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3-2 幼君、敦皇子

 

 廉明殿れんていでん園林(にわ)には、哀悼の礼のため訪れているのだろう妃の姿が幾人かみられた。佳木には沙羅(しゃら)梔子(くちなし)といった夏の白花が美しく咲きこぼれており、今は亡き(あるじ)が、いかに住まいへ気を配っていたかうかがい知れる。


 深玉しんぎょくはそぼ降る雨に打たれる花々を遠巻きに眺める。

 白い花に、雨音と。揺れる傘に、すすり泣く人々。こんな短期間に二度も葬儀をみることになるなんて思いもしなかった。


「深玉さん、濡れますよ」

「……ああうん」


 歩みが遅くなっているのに気づき、強引に意識を廉明殿から引きはがす。

 傘を傾けている夏丞かじょうの横に並べば、横からため息が聞こえたような気がしたが、その意図は知り得ない。


 連れ立って廉明殿の脇に伸びる細い小径(こみち)へと入り、目的の敦皇子とんこうしの小殿舎へ向かう。さすがに園林をひとつ隔てるぶん、葬儀の喧騒は遠くなっていく。ふと見れば、傘を畳んだ夏丞は迷うことなく入口へ続く台階(かいだん)をのぼろうとしとおり。


「ちょっと!」深玉は慌てて男の袖を引く。「いくらなんでも、(おとな)いの先触れなしに寝所に入るのは――」


 門扉には取次の宦官の姿すら見当たらないのだ。勝手に入殿できるわけがないのだが、夏丞にためらう様子はない。


「ご心配には及びません。掖庭令えきていれいがうまく取り計らってくれているでしょうから」

 やんわりと手を外されて、たずねる間もなく中へと入っていってしまう。

「……ああもう!」 

 なしくずしに深玉もあとに続いた。


 案内(あない)された臥室(しんしつ)の外には数名の女官が伺候(しこう)していた。明け方からの魏美人の訃報により憔悴(しょうすい)しきっており、心労がうかがい知れる。

 深玉と夏丞は扉口で膝をつき、声がかかるまで身を低くして(こうべ)を垂れる。


「お話できる状態だといいのですが」

 ぽつりと夏丞のこぼした言葉に、深玉の胸は痛む。


 取次の女官から許可が下りると、ふたりは袖で顔を枕辺まで膝ですり寄った。けれども、続いて他の女官が入室する気配はない。

 深玉はようやく察する。人払いの手筈まで整っているのだと。


「こほっ……顔をあげて。気は遣わなくていいから」


 乾いた咳とともに、かすれた、まろい声がかかる。顔を上げると、敦皇子が身体を起こしているところであった。


 ――これは、酷い。

 深玉は言葉を失う。

 皇子は()せさらばえていた。薄い胸板が苦しげに上下し、こちらを向く瞳は(うつ)ろで生気がない。

 敦皇子は齢十と聞く。幼君の痛ましい姿は、見るに堪えなかった。


「――殿下」

 動揺を隠しきれない深玉に対し、隣の夏丞は落ち着き払っていた。「ご体調のすぐれぬ中、このようにお話のお時間をいただき、心より感謝申し上げます」

「うん……話すのは辛いから、すこしだけでいい?」

 弱々しい敦皇子に、夏丞は頷く。

「お母君のこと、お気持ちでも一番お辛い時期であることは承知しております。ですので、ご無理をなさらず、答えたくなければ、どうぞわからないとおっしゃってください」

「わかった」


 苦しそうに身じろぎする敦皇子に、深玉は迷いながらも背に手を差し入れた。彼の柔和で大きな目が、わずかに笑む。

「……ありがとう」

 するりと夏丞が皇子の手を取る。

「手短に済ませます。お聞きしたいことは、二つのみです」

「うん」

「まず一つ目、お母君と蓉昭儀さまは仲がよろしかったとお聞きしておりますが、ふたりでどのようなお話をされていましたか?」


 敦皇子が狼狽して口ごもる。まさか蓉昭儀とのことを聞かれるとは思っていなかったのだろう。


「ええと……他の妃と話しているときと、そんなに変わらなかった気がする。天気とか、あの菓子が美味しかったとか。あとは、あんまり外に出たがらない蓉昭儀のために、後宮では今こんなことが流行りだとか、話していたかな」

 夏丞はしみじみと頷く。「お母君はお優しい方だったのですね。おふたりだけでお話に花を咲かせることもあったでしょう」

「うん、あったあった」敦皇子の目が緩む。「よく話に出てた人もいたんだけど、名前はわからないままだったなあ……」

 夏丞の目が細められる。「名前がわからない方、ですか?」

「うん。ちゃんと名前を聞いたことがなくて。僕が覚えてないだけかもしれないけど」

 夏丞はなにを言うこともなく「そうでしたか」と述べるに留めている。引っかかることはあるが、この場で追及するつもりはないのだろう。


「では、二つ目の質問に移りますね」

 夏丞はゆったりと問いを続ける。「水祥殿のことを、お母君はどのように話されていましたか?」

 敦皇子は小さく「水祥殿……」と口の中で繰り返し、「呪いのことを聞いてるの?」とつぶやく。

「その話だけでなく、ほかにもお母君が話しておられたことがあれば、なんでも教えてください」


 現実問題、魏美人と敦皇子は水祥殿に呪われたと噂されているのだ。本人たちがこの話を知らないわけがない。夏丞は押しつけて尋ねても皇子が答えてくれないと踏んだのだろう、確実に聞き出すため、あくまで一歩引いた形で問うている。


 しばらく黙っていたが、ようやく皇子はぽつりと話し始める。 

「呪いの話は、僕も母上も知ってたよ。けど、水祥殿が呪われてるってみんなが話してたときも、母上はそんなわけないのにと、よく怒ってた」

「お母君は、呪いは信じておられなかった?」

「うん」敦皇子はうつむく。「呪いを信じてたら、あそこに行かないよ」

「ええ、そうでしょうね。ですが……殿下は、後悔しておられるのですか?」


 ――水祥殿に関わったことを。

 言外の意を察したのだろう、敦皇子は身じろぎする。


「みんな、僕たちや母上の具合が悪いのは、呪いだとか言ってるけど……母上は呪いなんかじゃないっておっしゃってた。蓉昭儀も、水祥殿は呪われてなんていないって、言ってたよ。なにも関係ないって。だから……」

 敦皇子の目から涙がこぼれ落ちる。

「僕も呪いじゃないって、思ってる。母上は、嘘なんかつかないよって……」


 とても、切実な響きをはらんでいた。心のどこかがひりついた。彼の悲しさが痛いほど理解できてしまい――深玉は、たまらずその背を撫でた。


「殿下。もしよろしければ、あとひとつだけ」

 夏丞がなだめようと、皇子の手をさする。この場での、彼の限界が近いことがわかっているのだろう。


「ぐすっ、僕……」

「水祥殿で、なにか変わったことや不思議なものを見たことなどあれば――」

「ねえ、これ以上は殿下のお心の負担になると思う」深玉はいよいよしゃくりあげ始めた皇子の肩を抱く。「それに、聞くのは二つだけという話だったでしょう」


 母親を失い、死に晒されている幼子に問うには、あまりに酷ではないか。


「深玉さん」

 物言いたげな夏丞の視線に怯みかけるも、皇子の肩を抱く手は離さない。


「お願い、夏丞」


 皇子の嗚咽だけが室内に響く。

 夏丞が吐息を落とした。「……ええ、わかりました。無理をさせてしまい、申し訳ございません」


 扉の外が騒がしくなってきた。敦皇子の様子に耳をそばだてていた女官らが押し入ってきたことで、この場でのやりとりは、不可能となった。

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