4-10 裏で糸を引く者
動かねばと思ってから、どれほど時間が経ったのか。
意図せず盗み聞いてしまった会話が、ずっと耳の奥にこびりついて離れない。深玉はただ無心に足を動かしたつもりなのだが――人はやはり安心できる場所を求めるらしい。気づけば見慣れた六局の殿舎に戻ってきていた。
既にほとんどの舎房の灯りが落ちているが、筆録房の窓からは仄かに灯りが漏れていた。まだ凛凛がいるのか。あの笑顔を思い浮かべるだけで、ようやくまともに息が吸える気がした。
院子を横切りかけたところで、筆録房の扉が勢いよく開いた。
「深玉さん、今までどちらに」
最も会いたくない相手に、いの一番に顔を合わせてしまった。足早に近づいてくる男に、深玉は身を強張らせる。
「雪燕さんと廉明殿へ行って帰ってくるだけだったのでは? ずいぶんと遅いではありませんか」
咎めるような夏丞の調子に、自然と拳を握り込む。胸の内に浮かびかけた言葉を、どうにか飲み込んだ。
「色々、あって」絞り出すようにそれだけ伝える。
今この男の顔を見ると、これまで抑えていた感情がみっともなく噴き出してしまいそうで。深玉は漏れる灯りに照らされた下草へ視線を落とす。しかし、しつこい夏丞はそれを許してくれない。
「深玉さん」夏丞が腰を屈め――こちらの顔を一目見るなり、あからさまに眉をひそめた。「……廉明殿でなにかありました? もしや、また道中で後を――」
「わたし、そんなに酷い顔してるんだ」
遮るように口を開けば、男の口端がひくと跳ねた。
「誤魔化さないでください」夏丞の語気が強められる。「茶化しているつもりなら、一度その顔を鏡で確認した方がいい」
この男はどういうつもりでこちらのことに口を出しているのか。いずれ始末するつもりの女に対してなにを考えている――深玉は奥歯を噛む。
「本当に、そういうつもりじゃ」
「ではなぜそんなに顔色が」無遠慮に顔を覗き込まれる。すると夏丞はさらに不審そうに眉を寄せ、「まさか、今までずっと外にいたのですか?」
逃れようと一歩下がる。彼のこういう距離の近さが嫌になる。「……今はうまく話せそうにない」
感情に呑まれたままでは、きっと冷静に話せない。一度きちんと気持ちを立て直すべきだ。これでは普段の自分らしくない。
「そんな顔をしてまで、黙っていようとするのはどうしてです」夏丞の語気がわずかに和らぐ。「私には話せないことでしょうか」
「明日ちゃんと話す。雪燕のことも……どんな話をしたかも」彼の気遣いが心に刺さる。「今は、ひとりにさせてほしい」
「……そうですか」
夏丞はそれ以上なにも言わない。深玉は男の横を通り抜けかけ、足を止める。今の彼を否定したいわけではないのだ。
「ごめん。それと、ありがとう」そして、今見えている彼を偽りのものだとも思いたくなかった。「おやすみ」
夏丞の目が戸惑いに揺れる。返事を待たず、深玉は筆録房へ戻り、扉を閉めた。
足音が遠のくのを確認してから、扉に背を預けてずりずりと座り込む。ずっと心臓が早鐘を打っていた。
床が冷たい。凛凛が中にいるかと思ったが、筆録房は無人だった。深玉がいつ戻るとも分からなかったため、夏丞が先に帰したのだろう。
「……動かないと」
こうして座り込んでいるのは楽だ。思考を止めて、感情に流されて。けれど、今の深玉は雪燕に蓉昭儀の言葉を託されている。自分にできることをしなければ、彼女に顔向けできない。
「それに……このままじゃ、夏丞と話ができない」
あれと話をするには、同じだけの情報をこちらも持っていなければ。
深玉は両頬をはたいて立ち上がると、抽斗の奥にしまいこんでいた脅迫文を引っ張り出した。いつまでも見て見ぬふりはできない。霍や夏丞に深玉を害する意志がある以上、この脅迫文が彼らの手であるのかどうか、調べる必要がある。
初見では動揺から判別は不能だと思ったが、あらためて見れば、なにか気づきがあるかもしれない。
一呼吸置き、いつものように紙を張って文鎮で留める。
一文字ごとに切り貼りされたそれは、筆跡から誰が書いたかの判別はできない。しかし、女性らしい文字ばかりだというのは分かる。その上、紙は別々の文書から切り取られている分、はっきりと特徴があった。
「貼り付けられている台紙は竹紙だけど……切り取られている文字は、大半が楮皮紙か」
後宮内で女官が扱う紙でもっとも馴染みがあるのが楮の紙だ。外廷は大半が今や竹紙、書きつけに麻紙といったところだ。
「つまり、外廷の文書から切り取ったわけじゃない。犯人は後宮内にいて、かつ周囲にも女の筆跡がある環境……?」
となると、宦官が詰めている内侍省の霍が作成したとするには違和感がある。ならば、尚宮内からの監視があったことを鑑みるに、これも作成したのは女官の誰かかもしれない。
「指示した人は――煕貴皇后」
夏丞の前では口にすることができなかったが、彼女が裏で糸を引いていることは間違いなかった。
何度考え直しても、すべての事件は彼女に帰結してしまう。
皇后は蓉昭儀に水祥殿を割り当て、自らが呪いの起点となることで香の力を演出した。噂が広まるにつれ、蓉昭儀は孤立を深めていった。
「掖庭令は告発文と呼んでいたけど」
蓉昭儀、すなわち芙蓉が書いた『真実を記す』告発文は、おそらく皇后のなにかしらの悪事を告発するためのものだ。告発文の存在に気づいた皇后は、蓉昭儀を自死に見せかけて毒殺したのだ。告発文の損壊が沙李の手によるのは、ほぼ確実だが――もしかしたら、毒殺も彼女が指示のもと実行したのやもしれない。雪燕のことを思えば、この仮説ですら胸が締め付けられる。
深玉は、廉明殿で皇后と接触したときのことを思い出す。物腰が柔らかく、優しげな印象の人だったのだが――この推理が本当に正しいなら、その二面性に背筋が寒くなる。
深玉は椅子に背を預け、思考を巡らす。
「皇后が蓉昭儀さまの告発文の存在に気づいていたのはたしかなのだけど……掖庭令と夏丞はいつ気づいた?」
気づくもなにも、だ。そもそも蓉昭儀を芙蓉と呼んでいた霍と、蓉昭儀の名を知っていた夏丞。二人はもしかしたら、彼女と生前面識が――ああ、そうか。
「だから、夏が巡り来るときなのか」
蓉昭儀は、皇后の告発文を書くことを最初から目的としていて、なにかあれば夏丞に託すよう、もともと取り決めていたとすれば。彼女が雪燕に『死を探りに来た者に言伝を話せ』と言った理由に納得がいく。夏丞は蓉昭儀が死ねば、後宮に来る手筈になっていたのだ。
では――なぜ夏丞でなければならなかったのか。
この一点だけが、判然としない。
夏丞はすべて知った上で後宮にやってきて、深玉に接触してきた。果たして彼の言葉がどこまでが真実で、どこまでが嘘なのか――深玉には知る由もない。
知る手がかりすら、彼は今まで見せてくれなかったのだから。
「わたしはそんなに、頼りなかったかな……」
きっと言えない理由があるのだと思う。
胸の奥が軋む。彼にとって、自分はどんな存在だったのだろう。知らせるにも値しない、ただの利用できる女官だったのか。
結局は頼りない無力な自分のままで――母のときと、同じじゃないか。
悔しさと苛立ち、そして言いようのない虚しさがあった。