3-8 退去命令
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昨日の逃走劇から一夜明け、気づけば六局の殿舎で火が灯っているのは、筆録房だけとなっていた。
深玉は欠伸を噛み殺しながら、ひとり作業台へ向かう。夏丞から託された、蓉昭儀の手紙の鑑定がまだ残っているのだ。
本当は昨晩のうちに済ませたかったのだが、疲労と混乱で頭が働かず、諦めて今日に回してしまった。堪えきれず、また欠伸が漏れる――結局疲労は取り切れず、頭とが回っていないのは今日も同じだった。
肩を回して、書面に向かう。
鑑定する手紙は三通。どれも魏美人へ宛てたものであることは間違いなさそうである。
「草書で、蓉昭儀らしい伸びやかな筆跡……」
紙は玉版。香も焚かれておらず、本当に私的なやりとりであったのだろうと思う。かたむく癖やはらいの角度、筆の結び方からも、たしかに蓉昭儀の真筆と断言できた。
ただ――内容が疑問だった。
意味がうまく通じていないのだ。天気の話かとおもえば、昨日食べた食事の話をしており、かとおもえば数年前の春節の話をしている。それは三通とも共通しており、はじめ手紙というより書き殴りに近い印象を受けた。
しかし、荒唐無稽な文章の羅列でないことはすぐに理解した。
「暗号……?」
火に紙を透かすと、時折文字の色が違っていることに気がついた。磨りで濃淡を変えた二種類の墨を用意し、文字に応じて書き分けているのだ。この文面でも、拾えるだけで、花、夜、女――他にもいくつか濃さの違う文字があった。
敦皇子が話していた、名前のわからない人然り、蓉昭儀と魏美人だけがわかる、なにか暗号めいたものがあったのだと思う。
だから夏丞は、内容はともかくと言っていたのだ。この文面は、蓉昭儀と魏美人にしか解読できないと踏んだのだろう。
その夏丞は、今日一日姿を見せていない。ひとり、取り残されたような焦燥感だけが募る。
視線をずらせば、作業台に積まれた書類の山が目に入った。検閲待ちの書状である。
不在が続いたことで、とにかく業務が滞っていた。
「ちょっとは、減らさないと……」
手を動かした方が気も紛れる。諦念と義務感に背を押され、渋々書類に手を伸ばす。
検閲といっても、中まで改める必要はない。司記で改めはあらかた済んでいるため、深玉が行うのは、表書きの筆跡や官印の印影から文書の正当性を担保するだけ。つまり、『どこの部署の誰それが、たしかに書いたものだ』と保証することにある。外廷から届く書状も、後宮から出す書簡も、基本的には各部署の書吏がつかさどる。上がってくる文章には自ずと筆跡に偏りが出るため、深玉はその文字の揺れだけに目を配ればいいというわけだ。
処理済みのものを脇へと避けていくと、未検閲で積まれた山から、いくつも似た紙束が飛び出ていることに気づく。
――ああ、内侍省からの実封か。
実封とは、すなわち機密文書のことだ。通常とは異なり、紙で包み、綴じ口に官印を押しているのが特徴である。読まれれば即座に分かる仕組みとなっており、宛先以外での開封は禁じられていた。
見れば、行き先は尚書省の刑部。この時分での実封なら、蓉昭儀や魏美人についての内容に違いない。ここで何日も滞留させていい書類でないことは、一目瞭然だった。
気持ちの上でも重い手を動かし、優先的にそれらを確認していく。
実封の署名は、掖庭令の霍漣衡。
この宦官の字を見ると、反射のように夏丞が脳裏をよぎるのがなんとも癪だった。
深玉は署名に指を滑らせる。いつものごとく硬質で、墨が濃く、慎重派なのか一字ごとに筆が重い。霍の筆跡は書面で頻繁に目にしている。もはや一目で見抜けるほどに見慣れていた。
本人とまみえたのが、あの一回限りであるのがなんとも皮肉なものである。
「署名の筆跡、問題なし。官印……問題なし」
すべて右に傾いて印が押されているのが、几帳面な深玉からすれば目につくくらいか。
不備もないため、検閲済の朱印を押す。明日の朝には、後宮の外へと出して、次のしかるべき部署へと回せるだろう。
深玉が次の書類に手を伸ばしていると、唐突に扉が押し開けられた。
「深玉、まだ仕事をしているのか」
予期せぬ来訪者に、深玉は弾かれたように椅子から立ち上がる。
「杜、局長」
「とうの昔に宮門は閉まっているというのに、まだ残っていたのか」
杜は、しかめ面で中へと入ってくる。次いで、几に積まれた未処理の山を見て、さらに表情を険しくさせた。
「なぜここまで溜めている。普段のお前なら問題なくこなせる量だろうに」
「……申し訳ございません」
杜は隠しもせず、吐息する。「お前の仕事は、他部署が問題なく仕事ができるための検閲業務だろう。ここで書面を止めてどうする」
「はい、そのとおりです」
杜が几を指で叩く。「それとも、他の業務が立て込んでいるのか?」
他の業務――その言葉には棘があった。杜がなにについて言いたいかなど、確認せずともわかっている。
「業務中の行動に無駄がないか、よくよく振り返ることだな」
杜が再度、几を指ではじく。これが苛立ちを覚えたときの上司の癖であると、深玉は知っている。
「肝に銘じます」
深玉が身をすくませていると、見かねたのか杜の語調がやわらいでいく。
「とにもかくにも……早く休め。倒れでもしたら、みなが困る」
「……はい」
「お前の負担はわかっている。引き続き人が増やせないか、他部署にもあたってはみよう」
杜の言うように人員を増やして欲しいところだが、専門性が高すぎてなかなか人員が登用されないのが現状だった。改善は見込めないだろうが、その言葉だけで気持ちは救われる。
「お気遣い感謝いたします」
杜は「そうだ」とつぶやくと、懐から一通の実封を取り出し作業台に置いた。
「今日はこれを筆録房に置きに来たのだった。あの男に渡しておきなさい」
夏丞がここに出入りしていることをいよいよ指摘され、身が固くなる。
「あの、これは」
「刑部よりあの男に退去の命が出ている。近々奴は、ここを引き上げるそうだ」
時が、止まったような気がした。
「引き上げる、ですか……?」
声は震えていなかっただろうか。戸惑いから、二の句が継げない。
見ると、その実封は薄く、紙切れ一枚程度しか入っていなさそうだった。
「当たり前だろう」杜に、さも当然と言わんばかりに返される。「蓉昭儀さまの件は、お前が鑑定結果をあげてくれたことで片付いている。生前の身辺調査とやらも、廉明殿でおおかた片がついているのだろう?」
ついで、杜はその鋭い眼差しをひたと深玉に向ける。「ほかになにを後宮でやることがある。お前もはやく通常業務に戻らねばなるまいに。わずらわしい官人から解放されて嬉しくはないのか?」
夏丞の後宮側へ説明している表向きの用はすべて片付いている。雪燕を誘導する際にも言っていたではないか。後宮から退去の命が下るのは、時間の問題だと。
しかし――後宮側が追い出しにかかるのならいざ知らず、刑部の方から命が下るのは、いささか違和感があった。蓉昭儀の遺した文章について、まだ根本的には解決できていないのだ。その上、敦皇子のことはどうするつもりなのか。
夏丞は一体、上層の刑部にどのように説明をしているのだろう。
深玉は知らず、手を握り込めていた。この疑問をすべて口に出したいのに。
誰にも、ぶつけることができない。
杜が深玉の肩を叩く。「鑑定ご苦労だったな。内気なお前には、あの場に来るだけでも酷だったろうに」
「いえ……あの、それは……」
杜にも虚偽の報告を上げているのだ。蓉昭儀の遺書は真筆であった、と。
深玉の周りは、今やなにもかもが嘘で固められている。すべての真実を知るのは、夏丞しかいない。
その事実に気づくと、途端息苦しさを覚える。
自分は今なにをしているのだろう。本当にこれは、正しい道なのだろうか。
「そろそろ自室に下がりなさい。明日もあるのだからな」
杜が再度いたわるように深玉の肩を撫で、退出していく。その伸びた背筋を見つめながら、深玉はひとりうなだれるしかなかった。




