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1-2 最悪の出会い

「都是我的錯,請原諒。(すべて私の責任です、どうか許してください)……?」 


 文面はたった一文。草書そうしょで綴られた遺書は、どこか硬質で温度がない。蓉昭儀ようしょうぎらしい伸びやか筆致はなりをひそめ、小さくまとまっている。達筆だが、意志がなく。それにこの墨の香り――深玉しんぎょくは眉を寄せる。


「なにかわかるでしょうか?」


 夏丞かじょうが囁やく。深玉が紙面から顔を上げると、男はじっとこちらの様子を伺っていた。

 なんだ、これは。それにこの筆致――紙越しに男の符節が目に入る。


「ありえない」

「どうされました?」

 深玉は怒りもあらわに遺書を夏丞へ突き返す。

「ふざけてらっしゃるなら、お帰りください。これは蓉昭儀さまの遺書ではないでしょう」


 夏丞が困惑したように紙片を見やるも、深玉の表情は変わらない。


「遺書以前の問題です。あまりに稚拙で、死者を冒涜している。どういうおつもりです」

「なにに怒ってらっしゃるのです? 意味が――」

 深玉は苛苛(いらいら)と男の胸元を押しやった。この男、いちいち距離が近いのだ。「そう。あくまでしらを切るおつもりなんですね」


 深玉は夏丞の袖を引くと、几の前に立たせた。


「いいでしょう。一からご説明しましょうか?」


 深玉は紙片を作業台の上に広げ、いつものように文鎮(ぶんちん)で四方を止めた。蝋台(あかり)を近くに引き寄せ、書面に向き合う。


「まずは紙。こんな粗野な麻紙(まし)、後宮内ではまず使用しません。これは外廷の官人がよく使うものです」


 手触りも悪く、()きが甘い。書きつけに使うような悪紙だ。


「それに、墨。香りが死んでいる。妃の方々はこんな時間の経った墨は使わない。皆さま、都度墨すりをなさって書きつけされますから。これは官人が何日も墨瓶に入れっぱなしにしているものを使ったのでしょうね」 


 これが後宮のきさきの遺書など、ありえようがないのだ。

 こちらの指摘を前に、夏丞の表情は変わらない。しかし、笑顔はそのままに、瞳の奥はたしかにこちらの出方をうかがっているようで。


「最後に、筆跡」書面を一瞥し、「あの方は、こんな文字は書かない。少なくとも、わたしの知る蓉昭儀さまはもっと字に命を込められる方だった」

「それは……あなたが文字を見て感じた所感では?」

「いいえ。わたしは一度みた筆跡はある程度()()()います」己の頭を示す。「蓉昭儀さまの手は数日前に拝見したばかり。まだ記憶に新しいので、間違いようがありません」


 その余裕ぶった仮面が剥がれるまで、もう少し。極めつけにと、夏丞の腰に下がる符節を指しさす。


「あなたの腰に下がる、特別な通行証とやら。最初に確認しましたが、そこにあなたの署名が入ってますね」深玉は目を細める。「この遺書もどきと、とても筆跡が酷似している。はらい、起筆の入り、あと筆跡のかたさも」

 夏丞からすうと笑みが消えた。

「……この遺書を作成したのは、私だと言いたいのですか?」

「そうです」とにかく腹立たしかった。「死者の言葉を騙ろうなんて、どうかしている。あなたの倫理観はどうなっているんですか」

「なるほど。そう判じられましたか」


 夏丞はひとつ、間を置く。

 そして。

「お見事です」喝采だとでもいうかのように、上機嫌に両手を合わせた。「さすがは陶氏の御息女であられる」

 陶、その名に喉が締めつけられたような気がした。

「わたしのことを、どこから」

「風の噂ですよ」


 嘘つけ。名前の件といい、絶対に調べてきたのだろう。

 これまでの取ってつけたような態度ではない。やわらかさの中に、計算高さを感じさせる物言いで。

 こちらが本性か。 

 深玉は男の変化を興味深く観察する。最初から抱いていた違和感は、正解だったというわけだ。

 夏丞は()りた様子もなく、その長躯をこちらに寄せてくる。


「お噂はかねがね聞いておりました。後宮に筆跡を見抜くことにずば抜けた才媛がいらっしゃると」なにがおかしいのか、楽しそうに肩をすくめて。「可憐な印象から、もうすこしやわらかな方かと思っていました。すっかり油断してしまいましたね」

 心底どうでもいい弁解だ。

「よく回る口ですね。謝罪はいらないので、どうぞお引き取りを」深玉はすげなく出口を指し示す。「凛凛りんりん。この人をつまみ出して」


 成り行きを黙って見守っていた凛凛が、困惑しきりで夏丞と深玉を見比べる。

「い、いいんですか、深玉さま?」

「もう少しだけでいいのです。お話させていただけませんか?」


 まず悪びれた様子がないのが気に食わない。深玉は椅子から立ち上がる。

「あなたのやり方は礼を欠いている。人にも、文字にも」

「それは失礼いたしました。今後は気をつけますので」


 絶対に直す気などないだろう。深玉はその澄ました顔に、文鎮を投げつけたい衝動を抑える。


「わたしはあなたのような、平然と嘘をつける方は嫌いです。どうぞ、お引き取りを」

 つれなく返す深玉に、夏丞は含み笑いをこぼす。

「私はあなたのような方は大好きですよ。仕事に忠実、うんざりするほど真っ直ぐで」


 もう限界だ。深玉は額を覆う。犬や猫と離している方がまだ言葉が通じる気がする。 


「……もういい。凛凛、追い返しておいて」 


 深玉は無理やり会話を切り上げて奥の房室(へや)へ下がろうと背を向ける――が、許してはくれないらしい。やおら腕を掴まれた。

 

「そうつれないことをおっしゃらないで。ここからが本題なのですから」


 夏丞は深玉の腕を引いた。男の(くら)黒曜石(こくようせき)のような瞳に、嫌悪感もあらわな己の顔が映る。


「あなたに蓉昭儀の遺書をみていただきたい」

「は? なにを」

「今度は本物ですよ。真贋を確認したいのです。これが依頼です」


 体温が下がった気がした。この男、本当になにがしたいのだ?


「主上より調査依頼がきているのも本当です」夏丞の()えた目が細められる。「失礼を承知で偽の文をお見せしたのは、あなたが心理的に負荷のかかった場でどこまで的確な鑑定が下せるのか、私の目で確認したかったのです」


 深玉は掴まれた腕を振り払うも、夏丞の身体は引き下がらない。


「あの場でよどみなく指摘してみせた……間違いなく、あなたの腕は本物です。お力を借りたいのです。お受けいただけませんか?」


 蓉昭儀が書いたと、ただ確認する作業ではないのか? まるで端から彼女の自死を疑っているような言い方を――いや、帝が死の確認と言い出した時点で、自死以外を疑っているも同然なのか。

  

「せめて担当官をあなたではない方にしてください」無理だと思いながらも、言わずにはいられない。「興味本位で他人の遺書をもて遊ぶ方と、仕事などしたくありません」

「はあ……そうですか」


 夏丞は深玉から手を離すと、しくしくと泣く素振りをみせた。いや今度はなんだ。


「困りましたね。私がこの件を一任されているのですよ。これでは私は帰れません」

「そうですか好きに困ってください」

「外廷の官人らも軽んじることでしょう。やはり後宮女官に筆跡の鑑定は荷が重すぎたのか、と」

「は?」

「男たちが誤った判断を下すやもしれませんが、仕方のないことですね」


 口だけは上手い男だ。舌打ちしなかった己を褒めてやりたい。

 煽られてやる義理はないが、ここで押し問答をしても、この男は引きそうにない。それこそ時間の無駄である。深玉は腹の底からため息を吐き出すと、おろおろとこちらを見ていた凛凛を振り返った。


「凛凛、房室(へや)の窓を全部閉じて。人払いを」

「ありがとうございます。けれど、必要ありません」


 男が顔を上げて軽やかに微笑んだ。おい泣いていたんじゃあないのか。

 夏丞が裾を払って立ち上がる。


「これから蓉昭儀の居室に向かいますから。深玉さんも是非ご同行を」


 ――くそ、厄介なものを引き入れてしまった。

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