4-2 猫
身支度をして扉の外を覗くも、夏丞の姿はなかった。外に出ていろとしか言わなかったため、そう遠くに行ったとは思えない。探す義理はないのだが、追い出した手前、気まずさよりも申し訳なさが勝った。
深玉が院子へ出ると、閑散としていた。凛凛の姿もないところを見るに、どうせまだ始業前なのだろう。なぜこんな早朝からあの男が後宮にいるのか。以前も似たようなことがあったので、追及したとてのらりくらりと躱されそうである。
見渡すと、朝靄にけぶる低木でしゃがみこむ男の背が見えた。声をかけようとして、彼の足元に小さな毛玉の塊があることに気づく。
「猫……?」
見れば、茶と白のまだら模様の猫が、夏丞の差し出す干し肉に嬉々として飛びついていた。
「ええ。可愛らしいでしょう?」気づかれていた。夏丞はこちらに背を向けたままだ。「深玉さんもあげますか?」
正直にいえば、動物は苦手だ。けれど、ここで会話がなくなる方が居た堪れない。おそるおそる受け取り、距離を開けて屈む。
「……好きなの? 猫」
「好きですよ。懐いたかと思えば離れて、気まぐれで見てて飽きません」夏丞の撫でる手の下で、猫が機嫌よく喉を鳴らしていた。「深玉さんは違いそうですね?」
深玉の手の中の餌に気づいたのか、猫が今度はこちらへ寄ってきた。目いっぱい腕を伸ばし、できる限り猫から距離を取る。
「わたしは、その気まぐれなところが怖い……ひえ」ざらりとした舌で指先を舐められ、干し肉から手を離してしまう。「動物って、なに考えてるのかわからないもの」
「ふふ、面白いじゃないですか。なんでもこちらの思い通りに動くものより、想像もつかないものの方が」
そういうものだろうか。
夏丞を横目で見やると、予想に反し、猫ではなくこちらを見ていた。咄嗟に視線をそらす。
「な、なに」
「……ふふ、深玉さんは猫のようですね」
いや脈絡がなさすぎる。「意味が、分からないんだけど」
「おや、分かりませんか?」
「分からないったら。返答次第では怒るから」
夏丞はからりと笑う。「困ったときは、今のように顔にすぐ出ますよね。猫が距離を取って警戒しているときの様子に似ています」
「……なにそれ」
「あと、人に近寄りたい甘ったれなのに、糞真面目すぎて近寄れないところもよく似ていますよ」
「ねえここぞとばかりに悪口を混ぜてこないで」
深玉が腰を浮かすと、こちらに驚いた猫が茂みの中へいっさんに逃げてしまった。
夏丞がやれやれと首を振る。「ああ、せっかく懐いていたのに。深玉さんのせいでいなくなってしまったではないですか」
「……悪かったわね」
けれどまったくの的外れではないのが、悔しい。
遠くで開門を告げる鐘鼓が鳴った。まもなくここも往来が増えてくる。室内に戻ろうと、深玉は立ち上がる。
「けど、わたしからしてみれば、あなたの方が猫みたいよ」ここまで言われたのだ、多少の不満はぶつけたって文句は言われまい。なんだと言いたげな夏丞を見下ろす。「誰もそばに寄せつけようとしないところなんて、特に」
毒気を含ませたつもりだった。けれど夏丞は愉快そうに破顔するだけで。
「ははは、そうですか。ということは、同じ猫の似た者同士なんですね、私たちは」
「なんでそうなるの」
夏丞も裾を払い、立ち上がる。ついてくる気らしい。
「では、これは似た者同士の直感なんですが」顔を覗き込んでくる彼から、本能的に一歩距離を取る。「今、なにか悩み事がありますね?」
ようやくまともに彼の顔を見た気がする。思っていたよりも真面目な顔をしていて――頭の中まで見透かしてきそうな目が、やはり怖い。
「あっても、あなたに言うと思う?」
「おや、その返答は予想外でした。私はただ、気になったからお聞きしているんですよ」
悩みの種はすべてお前に起因しているのだと、ぶちまけられたら、どんなに楽か。深玉は一呼吸置き、肩をすくめてみせる。
「尾行されて、蓉昭儀さまの件も足踏みで、敦皇子のことも気になるし。こんな現状で悩みがないように見えるなら、よっぽどの能天気でしょうね」
幼稚な誤魔化しは、夏丞にはお見通しで。
「そうきましたか。……まあ、自業自得ですかね」
夏丞は自嘲気味に口端に笑みを浮かべて身を引いた。
じっとりとした空気を断ち切るように、深玉は筆録房を出てくる前に懐へ忍ばせていた実封を、夏丞へ差し出す。
「これ、昨日刑部からあなた宛に届いてた」
「刑部からですか」夏丞は受け取ると、その薄っぺらい封書をぞんざいに握る。「おおかた内容の想像はつきます。退去命令ですかね」
では、蓉昭儀の件を刑部へ正確に報告していないことを認めるのか。
「あなた、どういう報告を上に上げて――」言いかけた深玉の口を夏丞が制す。
「続きは中で」
先をゆく夏丞に、深玉は急く気持ちを押し込めてついて行った。




