紙はいつ来たんです。昨日様子がおかしかったのはこれのせいですか?」

 言って、制止する間もなく抽斗の中をさらに漁られる。

「夏丞!」

「ああ脅迫文の外袋は……これですか。糊の乾きからして、昨日開けたものじゃありませんね」ひたと見据えられる。「なぜ黙っていたんです」

「なぜって……誰の犯行かも分からないし、これが来たときはつけられた直後で――」

「つけられた直後?」夏丞の眉がひそめられる。「そんな前から隠していたんですか?」


 しまった、墓穴だった。「それは」

「尾行された後なら、尚更命の危険があると理解していたはずです。知らせてくださらないと、深玉さんになにかあっても動けません」

 隠し事をするなと、この男が言うのか?

「あなたに、言われたくない」違う、冷静になれ。深玉は細く息を吐き出す。「……蓉昭儀さまのことは、わたしが決めてここまで踏み込んだ。あなたに指図される筋合いなんてないはずよ」

 感情に流されず話そうと、見えている姿を信じたい気持ちもあるのだと、思っていたではないか。

 けれど、無情なほど夏丞の態度はいつもと同じで。

「どうしてあなたはそう、いつも強情なのです」けれど夏丞はうんざりとため息を落とし、「私は、ただあなたを心配しているだけです」


 その言葉を真正面から受け止められる余裕は深玉にはもう残っていない。

 そうか、とひとりごちる。どれだけ同じ情報を得ようとも、どれだけ事件に関わろうとも、夏丞の中で深玉は所詮ただの協力者なのだ。責任を背負わせる気も一線を踏み込ませる気もない。

 それがどれほど深玉の矜持と信頼を損ねる行為なのか、分からないわけがないだろうに。


「……心配している?」言葉とともに吐き捨てる息が震えていた。「どの口が、それを言うの」

 言いたくない言葉が、引きずり出されていく。頭の中が焼き切れそうだ。

「深玉さん、どうなさって――」

 深玉は男の目を見据える。

「もう誤魔化されないから。わたしがなにも知らないとでも思った?」

 夏丞が動きを止める。「……どういう意味です」


 醜態を晒している自覚はあった。

 けれど、駄目だ。もう止まれない。


「わたしのことなんて、都合のいい駒としか見ていないくせに」

「なにを」

「あなたの心配は、わたしのことを思ってじゃない。筆跡鑑定できる駒がいなくなるのが困るからでしょう。使えなくなれば、始末する……違うの? 夏丞()()

 はっきりと口に出すと、男の顔色が変わった。

「誰に……聞いたのですか」

 腕を掴まれる。けれど答える気も、二の句を継がせる気もない。「あなたははじめからわたしに……いえ、今回関わっている人全員に嘘をついていた」


 霍の刑部を隠れ蓑という単語で、ようやくはっきりした。夏丞はそもそも刑部の指揮下にいないのだ。だからはじめから蓉昭儀の死の原因ではなく、目的に絞って行動できた。


「退去命令が出たあたりからおかしいとは思ってた」夏丞は正義感が強いわけでも、権力への反骨心があるわけでもない。なのに彼はいつも周囲の圧を物ともせず立ち振る舞っていて。「あなたが密偵なのかもと考えたら合点がいった」

 刑部よりさらに上の人間――帝の直命で動いてるのであれば、周りの圧などない等しいに決まっている。

 夏丞は語気を強める。「答えてください。あなたにいらぬことを吹き込んだのは、どこの誰です」

 腕を振りほどこうにも、夏丞は微動だにしない。

 深玉は男を睨む。「安心して。あなたの正体を言いふらしたりなんてしないから」

「そんなことを心配しているんじゃありません」食い気味に否定され、「可能なら、あなたに知られたくなかった。知らないままであってほしかった」

 その声音に嘘はない。けれど――それがどうした。深玉は顔を背ける。

「身勝手すぎる。意図を隠して近づいてきたのは、あなたの方なのに」

「……否定はしません。最初は正直、深玉さんが使える人かどうかだけを見ていた。うまく抱き込めば、利用価値は高いだろうと」


 走廊(ろうか)の向こうから、誰かの談笑が聞こえる。この場所は、互いの呼吸音すら拾えるほど冷え切っているというのに。


「けれど」夏丞の手がゆるむ。「深玉さんが信じるに足る人だと分かったところで、私には引き返すという選択肢がなかった」

 彼の瞳には、どこか諦念をはらんだような色があった。

「もっとひどく責めてくださればよかったのに。あなたは根が優しすぎる」

「なに、それ」

 夏丞は深玉の手を取ると、詫びるかのように自身の額を擦り寄せた。

「深玉さんを傷つけるだけの出会いになってしまったことだけが……本当に悔やまれます」


 深玉はじっと男を見つめる。

 はじめてこの男の心に触れた――そんな気がした。けれど、もうこんな感情に振り回されるのは懲り懲りだった。


「もっと早く、その言葉が聞きたかった」

 深玉は手をそっと引き抜くと、男の頭を軽くはたいた。

「な、にを」 

「勝手にわたしの感情を決めつけないで。あなたにはちゃんと感謝してるんだから。殻に閉じこもっていたわたしを、無理やり外の世界に引っ張り出してくれたから」


 あのまま夏丞と出会わなければ、今でも自分は母の葬儀の日で立ち止まったままだったろう。人を信じる一歩を踏み出すことができたのは、紛れもなくこの出会いのおかげだ。


「……深玉さん?」

 見たことのない戸惑いの表情を浮かべる夏丞を見て、すこしだけ胸がすく思いがした。最後にこの顔が見られたのだけは、よかったのかもしれない。


 深玉は自嘲気味に笑う。「あなたに殺されたとしても、文句は言わない。最後にきちんと言葉で話ができたから、わたしはそれで十分」 

 夏丞の顔が歪む。「そんなはずは」

「それが真実を暴く責任と代償なら、わたしは受け入る」

 信念には代償が伴うんだ――父の言葉を思い出す。自ら踏み込むと決めて知ったのだ。後悔はなかった。

「それと……雪燕は蓉昭儀さまのことで託されたものがあったわ」

 唐突に切り出すと、夏丞が息を呑む気配があった。

「それは――」

「でも、今のわたしがあなたにそれを伝えたら、雪燕の信頼を汚す気がする。だから、言えない」夏丞に対する不信感を抱えたまま情報を渡せば、想いを託してくれた雪燕を、かえって裏切ることになる気がしたから。「あったということだけ、伝えておく。残りは、あなたが雪燕に直接、確認して」


 この選択こそが、自分にできる彼女への誠意の形だった。

 深玉は一気にまくし立てると、扉の外に夏丞を押し出す。

「凛凛に合ったら、一言くらい挨拶はしてあげて。あの子、それなりにあなたに懐いていたから」

「……ええ、そうします」


 夏丞もそれ以上はなにも言わない。これでいいと思った。謝罪も、感謝も、欲しくはなかった。深玉は感情を締め出すように扉へと手をかけた。

 会話はこれで終いだ。


「今まで、ありがとう。それじゃ」


 ようやくこれ以上、感情をかき乱されずに済む――閉じた扉の向こうで足音が去っていくことに、どこか安堵している自分がいた。


 気を張って立っていた足から力が抜ける。床に座り込めば、昨晩よりいっそう冷たさが沁みた。

 もう疲れた。

 息を吐き出し、髪をかき回せばいかに己の指先が強張っているかを実感した。


 そのとき、外から忙しなく駆けてくる足音がした。音は真っ直ぐにこちらへ近づいてきており、深玉は眉を寄せる。まさかあの男が戻ってくるわけが――立ち上がりかけたところで、勢いよく扉が開け放たれた。


「し、深玉さま!」

 凛凛だった。息は上がり、顔は困惑に満ちている。いつにない彼女の慌てように、深玉は訝しむ。

「どうしたの、そんなに急いで」

「い、今さっき杜局長から連絡があって」凛凛は青褪め、手を握り合わせた。「深玉さまに、ち、中宮さまから直々にお呼び出しが……今日中に一度顔を見せてほしいとのことです」


 先程まで熱を帯びていた頭が、芯から一気に冷えていく。よりによって、なぜ今なのだ。煕貴皇后が深玉を呼び出す理由など、蓉昭儀の件以外あり得ない。もしや、雪燕とのやりとりを見ている者がいたのでは――脅迫文の文面を思い出す。『次はお前だ』と。


「……わかった。支度をしよう」 


 これは筆跡鑑定に関わった己の責任だ。雪燕のときのように、背を押し出してくれる人はもういない。

 自分で、選び取るのだ。そして、真実を己の目で見極めてやる。

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