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【完結】後宮の筆跡鑑定官 秘された遺書とかりそめの関係  作者: 高里まつり
第四章 破られた紙はもとには戻らない
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4-4 手を差し伸べる


 外へ出ると、空は雲ひとつない夏空であった。

 日差しがまぶしい。深玉しんぎょくは目を細める。裾をからげた洗濯女らの声が、あたり一帯に賑々しく響いている。


 こんな時間に外へ出るのは、久しぶりだ。

 筆録房ひつろくぼうに引きこもってばかりではいけないと、凛凛りんりんに何度も(とが)められていたことを思い出す。


「凛凛、ごめん……」


 たしかに、外界に触れるべきだと思った。

 それに、彼女になにも言わず出てきてしまったことだけが心残りだった。


 筆録房へ戻ろうかとも一瞬考えたが、やめる。夏丞かじょうがいるなら彼から色々と聞くことだろう。それに、今外へ出ているのは深玉の意地でもあった。


 足早に殿舎を後にすると、途端に喧騒が遠くなる。今は日が高く、大半の女たちは朝の支度に追われているのだ。

 自室の近くまで戻ってきたところで、建物の陰にうずくまる人影を見つけた。深玉はその帯に既視感を覚え、おもわず足を止めた。


「――雪燕せきえん?」


 声をかけるも、振り返る素振りがない。間違いなく彼女だと思うのだが。


「どうかしたの?」深玉は迷いながら前へ回り込み、ぎょっとした。「な、泣いてるの……?」

 雪燕は恥ずように涙で濡れた顔を覆う。「申し訳ありません……お見苦しいところを……」


 見れば、雪燕は以前より顔色も悪く、頬はいっそう痩けていた。泣き腫らした目を見るに、しばらくここにいたのだろう。

 助けを求めようとあたりを見渡すも、他に女官の姿は見られない。


『人付き合いには強引さも必要ですよ』


 あの男の言葉が脳裏によぎる。腹立たしいが、背中を押された気がする。本当にすこしだけだが。


 深玉はそっと雪燕の手を取る。

「よかったら、わたしの房室に来て。ちょうどそこなの」

「でも」

「いいから」


 無理にでも立たせ、室内に招き入れる。人を招いたことがないせいで物がろくにない自室だが、椅子が二脚あったことだけは救いだった。椅子に引っかけてあった上衣と持ち帰ってきた薄布を手早く奥に押し込む。


「とりあえず、座って」

 深玉も向かいに腰掛け、彼女が泣き止むのを待つ。

「あ、ありがとうございます」雪燕が幾度もしゃくりあげる。「深玉さま、あの、お仕事は?」

「わたしのことは気にしないで。それよりあなたよ」慎重に言葉を選ぶ。「なにか、あった? 廉明殿の侍女にひどいことをされた?」

「ええ、なんとかうまくやっています」目が泳いでいる。どうみても本心とは思えなかった。「ただ、今日泣いていたのは別の理由で……」

「別?」


 辛抱強く続きを待つと、雪燕がぽつりと話し出す。

「水祥殿にいた、沙李を覚えていらっしゃいますか?」

「沙李?」たしか、精神面の不安定さから離宮へ異動になったのだったか。「覚えているけど、彼女がどうかしたの?」

 雪燕がうつむく。「あの子がいなくなってからしばらく経ったので、私、ちゃんと元気にしているかなと気になってしまって……だから、外で働く女官の友人に、聞いてみたんです。沙李は元気なのって」再び彼女の目にじわじわと涙が浮かぶ。「そうしたら、沙李なんて子は異動してきてないって言われてしまって」

「異動、していない?」そんなこと、あるわけがない。「異動先が違う部署になってるんじゃ?」

「ありえません」雪燕が唇を噛む。「友人から聞いたあとすぐに、掖庭令へ確認したのです。そうしたら、間違いなく離宮へ異動させたと……」


 それはおかしい。深玉は眉をひそめる。

 雪燕と沙李の異動は掖庭令、ひいては夏丞が取り計らったのだから。


 そもそも、だ。蓉昭儀の詩文が指し示すのは雪燕ひとりであったとしても、沙李も侍女であったはずで。その彼女を、あの慎重派の夏丞が、明確な理由もなく、そうやすやすと後宮の外へ出すわけが――脳裏に、嫌な考えがよぎる。

 守る必要がないからでは?


「……ねえ、ひとつ聞きたいことがあるんだけど」合っていないことを祈る。「沙李って左利きじゃなかった?」

 突飛な質問に、雪燕は目を丸くする。

「え? そうですけど、それがなにか」

 深玉は嘆息する。「ううん、なんでもないの。ちょっと気になっただけ」


 予想が当たってしまった。

 蓉昭儀の文章を墨塗りにした人物も、左利きだ。深玉自身が判じたのだから間違いはない。夏丞は沙李の利き手を知ったから、後宮の外へと出したのだ。


 沙李と水祥殿ではじめて会ったときのことを思い出す。ずいぶんと怯え、蓉昭儀の書きつけを渡すことを渋っていた。雪燕の話でも、夜な夜な泣いていると言っていた。蓉昭儀を亡くした悲しみではなく、自らの過ちを知っているが故の動揺だとしたら?

 黒幕はあの人なのだから、彼女自身は指示を受けて実行しただけにすぎないとは思うが。


「深玉さま?」雪燕が身を乗り出す。「もしかして、沙李について、なにか知っていらっしゃることがあるのですか?」

 深玉は不安そうな雪燕を見つめる。

「……いいえ、なにも――」知らない、と言いかけて。


 雪燕から真実を隠すことになるのではと気づく。果たして本当にそれでいいのか。

 けれど、ここで伏せるのは彼女のために必要なことだ。今の彼女には、余計な情報より安心の方が必要なのだからと己に言い聞かせる。


「……なにも知らない。ごめん」深玉は目を伏せた。言葉が重い。

「そう、ですか」雪燕は物言いたげにこちらを見て。「そうですよね、ごめんなさい」

 消沈したようにうつむく。嘘を重ねる責任が、心に降り積もっていく。深玉は心痛をこらえる。

「ええと、誰かなにか知らないか、わたしも上の方に聞いてみるから」


 さて、このあとはどうすべきか――深玉は窓の外を一瞥する。まだ始業して間もない。このまま雪燕を廉明殿へ返すべきだろうが、今の彼女では仕事もままならないだろう。


「えっと……」筆録房へ誘いかけて、思いとどまる。あそこには夏丞がいる。この弱りきった雪燕につけこんで、好機とばかりに情報を聴きにきやしないだろうか。「ちょっと、散歩しない?」

 無理やりすぎただろうか。雪燕があからさまに困惑している。

「さ、散歩じゃなくてもいいの。あなたのやりたいことがあれば、なんでも付き合うから」

 今の状況に巻き込んでしまっている雪燕への、深玉ができる精一杯の誠意だった。


 雪燕はしばし面食らっていたが、「でしたら」とためらいがちに口を開く。「明日非番なのですが、筆録房へお邪魔してもよろしいでしょうか? 深玉さまのお仕事がよろしければ、ですけど……」

 明日は――たしか、こちらも非番であったはず。

「わたしは問題ないけど。なにがしたいの?」

「息抜きに、やりたいことがあるのです」

「やりたいこと?」

「ええ」雪燕がはにかむ。

「髪を、結わせてもらえませんか?」



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