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3話 人誑し


 ✣✣✣


 日昳(にってつ)を過ぎ日が傾きはじめると、後宮はゆるやかに活気づいてくる。皇帝の(おとな)いを待つ女たちの支度が始まるのだが――しかし最近に限っていえば、その喧騒はなりを潜めていた。蓉昭儀の死。原因はそれ以外にありえなかった。


「なぜわたしまで同行するんですか」


 深玉(しんぎょく)はげんなりと夏丞(かじょう)の後ろをついて歩く。こんな昼日中に外へ出たのは実に一月(ひとつき)ぶりだ。初夏の陽射しが視界を焼く。癖のない一本結びの黒髪が、熱を持って首筋に張りついていた。


「言いましたよね、蓉昭儀の遺書はまだ残されたままですので、水祥殿(すいしょうでん)へ行く必要があると」対照的に、夏丞の足取りは軽い。「それに、彼女の他の手記が見たいともおっしゃっていませんでした?」

「言いましたけど……書きつけでも、手記でも。あなたが取ってきてくれたら、それで済む話です」

「よくわかりませんね」夏丞が小首をかしげる。「先程のように、遺書を見て鑑定するのではないのですか?」

「違います。普通はいくつもの資料を突き合わせて確認するものです。さっきはあまりにお粗末な贋作だったので即断しただけですので」

「なるほど、勉強になります」夏丞が微笑む。「次がありましたら、深玉さんの手を(わずら)わせることができるよう、努力しますね」


 しなくていいのだが。深玉は聞き流す。


「書き物には必ずその人特有の癖が出ますから。筆致、墨の濃淡、字間、書き順……そういったものをいくつもの資料と照らし合わせ、本人の真筆かどうかを読み解くのが、本来のわたしの鑑定です」

「と、いうことは蓉昭儀のような見知って記憶した筆跡であっても、より慎重に鑑定するときは資料を見比べて作業する、ということですか」

「……そうです」


 ずっと思っていたが、この男、口(よど)むことがほとんどない。口達者なだけでなく頭の回転も早いのだろう。腹が立つ。その上、文官とは思えぬほど姿勢がいい。前をゆく夏丞の伸びた背筋に、静かな足音――ようは隙がないのだ。


 彼の腰に下がる魚袋(ぎょたい)が目に入る。あれには官人の所属が彫られているはずだ。刑部のどこの人間なのかと魚袋を凝視していると、夏丞が肩越しにこちらへ視線を寄越してきた。


「私になにか質問でも?」

「いいえなにも」


 背中に目でもあるのか。怪しい。というより、すこし不気味だ。


 深玉は取り繕って、視線を下に落とす。「あえて聞くなら、ひとつだけ」

「なんでしょう」

「遺書の真贋(しんがん)とあなたは言いますけど、もし万が一にでもわたしが偽物だと判じたら、あなたはどうなさるんですか」

 予想外の質問だったのか、夏丞が愉快そうに笑う。「ふふ、どうなると思われます?」

「まず笑うところじゃないですし、今はわたしが聞いてるんですけど?」


 (まつりごと)は上の意向ひとつで、真実がねじ曲げられる世界。おぞましくも憐れな場所なのだと、深玉は身に沁みて知っている。どんな結果であれ、所詮は女官の鑑定よと一蹴されそうなものである。

 本気で訊ねたつもりだったのだが、夏丞はなんでもないことのように言ってのける。


「私は、深玉さんの腕は本物だと確信している。そのあなたが言うのだから間違いはないだろうと、上には報告するでしょうね」

「そんな簡単にいくものですか」

「いくように動くのが、私の仕事ですからね」


 これは人誑(ひとたら)しの部類だな、と思った。

 鑑定には自信があるが、下す判断への責任の重さは計り知れない。この男にどれほどの権限があるのか不明だが、見たところ地位は低くない。そんな彼の主張が高官にどこまで通るかなど、分かったものではない。

 口のうまさに乗せられないようにすべきだ――深玉は目をそらす。

「深玉さんは心配なさらず、鑑定だけに集中してください」


 ふと、いずこの殿舎から漏れ出てきた香の匂いが鼻先をくすぐる。最近は筆録房に籠っていても、時折風に乗ってこの匂いがただよってくるのだ。甘ったるい香り。後宮の流行りとかいうやつだろう。

 正直あまり好きな香りではないが、そんなことを言えば、凛凛に「これだから……」と小言を言われそうな気がする。


「それよりも――」ふと夏丞が歩みを緩め、深刻そうな表情でこちらを振り返った。「ひとつお聞きしても?」

 いきなりなんだ。深玉は足を止める。

「大事な話ですか?」

 夏丞は頷き、そして、「なぜ深玉さんは私に敬語を使うのでしょう」などと言い出した。

 なにを言うのかと思えば。深玉は淡々と口を開く。

「わたしに馴れ馴れしく話せというんですか」

「地位という点でいえば、私と深玉さんはほぼ同じだと思いますよ」

「あり得ない。あなたの官服は緋色じゃ――」

 言いかけて、「後宮女官は裙の色によって地位を表すとか。あなたの色は局長と同じ色ですね」

 夏丞が深玉の(すそぎぬ)を示したことで遮られる。

 ぐ、と深玉は言葉に詰まる。たしかに、深玉の風に翻る裾衣は青碧(あおみどり)色である。


「これは仕事柄、色々な機密文書を見ることが多いので」妙に言い訳がましくなってしまう。「形式上というか、仕方なく着ているだけで偉いわけでは」

「そうですか」夏丞はからかうように続ける。「ですが、後宮とは所詮(しょせん)その建前が物をいう世界。下位の者に敬語を使う方が、かえって礼を欠くのでは?」

 ぐうの音も出ない。深玉は(うめ)く。

「自分も凛凛に敬語を使ってるくせによく言うよ」


 わざとらしく見下ろしてくる夏丞をちらりと見やると――明らか含みのある顔だ。

 面倒だが、一応聞いておく。


「で、本音は?」

 夏丞は爽やかに微笑んだ。

「深玉さんのお仕事ぶりも含めて、あなた個人に興味が湧いてしまった、といえば、おわかりですか?」

「わからないので黙ってください」


 深刻な話題だと思った己が馬鹿だった。

 この男といると果てしなく疲れる。




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