3話 人誑し
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日昳を過ぎ日が傾きはじめると、後宮はゆるやかに活気づいてくる。皇帝の訪いを待つ女たちの支度が始まるのだが――しかし最近に限っていえば、その喧騒はなりを潜めていた。蓉昭儀の死。原因はそれ以外にありえなかった。
「なぜわたしまで同行するんですか」
深玉はげんなりと夏丞の後ろをついて歩く。こんな昼日中に外へ出たのは実に一月ぶりだ。初夏の陽射しが視界を焼く。癖のない一本結びの黒髪が、熱を持って首筋に張りついていた。
「言いましたよね、蓉昭儀の遺書はまだ残されたままですので、水祥殿へ行く必要があると」対照的に、夏丞の足取りは軽い。「それに、彼女の他の手記が見たいともおっしゃっていませんでした?」
「言いましたけど……書きつけでも、手記でも。あなたが取ってきてくれたら、それで済む話です」
「よくわかりませんね」夏丞が小首をかしげる。「先程のように、遺書を見て鑑定するのではないのですか?」
「違います。普通はいくつもの資料を突き合わせて確認するものです。さっきはあまりにお粗末な贋作だったので即断しただけですので」
「なるほど、勉強になります」夏丞が微笑む。「次がありましたら、深玉さんの手を煩わせることができるよう、努力しますね」
しなくていいのだが。深玉は聞き流す。
「書き物には必ずその人特有の癖が出ますから。筆致、墨の濃淡、字間、書き順……そういったものをいくつもの資料と照らし合わせ、本人の真筆かどうかを読み解くのが、本来のわたしの鑑定です」
「と、いうことは蓉昭儀のような見知って記憶した筆跡であっても、より慎重に鑑定するときは資料を見比べて作業する、ということですか」
「……そうです」
ずっと思っていたが、この男、口淀むことがほとんどない。口達者なだけでなく頭の回転も早いのだろう。腹が立つ。その上、文官とは思えぬほど姿勢がいい。前をゆく夏丞の伸びた背筋に、静かな足音――ようは隙がないのだ。
彼の腰に下がる魚袋が目に入る。あれには官人の所属が彫られているはずだ。刑部のどこの人間なのかと魚袋を凝視していると、夏丞が肩越しにこちらへ視線を寄越してきた。
「私になにか質問でも?」
「いいえなにも」
背中に目でもあるのか。怪しい。というより、すこし不気味だ。
深玉は取り繕って、視線を下に落とす。「あえて聞くなら、ひとつだけ」
「なんでしょう」
「遺書の真贋とあなたは言いますけど、もし万が一にでもわたしが偽物だと判じたら、あなたはどうなさるんですか」
予想外の質問だったのか、夏丞が愉快そうに笑う。「ふふ、どうなると思われます?」
「まず笑うところじゃないですし、今はわたしが聞いてるんですけど?」
政は上の意向ひとつで、真実がねじ曲げられる世界。おぞましくも憐れな場所なのだと、深玉は身に沁みて知っている。どんな結果であれ、所詮は女官の鑑定よと一蹴されそうなものである。
本気で訊ねたつもりだったのだが、夏丞はなんでもないことのように言ってのける。
「私は、深玉さんの腕は本物だと確信している。そのあなたが言うのだから間違いはないだろうと、上には報告するでしょうね」
「そんな簡単にいくものですか」
「いくように動くのが、私の仕事ですからね」
これは人誑しの部類だな、と思った。
鑑定には自信があるが、下す判断への責任の重さは計り知れない。この男にどれほどの権限があるのか不明だが、見たところ地位は低くない。そんな彼の主張が高官にどこまで通るかなど、分かったものではない。
口のうまさに乗せられないようにすべきだ――深玉は目をそらす。
「深玉さんは心配なさらず、鑑定だけに集中してください」
ふと、いずこの殿舎から漏れ出てきた香の匂いが鼻先をくすぐる。最近は筆録房に籠っていても、時折風に乗ってこの匂いがただよってくるのだ。甘ったるい香り。後宮の流行りとかいうやつだろう。
正直あまり好きな香りではないが、そんなことを言えば、凛凛に「これだから……」と小言を言われそうな気がする。
「それよりも――」ふと夏丞が歩みを緩め、深刻そうな表情でこちらを振り返った。「ひとつお聞きしても?」
いきなりなんだ。深玉は足を止める。
「大事な話ですか?」
夏丞は頷き、そして、「なぜ深玉さんは私に敬語を使うのでしょう」などと言い出した。
なにを言うのかと思えば。深玉は淡々と口を開く。
「わたしに馴れ馴れしく話せというんですか」
「地位という点でいえば、私と深玉さんはほぼ同じだと思いますよ」
「あり得ない。あなたの官服は緋色じゃ――」
言いかけて、「後宮女官は裙の色によって地位を表すとか。あなたの色は局長と同じ色ですね」
夏丞が深玉の裙を示したことで遮られる。
ぐ、と深玉は言葉に詰まる。たしかに、深玉の風に翻る裾衣は青碧色である。
「これは仕事柄、色々な機密文書を見ることが多いので」妙に言い訳がましくなってしまう。「形式上というか、仕方なく着ているだけで偉いわけでは」
「そうですか」夏丞はからかうように続ける。「ですが、後宮とは所詮その建前が物をいう世界。下位の者に敬語を使う方が、かえって礼を欠くのでは?」
ぐうの音も出ない。深玉は呻く。
「自分も凛凛に敬語を使ってるくせによく言うよ」
わざとらしく見下ろしてくる夏丞をちらりと見やると――明らか含みのある顔だ。
面倒だが、一応聞いておく。
「で、本音は?」
夏丞は爽やかに微笑んだ。
「深玉さんのお仕事ぶりも含めて、あなた個人に興味が湧いてしまった、といえば、おわかりですか?」
「わからないので黙ってください」
深刻な話題だと思った己が馬鹿だった。
この男といると果てしなく疲れる。