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1-1 突然の訃報


「――亡くなった?」

 聞き流すにはあまりに不穏な内容で、深玉(しんぎょく)は思わず顔を上げた。手を止めた拍子に、筆先から墨が落ちて濃墨の染みが紙面に広がる。ああやってしまった。

「そうなんです。しかも、服毒の自死ですって。外はこの話でもちきりですよう」

 遣いから戻ってきたばかりの凛凛りんりんは、いまだ取りに行った書簡を抱えたままであった。焦って戻ってきたのか、可愛らしい小さな顔に前髪が張り付いていた。


 開け放った窓扉(そうひ)が軋み、湿り気を帯びた初夏の風が、書きかけの書面をはためかせる。紙を張りなおしながら、深玉は(つくえ)の脇から綴本とじほんを引っ張り出す。

「その亡くなった蓉昭儀さまって、水祥殿(すいしょうでん)にお住まいだった?」

 凛凛がおやという顔をした。「そうですけど……もしかしてご存じでした?」

「たぶん、知ってる。主上の寵妃(ちょうひ)のおひとりでしょう? すこし前に文を検閲したばかりだったはずだから」深玉は書簡の受理記録の頁を()る。「ああ、やっぱりあった」


 やはり、三日前に水祥殿からこの筆録房(ひつろくぼう)へ提出された書簡が一通あった。たしか、帝への文であったと記憶している。


「自死されるような方の字には、見えなかったけどな」


 彼女と直接まみえたことはないが、(もじ)からは力強い印象を受けた。伸びやかで、しなやかな――けれど、裏で苦悩を抱えていたのだとしたら、どんなに辛かったろうと思う。

 人の心は、目に見えないから厄介だ。


 と、横から凛凛が手元を覗き込んできた。

「相変わらず字で人を覚えておられるんですか? 深玉さまらしいですけど」声にやや呆れが混じっているのを感じる。

「……人の顔より、文字の方が頭に入るの」

 気まずさを覚えつつ、綴本を閉じた。


 深玉は後宮に身を置く女官ながら、職務上、直接(きさき)と顔を合わせる機会がない。あまた女の集う後宮において、ただしく人の顔と名前を覚えることはいっとう苦手だった。


「だから言ってるじゃないですかあ」凛凛がいつものごとく、同じ台詞を繰り返す。「人の名前を覚えられないのは、絶対ここに籠りきりのせいですって。すこしは筆録房から出ましょうよ」

「まあ……うん」

 ここで面倒だ、などと言ったらこの小間使いは頬を膨らせるのだろう。深玉はそろりと椅子から立ち上がる。

「だって、他の女官のみなさまったら、深玉さまのことどうせ引きこもりのお仕事だろうって全然理解してくださらないんですもの。悔しいですよう」


 仕事だけが原因ではないと分かっている。だからこそ、外と交流を持ちなさいとせっつかれるのは御免だ。ここは逃げるが勝ちである。


「ありがとう」やんわり笑んで、扉に手をかける。「でもわたしは気にしてないから大丈夫よ」

「えええ……」

 凛凛が小声で「嘘ですちょっとは気にしてるの知ってますからね」などとこぼしているのが聞こえた。余計なお世話である。


 書庫にでも逃げ込もうと外に出た瞬間――なにか硬いものに鼻をぶつけ、たたらを踏んだ。

「おっと、お怪我はございませんか?」

 誰だ?

 頭上から降ってきたやわらかな声に、深玉はあわてて謝罪をしかけ――不覚にも言葉を失った。

 人の美醜など頓着しない深玉にあっても、滅多お目にかかれぬ美丈夫だと思ったのだ。白皙(はくせき)の顔に、整った鼻梁、涼しげな目許(めもと)が印象的で。


「どうされました?」

 不思議そうに問われる声で、我に返る。

「いや、あの」見知らぬ男から一歩距離を取る。「ここでなにを? 筆録房になにか御用でしょうか」

 今日来訪者があるとは聞いていない。警戒心から自然と声音がかたくなった。


「ご依頼のため、ご挨拶の時分を見はからっていたのですが、どうにも賑やかそうでしたので」たいして男は微笑みを浮かべており、「話がお済みになるまで、ここでお待ちしておりました」

 体のいい理由をあげているが、それはつまり。

「立ち聞きしてたってことですか」

「結果的にそうなってしまいましたね。申し訳ございません」


 人当たりのよさそうな男ではあるが――いや、後宮に男はいないので、宦官(かんがん)とする方が正確か。

 相手の服装に目をすべらす。よくよく見れば、ずいぶん上等な絹地の(ふく)を身にまとっているではないか。こんな辺鄙(へんぴ)な部署に自ら(おもむ)くような立場の人間にはみえなかった。


「急ぎの案件ですか? そうでないのなら、内侍省であっても尚宮の司記を通じて書面を出して――」言いかけて、男の腰に目がいく。「あなた、符節(ふせつ)を持っているんですか?」

「もちろんです。外廷なら伺うなら、きちんと許可をいただいておりませんと」


 男は腰に下がる革帯を持ち上げ、そこから手のひらほどの大きさのを外した。いわゆる通行許可証というやつだが、通常尚宮から発行されるものとは形も異なる上に、尚書省の朱印が入っていた。外廷から出される特例の通行手形といったところだろう。

 いや、そんなことはどうでもいい――深玉は眉を寄せる。


「そもそも符節をお持ちということは、あなたは内監ではなく――」

「官人ですよ」一歩下がると、男は芝居がかった仕草で優雅に揖礼(ゆうれい)をささぐ。「申し遅れましたが、私は尚書省刑部からまいりました、(よう)夏丞(かじょう)と申します」


 ちょっと待て。男人禁制の後宮に男がいることも大事(おおごと)だが、それより聞きたいことは他にもある。


「刑部がわざわざ許可を得てまで、なぜ筆録房に依頼を」

「主上のご意向です」こちらが帝の名前に怯んだ隙を見て、夏丞はそのまま扉を押し開け、中へと入ってきた。「今朝方の蓉昭儀さまの件はご存知ですか?」


 この男、顔に似合わず押しが強い。


「……噂程度には聞いていますが」

「では、居室に遺書が遺されていたことは?」


 それは初耳だ。深玉が首を横に振ると、夏丞はその長駆を曲げ、深玉に顔を寄せてくる。


「主上は寵妃たる蓉昭儀さまを突然亡くされ、大層お嘆きです。死の詳細をご自身でご確認なさりたいとおっしゃっておられ、刑部に調査の特命を出されました」

「つまり、遺書の筆跡確認を筆録房に依頼したいと?」

「ええ、ぜひ深玉さんにお願いできればと」 


 遺書が自筆かどうかの確認が必要だと?

 たしかに、深玉が身を置く筆録房は『後宮の目』とも呼ばれる、筆跡を専門に扱う検閲部門ではある。後宮内外を出入りする公文書の筆跡や印影をみて、文書に偽装などないかを確認する役目を担っている、のだが。


 深玉は男から距離をとる。

「刑部にも、書簡の検閲や調査をしている部門はあるかと思いますが」

「ええ。ですが今の昏国(こうこく)朝廷には、深玉さんほどの精度で筆跡鑑定ができる者がいないと噂で聞きまして」

 どこの噂だ。

 深玉は眉をひそめる。「残念ですね。外廷にはあんなに優秀な官人が集まっているのに」

「ええ本当に」


 嫌味もどこ吹く風の男に、どうしたものかと思いかけ――はたと、気づく。


「というか、深玉さんって。わたしの名前をどこから」


 夏丞はさも当然と言わんばかりに首を傾け、口角を優美に持ち上げた。


「訪問する前に相手のお名前をお調べするのは、せめてもの礼儀かと。陶深玉さん?」


 あざとくもみえる仕草だが、この男がやると嫌味なほどしっくりくる。けれど、作り物めいた美貌の奥に、こちらを絡め取ろうとする意思を感じるのは――己がひねくれているせいだろうか。


 どうにもいけ好かない。たったひとりでこの部署をまわしている深玉に、無理な依頼を受ける余裕があるはずもないのに。

 けれど、帝の名前を出されて断れる者など、この国にいようはずもない。


「お願いできますよね?」夏丞が深玉を覗き込む。「蓉昭儀さまの手かどうか、筆跡をご確認をお願いできませんでしょうか」


 言って、夏丞は一枚の折り畳まれた紙片を深玉に差し出してくる。 


「……わかりました。主上からのご命令とあらば」


 指先がみっともなく震えた。

 遺書――人の今際の言葉を綴ったもの。人の内面に触れる行為は、いつだって足がすくむ。

 深玉は折り畳まれたそれを受け取ると、ゆっくり開く。

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