3-7 真昼の逃走劇
夏丞に引っ張られ、いくつもの角を曲がる。深玉の耳には誰の気配も足音も拾わないが、隣の男はいつにない緊張を帯びている。彼がそうだと言うのであれば、信じるしかなかった。
外苑の園林を曲がったとき、前触れなく、夏丞に腰を引かれた。景色が反転する。なにが起こったのか理解するより早く、木の幹に背を押しつけられた。ぐ、と息が詰まる。
庭樹の木立へと引きずりこまれたのだと気づいたときには、夏丞によって身動きを封じられていた。声を上げそうになるも、すばやく男の手で口を覆われた。
「静かに」
耳元で、夏丞のひそめた声がする。
しばらくすると、木立の向こうでひとりの若い女官が歩いてきた。なにかを探すような素振りであたりを見回している。
本当に、自分たちをつけていたのか。
心臓が早鐘を打つ。
女官から視線は外さないまま、夏丞が小声で問うてくる。「お知り合いですか?」
無言で首を横に振る。知り合いではない。
しかし、その濃藍色の帯には見覚えがある。
夏丞の服色が濃緑のおかげでうまく木立に紛れ込めているのか、見つかる様子はない。女官はしばし留まっていたが、見失ったと諦めたのか、小路の先へと姿を消していく。
その姿が完全に見えなくなると、夏丞はようやく拘束の手を緩めた。深玉は詰めていた息を吐き出す。
「びっ、くりした」
打った背中がじんじんと痛んでいた。思いの外こわばっていた己の肩を抱くと、手が震えていることに気がつく。
しばらく小路の先へ顔を向けていた夏丞が、ようやくこちらを向いた。
「申し訳ありません。手荒な真似をしてしまって。お怪我は?」
「平気、だけど」震えを押し殺し、深玉は手を握り込む。「あなた、いつから尾行に気づいてたの」
「小路に入る前ですかね。ずっと一定の距離を保って足音があったので」
気づかなかった。
深玉は、先ほどの女官を思い浮かべる。「でもあの人、普通の尚宮局の人に見えたけど……」
侍女同様、女官は所属により帯が変わる。尚宮局の人間は例に漏れず、みな深藍色の帯を身につけている。
「尚宮局内に、わたしたちのことを監視する人間がいるってこと?」
夏丞の返答はないが、これまでから彼の無言は肯定の意だと知っている。
正直、混乱していた。
真実を追っていたはずなのに、気づけば追われる側になっている。犯人はそれほど立場のある人物なのかと、身がすくむ。
――かつての父も、こうだったのだろうか。
気を落ち着けようと深玉がうつむいていると、夏丞が髪に触れてきた。
「ああ、髪がほどけてしまっていますよ」
夏丞はさきほどの緊迫した顔つきから一転、おだやかさを取り戻している。追手の巻き方といい、ずいぶん慣れた様子であった。
「うそ、代えの結紐もないのに」
肩口に髪が滑り落ちる。先ほどのやりとりで、結紐が切れたのだろう。
「私のせいですね、申し訳ありません。お顔も触ってしまったので、化粧も崩れていなければいいのですが」
ぐ、と覗き込んでくる夏丞に、深玉は一歩後ろに下がる。
「別に、普段からたいしたことしてないから、気にしないで」
すこしだけ、気まずい。
凛凛以外の人前で髪を下ろすなど、ありえないことで。だらしなくおろし髪となった黒髪を、落ち着かない気分で撫でつける。
「おや、そうでしたか。深玉さんはそのままでお綺麗ですものね」
「別にお世辞なら結構よ」
夏丞がようやく笑いをこぼす。
「着飾った妃の方々の前で、同じ台詞を言わないことですね。反感を買いますから」
一体なんのことやら。深玉は聞き流すと、ふと夏丞の右手が目に入った。
「……ねえ、怪我してるけど」
「はい?」
夏丞がはたと自身の手を見やる。彼自身も気づいていなかったようだが、その手には甲から指にかけて血の滲む擦り傷があった。
「さっき擦ったんじゃない? 痛そうよ」
「別にこの程度、放っておいても治りますよ」
手持ちの手巾で傷をぬぐいだしたが、その粗雑さにみていられず、たまらず「貸して」と夏丞から手巾を奪う。
「うわ、これは痛くて筆も持てなさそう……」
押さえると布に血が滲みていく。夏丞はされるがまま、じっとこちらの手元を見ていた。
「早く治すためにも、ちゃんと消毒した方がいいと思う」止血にでもなればと、手の甲に布を巻きつけ縛る。「利き手も右なんだから、痛むと支障が――」
「は?」
「え、痛かった?」珍しく呆けた声をあげた夏丞に、深玉は驚いて顔を上げる。
「いえ。それよりなぜ深玉さんが私の利き手を知っているんです」
夏丞がこちらを凝視していた。「私は普段、両の手を使っているはずですが」
「ん? でも、右の方が使い慣れてない?」なにがそんなに驚くことなのか。「普段の様子を見てて右が基本の手なのかなと思ったんだけど……もしかして違った?」
虚を突かれたように、夏丞が動きを止めた。
「なに」変なことを言っただろうか。
「……いえ、あまり指摘されてこなかったものですから」
一拍間があき、「すこし驚きました」とこぼされる。
「破邪香の件もそうですが、深玉さんはよく周りを見ているんですね」夏丞は相好をゆるゆると崩す。「口下手のせいで、その観察眼が泣いていますよ」
「うるさい放っておいて」
小路はまた人気がなくなっていた。道行きが、不安だった。