3-9 疑惑と脅し
「あの……深玉、さま?」
どれくらいこうしていたのかわからない。控えめにかけられた声に、深玉はゆるゆると顔を上げる。
当然、杜局長はもういない。かわりに、凛凛が湯気の立つ食器を載せた盆を持って入口に立っていた。
「大丈夫、ですか? さっき、杜局長の姿が見えましたけど……」
夜食を用意してくるといって、しばし凛凛が外出していたことを思い出す。ようやく戻ってきたようだ。
「……うん」深玉は息を整えると、ゆっくりと椅子に腰掛ける。「大丈夫だから」
杜が託してきた実封が目に留まる。そういえば几に置いたままだった。凛凛に見られぬよう、さりげなく書類の束に紛れ込ませた。
凛凛はこちらの様子には気づくことなく、盆を卓に置くと心配そうな面持ちで顔を覗きこんできた。
「たぶん疲れが出てるんですよう。お顔色が悪いです」
「……そうかもね」
切り替えなければ。こんな様子では凛凛を不安をさせてしまう。
深玉は頭を振ると、「ところで」と気丈に切り出す。
「破邪香について、今日でなにか話は聞けた?」
破邪香の効果があると知られた噂の発端は誰なのか――それを調べるべく、深玉と夏丞は、凛凛の人脈を頼ることにした。直接ふたりが聞いて回ると悪目立ちするため、おしゃべりな凛凛から宮女仲間に世間話として聞いてもらえないかとお願いしていた。
どうやらこの案は功を奏したようで、深玉の問いに凛凛の顔はぱっと明るくなる。
「聞けましたよう! 今日一日、お友達から色々聞いてきました!」
さすが明るく気さくな凛凛である。深玉とはわけが違う。
「それで、なにがわかったの?」
得意げな凛凛が顔を近づけてくる。「なんでも、破邪香は後宮で作ってなくて、外から取り寄せてるんですって」
思わぬ方向から話が始まった。深玉は首をひねる。「取り寄せ? どこから」
「ええっとなんでしたっけ」凛凛は思い出そうと唸る。「ショフ? とかいう、工房?」
ショフ。
微妙に音は違うが、理解はできた。
「ショフ、じゃなくて少府ね。皇族のための香や調度品なんかをあつらえるところ」
「そう、それです! そこで中宮さまがお願いして、作らせてるって」
深玉は顎を撫でる。「なるほど。中宮さまがわざわざ破邪香を作らせてるってことは……最初に使われたのも、中宮さまってこと?」
凛凛はおおきく首肯する。
「……なるほどね。そういうこと」
ようやく点と点がつながってきた。後宮の長たる皇后が手ずから香を使用したとあらば、あらゆる『お墨つき』を得たも同然だ。
水祥殿には『呪い』が存在し、わざわざ外から取り寄せている『香』を使用しなければ回復できないかもしれない――そうみなが信じれば、後宮中がこぞって傾倒するのも納得がいく。
凛凛はやや声の調子を落とす。「中宮さまは、水祥殿を訪われた直後に体調を崩されたらしくて。原因もわからないし邪気が憑いたんだって侍女の方々が騒いでたのを、当時友達が覗き見てたそうです」
「それで、破邪香を?」
「みたいですよ。外の道士に頼んで少府で魔除けの香を作らせてみたら、あら不思議と元気になられて。それでお守り代わりに他の妃の方にも配られたから……」
「流行した、と」
こくん、と凛凛が頷いた。
状況はわかった。
そもそも水祥殿に呪いなどないと仮定すれば、皇后は香が効いたのではなく、たまたま効いたようにみえただけなのだと思う。ここから香への信心と呪いの噂を逆手に取って、犯人は香を使わなかった魏美人と敦皇子に毒を盛ったわけだ。
では、なぜ。
「ここまでして水祥殿に呪いを演出したいの……?」
ようやく犯人の意図が見えてきた。魏美人の殺害にわざわざ香を絡めているのも、すべて水祥殿の呪いを中心に据えるためだ。
そういえば、香、演出――いつだったか、夏丞ともこんな会話をしなかったか。
『一理ありますね。ただの狂信めいた香だと思っていましたが、これ自体が呪いを演出する装置というわけですか』
すでに事件の核心をついた発言だ。あの時点で、男の思考は深玉の一歩先を行っていたのか――思いかけ、否定する。
違う、そうじゃない。
もやもやとしていた仮説が確信に変わる。
彼は最初から、誰が犯人か知っていたのではないか?
この瞬間、ようやく腑に落ちた。
ずっと違和感はあったのだ。思い返せば、あの男は出会ったときから蓉昭儀を誰が殺したのか気にしていなかった。
深玉が蓉昭儀の遺書を偽物と判じても、夏丞は眉一つ動かすことはなかった。誰が偽の遺書を書いたのか、誰が魏美人を殺したのか。そうした問いには一切立ち入ろうとしなかった。かわりに、犯人を追うことより、なにかを探そうと模索している。掖庭令との繋がりも、そのためか。
おそらく、きっかけを――犯人を炙り出すための、きっかけの一手を探しているのだ。決定打となるはずだった蓉昭儀の墨塗りにされた文章が損壊されたのは、彼にとっても痛手だったのだろう。
「し、深玉さま?」
深玉が急に黙りこくったからだろう、凛凛が不安そうにしていた。
「……ごめん。ちょっと考え事してた」
夏丞がなにを考えているのか、わからなかった。
もともと理解不能な行動をとる男であったが、今回の違和感でいよいよ混乱してきた。
「あの! すこし冷めちゃいましたけど、お夜食食べられますか!?」凛凛が気を遣って盆を押し出してくる。「お、落ち込むときはお腹が減ってるときなんだって、媽媽よく言ってました! 食べれば、きっと気分もすっきりします!」
こんなわずらわしいことばかり考えている自分が嫌になる。すべて放り出せたらどんなに楽だろう。
「……うん」心底こちらの様子を気にしてくれている凛凛に申し訳なさが募る。「いただくよ。ありがとう」
食事をするならば、広げたままの書類は一度しまった方がいい。
「凛凛、悪いんだけどここに乗ってる書類も隣の台に移動させてもらってもいい?」
「もちろんですとも!」
せっせと書類の山を動かす凛凛の横で、深玉は作業台の抽斗をあける。「あとは……ん?」
硯や予備の筆が整頓されて並んでいる横に、見慣れぬ封書があった。検閲書類とも違う。こんなところに個人的に封書を入れた覚えもない。真黒な封皮で包まれているそれは、明らかに異質で。
宛名は、陶深玉。差出人の名は書かれていない。
もう、嫌になる。深玉は顔を覆う。これ以上、追いこまないで欲しい。どう見ても、いい内容が書かれていなさそうだった。
「……凛凛?」深玉は動揺を抑え、なるべく明るい声を出す。「もしよかったら、お茶を入れてきてもらえる? 温かいものだと嬉しいのだけど」
「はーい!」
凛凛が奥へと駆けていくのを確認し、卓の陰ですばやく封書を開封する。中の紙片は一枚。文章は、たったの二行だった。
《欲保性命,速速罢手。(命惜しくば、事件から手を引け)》
《下一个,就是你。(次はお前だ)》
脅迫文だ。
紙を持つ手が震えた。
文面は、筆跡鑑定から本人が特定されることを恐れたのか、わざわざ一字ずつ別の文章から切り貼りされていた。大きさも字間も歪なそれは、あまりに人間味が薄く、不気味であった。
夏丞に報告した方がいいだろうか。深玉は力なく椅子に座りこむ。
けれど、自分の中の猜疑心が囁きかけてくる――なにも教えてこない相手にわざわざ頼るのか、と。彼がこうなることすらも予測していたとしたら。
だとすれば、言ったとて、なにが変わるというのだ。
今は、ただ向き合う余力がない。深玉は封書を掴むと、抽斗の奥にねじこんだ。
「準備できましたよ!」と凛凛が呼びかけに来るまで、深玉は寄る辺ない気持ちを抱え、ただその抽斗を見つめていた。