4-9 男の正体
深玉は雪燕と別れ、薄暗くなり始めた帰路を、思考に合わせてゆっくりと辿り戻る。
『自分にもしもがあれば、その死について探りに来る者が必ず来る。その人間が信頼できると思うなら、これを話しなさい』『夏が巡り来るとき、私は死ぬだろう。あなたのはじまりの場所に、それを託す』
この『あなた』は暗喩――最初はそう考えたが、どうにも腑に落ちない。蓉昭儀は死を探る者が必ず来ると確信していた。ならば来る人間が誰なのかも、はじめから分かっていたのではないか?
「夏が、巡り来るとき……」
季節を表すにしては婉曲すぎる。彼女の死で巡り来たのは季節ではなく――夏丞?
初夏に、夏丞は後宮へ現れ、蓉昭儀は命を落とした。これなら辻褄が合う。
彼女は彼の到来を予期していたとすれば、夏丞のはじまりの場所とはなんだ。そもそも、蓉昭儀にとって夏丞が敵だった可能性はないのか。
そこまで考えて、深玉は思考を止めた。論理が飛躍しすぎている。余計な思考は判断力を鈍らせるのだ。筆録房に戻り、夏丞に問うのが一番早いに決まっているのに。
深玉は薄暮の迫る空を振り仰ぐ。
この情報を夏丞に伝えるのが、本当に正解なのかと揺れる自分もいて。藍に沈む雲の奥で、星が瞬いていた。なにが正解なのか、自身の中で決めねばならないときが迫っているのを感じていた。
と、背後からふいに「お前は陶深玉だな?」と声をかけられた。
聞き慣れない声だ。一瞬、頭に脅迫文のことが過ぎり、深玉はばっと振り返る。
「驚かせたか。悪いな」
そこにいたのは、霍漣衡であった。こちらの構えた姿に、訝しそうに眉を寄せている。
「失礼しました、掖庭令」
自分に何の用だろうか。深玉は急ぎ礼をささぐ。
この宦官の姿は遠巻きに何度も見ているが、直接言葉を交わすのは初めてだ。掲げた腕の隙間から盗み見ると、外廷からの戻りなのか彼の背後に童子がひとり伴っていた。
「面倒な挨拶はいい」煩わしそうな調子で、「今日筆録房に姚夏丞は来ているか?」
やはり深玉ではなく夏丞に用だったか。深玉は顔を上げる。
「来てはいますが」
「では頼まれてくれないか」
霍が折り畳まれた書簡を差し出してきた。霍の藍色の官服から覗く腕は日焼けもなく、真っ白だった。折れた袖が目に入り――深玉はそれを一瞥すると、言葉少なにこちらを見つめる霍と見比べる。
「これは?」
「廉明殿の敦皇子殿下の報告書になる。彼に渡してくれ」
以前見た弱りきった皇子の姿を思い出す。深玉は失礼を承知で口を開く。
「あの方は、今お加減はいかがなのでしょうか」
「良くもなく、悪くもなくだな」
噂に違わず、淡々とした物言いをする。あの夏丞とこれまでちゃんと会話が成立してきたのか、甚だ疑問だ。
「……そうですか」霍に直接皇子のことを訴えたとて、怪しまれるだけだ。悪い報せを聞かなかっただけ良い方だと思うしかない。「不躾に聞いてしまい、申し訳ありませんでした」
皇子のことは再度夏丞に相談するかと、深玉が書簡を受け取りかけたとき。
「まあ今後は快方に向かうかもしれないがな」
「……え?」今なんと言った。
「今は毒見役が常に水差しの毒を監視している。取り除けば、おそらく快方に向かえる」
「それは、本当に……」
霍はそこまでの情報を知っているのかと驚く。彼は完全に夏丞と情報を共有しているのだ。
「お前の意向なのだろう。もっと喜んだらどうだ」
そう言う霍の目はどこか嘲りを含んでいて。深玉は身動きが取れなくなる。
「それは夏丞……いや夏丞どのが、なにか掖庭令に働きかけを――」
「そこはお前が気にする必要のないことだ」
まるで蛇に睨まれた蛙だ。口ごもる深玉には目もくれず、霍が踵を返した。引き留めかけた手が空を切る。伴の童子が気にしたようにこちらを振り返っていたが、すぐに霍について行ってしまった。
なにか怒らせるようなことをしてしまったのか。それに、霍のあの温度のない目はなんだ。
深玉は強張っていた手をさする。やっと息が吸えた気がした。
手の中の書簡には、公文書で見慣れた霍の文字で表書きが書かれている。
いやそれよりも、だ。
先程見た霍の折れた袖を思い出す。あれは書き物をする際に袖が汚れないようにと捲ったときにできる、服の折れ皺だ。その皺が、あの宦官には左についていた。
この書簡も、常の公文書も、彼は右の手で書いているはずなのに。
「もしかして、あの人も……」
両の手が使える人なのか。
そしてこれが夏丞と同じだと気づくと、妙に胸がざわついた。霍と夏丞、ふたりにはどこか似た符号が揃っているのが気になる。
深玉は霍の後ろ姿を目で追う。後を追うなら、今だ。
小さくなった霍の後ろ姿を、深玉は意を決して追いかける。夏丞とあの宦官がどういった関係なのか、それが知れればすこしは夏丞への疑念が晴れるやもしれない。
「こっちか……?」
かなり遅れて、霍が入ったと思われる小路へ入るが、既に姿はなく。あたりを見渡しながらのろのろと歩みを進めていると、時折すれ違う通行人がこちらを不思議そうに振り返る。しばらく周囲の視線をやり過ごしていたが。
これは、見失ったか。
外郭の突き当たりまで来たところで、ようやく諦めがついた。空にはもうはっきりと月が輝いている。これ以上遅くなっては、夏丞に怪しまれてしまう。
筆録房へ帰ろうと、もと来た道を戻りかけて――殿舎と殿舎を区切る内郭の隙間から、先程見た藍の官服が垣間見えた。
――いた。
ここから呼び止めることはできるかと、内郭に近づいたところで、霍たちの話し声が耳に入り足を止めた。
「あの女にいつまでお付き合いなさるおつもりなのでしょうか」人目を忍ぶように押さえられた、高い声。霍と伴にいた、あの童子だ。「どうせ始末するのだから目をかける必要もないのに……漣衡さまも、この前そうおっしゃってましたよね」
始末、情――不穏な単語に、深玉は壁の前から動けなくなる。
霍がうんざりと吐息する。「それを俺に聞くな。俺たちはただ従うだけだ」
「ですが……」
「あの女は」霍は舌打ちでもしそうな雰囲気だ。「芙蓉の告発文が真に彼女の手によるものだと証明するため、生かされているのだとは思うが……いかんせん、その告発文が見つからん」
頭から冷水を浴びせられたような衝撃だった。
会話の中の女とは、深玉のことか。声が漏れないよう咄嗟に口を押さえる。蓉昭儀の名は、たしか芙蓉というのだと以前夏丞が話していたはず。
では、自分は蓉昭儀の筆跡鑑定のためだけに生かされているというのか。
耳の奥で、心臓がうるさいほど音を立てていた。
「では、そろそろ潮時ですか」
「絶好の機会だと主上も息巻いておられたが、残念だな」霍と童子の履が砂利を踏む。「夏丞さまもここに長居しては女狐に目をつけられる。退去に乗じて、しばらくはまた刑部を隠れ蓑にされるだろうな」
夏丞と霍は、知り合い以上の関係なのか。
それより今なんと言った。夏丞さま? 隠れ蓑? 深玉は浅い呼吸をくり返す。夏丞はただの刑部の官人じゃない。
ならあの男はいったい何者なのだ。
霍と童子の足音が徐々に遠くなる。深玉は内郭の壁に背を預けたまま、しばらく呆然と立ち尽くしていた。