4-5 髪を結う
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翌朝、雪燕は簪や髪紐を持参して筆録房へとやってきた。丁寧に布に包まれたそれらは、彼女が大切にしてきたものなのだと、一目でわかる。
「筆録房にお仕事以外で他の女官の方が来られるなんて、夢みたいですねえ」
上機嫌な凛凛が、茶杯を卓に並べていく。昨日の彼女ははじめ無断外出に相当怒っていたが、雪燕が来ることを伝えると、今のようにころりと態度を変えた。
深玉はちらと雪燕を見やる。「わたしの保護者みたいなこと言わないでほしいんだけど」
身内とのやりとりを見られているようで、結構、いやかなり気恥ずかしい。
「半分保護者みたいなものですよう」年下の凛凛は容赦がない。「深玉さまは、とっても不器用でいらっしゃいますから。あたしがお世話をしませんと」
そう言って、鼻歌交じりに別室へ茶菓子を取りに行く。その背を、雪燕が眩しそうに見つめていた。
「ごめん、気にしなくていいから」
深玉は一本結びの結髪を下ろすと、雪燕の前に腰掛けた。
「そんな。仲がよろしくて素敵じゃないですか」雪燕が手の中の櫛を転がす。「それより、今日は私の我儘に付き合ってくださり、ありがとうございます」
「別に構わないのだけど……雪燕は、髪を結うのが好きなの?」
「好きといいますか……私がいつも沙李にやってあげてたんです」
鏡越しに、雪燕と視線が合う。
「へえ、沙李に?」
「あの子、ちょっとものぐさなところがあったんです。ふたりで蓉昭儀さまの侍女になってからは、身だしなみはちゃんとしなきゃだめよって、朝の支度は、いつも私が整えてたんです」雪燕が懐かしそうに目を細める。「私の日課だったのに、なくなってしまったのが最近とても寂しくて」
「そう。仲が良かったのね」
雪燕が丁寧に髪を梳っていく様子を、感心しつつ眺める。
「はい。だから、沙李のお話を聞いてくださった深玉さまの髪を、結わせていただけたらなと思ったんです。それに……」
雪燕はぽつりと付け足す。
「深玉さま、ちょっとあの子に似ている気がして」
「わたしが?」
「はい。なんでも真面目で、一生懸命なところが」
雪燕にとって、沙李はかけがえのない友人だったのだろう。彼女によからぬ疑いがあったとしても、このふたりの間には関係のないことだ。
深玉はたいした手入れもしていない自身の髪をつまむ。「こんな髪でよかったら、好きにして」
「ふふ、ありがとうございます。いつも癖がなくてお綺麗な髪だなと思ってたんですよ」
「……雪燕は褒めるのが上手ね」
せっせと己の髪を手に取る雪燕を見ていると、どうにも不思議な気分になってくる。
「髪を結うなんて、子どもの時以来かも」
「ええ? 本当ですか?」
目を丸くする雪燕に、深玉は苦笑いする。
「母がね、昔はよくやってくれてたんだけど。いなくなってからは、自分じゃよくわからなくて」
どうやっても自分では母と同じようには結えなくて、悲しくなってやめたのだ。着飾ることに興味があったわけでもなし、仕事で髪を気にする必要もなく、気づけば今の髪型に落ち着いてしまっていた。
「なら、今日は特別素敵に仕上げましょう」気遣いにあふれた声だった。「お母様がやってくださった髪型とは、違うものにしないとですね」
深玉は首を傾ける。「どうして?」
「だって」鏡の中の雪燕が、やわらかに笑む。「その結髪は、深玉さまのお母様との思い出なんでしょう? 私が結うのは、もったいないですよ」
思い出――そうか、これは思い出なのか。
雪燕が言葉にしてくれたおかげで、もう結えないのだと切なく思った記憶が、あたたかなものへと変わっていく。
「……ありがとう」うまく言い表せないが、胸に迫るものがあった。
「ふふ、突然どうされたんですか」
雪燕がまた笑みをこぼす。つられて、こちらの頬までゆるんでしまう。
昨日は憂色に満ちていた彼女の表情も、今は大分明るくなっている。無理にでも声をかけて、よかったのかもしれない。
「ああ、そういえば」髪紐を手に取りながら、雪燕が思い出したように声を上げる。「夏丞さまはどうされたんですか? もしかして、もう後宮からお出になられてしまいました?」
忘れようとしていたのに。
浮上していた気分が、一気に落ちるのを感じる。夏丞とは昨日、筆録房を出て以来、顔を合わせていない。
「あれは、まだいるけど」吐息をこらえる。「たぶん、待ってたら来るんじゃないかな」
適当に言っておく。奴にはすでに退去命令が出ているのだ、深玉が非番とはいえ、悠長に不在続きにするはずがないと思う。
深玉はもやもやとした気分を追いやろうと、椅子に腰掛け直す。
「会っても、楽しいことはなにもないと思うけど」
会えば、雪燕が情報を握っているのか否か、あの男が探りにくることは目に見えている。
たいして、こちらの心中などつゆ知らず、雪燕は言いづらそうに口をまごつかせていた。
「あの、聞きそびれていたのですが」
「ん?」
「深玉さまと夏丞さまは、その、どういったご関係で?」
藪から棒に、なんの話だろうか。「……女官と官人?」
「そ、そういう意味ではなく」
「ならどんな――」言いづらそうに頬を染める雪燕に、遅ばせながらようやく意図を理解する。「冗談やめて。あなたが心配しているようなことは、なにもないから」
言って、妙な落ち着かなさを覚える。外からは変な風に見えているということだろうか。
そんな深玉の心配をよそに、雪燕の顔はわずかに高揚していた。
「そうなのですか? 仲がよろしいので、てっきり」
「仲が、よろしい?」馬鹿みたいに繰り返してしまう。これが仲良しに見えるなら、先日の猫とだって仲良しだ。「ただの仕事相手よ。いやそれ以下かも」
「そうでしたか……あの、特に深い意味はなくて」意味ありげな濁し方で。「単純に聞いてみたかっただけなのですけれど」
なるほど――純粋な雪燕が毒されてしまわないよう、なにかあれば、あの男をぶん殴ってやろうと心に誓う。
「深玉さま、夏丞さまが戻ってこられましたよう」
盆に菓子を載せた凛凛が、渦中の男を伴って戻ってきた。
いや間が悪いにも程がある。