4-1 微睡みの記憶
ふわりと身体が浮く感覚に、昔の記憶が揺り起こされる。夢でも、夢じゃなくてもいい。覚醒前の泥濘んだ意識が、感情を蝕んでいく。
『深玉、そんなところで寝たら風邪を引くわ』
そうだ、幼い自分が客庁で寝入ってしまうと、決まって母が臥室へと抱いて運んでくれたのだった。歩みに合わせて揺れる振動が心地いい。微睡みの中、瞼の裏でちかちかと人影が瞬いていて。
『眠いなら、寝台で寝ましょうね』
身体をくるむ温かさと、母の笑顔が大好きだったのだ。なのに、どうして――幼い深玉が泣いている。母に見せようと書いた似顔絵が床に落ちる。
『うそつき! なんで、なにも教えてくれなかったの!』
最期に見た母の笑顔が――縄の先にぶら下がった、蒼白な顔だったなんて。無力感に押しつぶされそうだ。深玉が一番そばにいたのではなかったのか。その痛みを分けてほしかった。幼いからと、突き放さないでほしかった。
追憶は、いつだって痛みをもって深玉を揺さぶる。雨が全身を濡らして。『ずっといっしょよ、深玉』『こんなのへっちゃらよ。あなたは本当に優しい子ね』――うそだった。どうして? 他人なんて信じなければ、これ以上傷つかずに済むの? 人から遠ざかろうとするたび、あたたかい記憶が塗りつぶされていく。いやだ、幸せなままがいいのに。
「おかあ、さん……」
目を開けると、視界がぼやけていた。
ぼうっとしたまま瞬きをすると、すこしずつ焦点が合ってきた。見慣れた、筆録房の天井が朝日に照らされていた。
「おはようございます、深玉さん」
耳馴染みのいい低音が鼓膜を揺らす――この声は、夏丞か。眦を温い手が撫でていく。
「おは――」言いかけ、やっと頭が正常に動き出した。「…………は?」
慌てて横たえていた身体を起こすと、掛けた覚えのない薄布が床へ滑り落ちていった。いや、なんで自分は今、長榻で寝てるんだ。
というより。
「なんで、いるの」
こちらを見下ろす長身の男を、深玉は呆然と見上げる。
「それはこちらの台詞です」夏丞の顔は呆れ返っている。「そもそも、なぜ筆録房で寝こけていたんです?」
「それ、は……」そもそもここで横になった記憶はない。昨夜は凛凛と夜食を食べ、彼女を舎房に返した後ひとりで筆録房に残り、几に向かったまま――向かった、まま?
嫌な予感がする。
「……わたし、あそこで寝てなかった?」
深玉が普段作業をしている卓を指さすと、夏丞がため息を落とす。
「寝ていましたよ。突っ伏して、微動だにせず」
「それを、この長榻に運んだのは……」
「私ですが」
やらかした。深玉は目を覆う。職場で寝落ちるなど、はじめてだ。寝ぼけてこの男に気を許しかけた己を張り倒したくなる。
「最初に見つけたときは、毒でも盛られて倒れているのではと肝を冷やしましたよ」こちらの反応を見てか、夏丞の表情がからかい混じりに変わる。「ただ寝ているだけでよかったです」
「べ、別に放っておいてくれてよかったのに」
「おかしいですね。寝にくい、被子に運んでくれと駄々をこねていたのはあなたですよ」
いっそ殴って気を失わせてくれ。
深玉の羞恥心はいよいよ限界であった。
「寝ぼけてただけだから。全部忘れてお願い」
「おや、なにをです?」夏丞はここぞとばかりに生き生きとした顔をするではないか。「涎を垂らして寝ていたことですか? 寝言? それとも、髪に残った寝癖?」
「なにもかも、全部!!」耐えきれず、薄布を丸めて投げつける。「運んでくれてありがとう! 身支度を整えるからちょっと外に出ていて!」
笑い声を上げる夏丞が扉の外に出たのを確認し、深玉はいそいそと立ち上がる。とんだ目覚めだ。己の顔を確認しようと、棚から鏡を探す。
「ああ、あった――」
鏡に映った顔を見て、言葉を失った。
涎も寝癖もないではないか。代わりに――鏡の中の深玉は、泣いていた。
深玉はいよいよ崩れるようにしゃがみこむ。「はあ……最悪」
頬についた涙の跡は乾ききらず、目元はわずかに濡れていた。あの男が気づかないわけがない。それをあえて茶化して、濁していたのだ。
起きた勢いのまま、夏丞といつものように話してしまったが、一夜経っても彼への疑念は晴れていない。
彼とは蓉昭儀の死の真相を明かすという同じ目的を共有しているつもりだった。けれど、あの男とこちらが見ているものは違っていたのだ。
そのことにすくなからず衝撃を受けている自分がいて――夏丞を信頼しようとしていたことに気づく。もし彼の『見えている』部分すべてが『嘘』だったら? そう思うと、問い質す勇気が湧かなかった。
結局、今も自分は母の死で立ち止まったままなのかもしれない。
臆病者め、と心の中の弱い己が嘲笑っていた。