3-1 誰のための気遣い
後宮は序列により住まう区画が厳密に定められている。真中に伸びる白砂の大路を境にして、中央、東、西で位を分かつ――煕貴皇后の住まう中央区、帝の寵を得た妃の東区、下位の妃や宮人の西区である。
なかでも東区の北一郭は、中位の妃の居所となっており、魏美人の住まう廉明殿は、その最北に位置していた。
「ねえ、本当に歩き回って大丈夫なの?」深玉は不安を胸に、隣の男を見上げる。「蓉昭儀の遺書の件は、もう局長に報告が終わってるし、あなたの後宮での仕事はもう終わったものだって思われてるわよ」
夏丞はいつもながら落ち着き払っている。
「ご心配なく。続けて動けるよう、上にお願いしてきてありますから。それより深玉さん、もう少しこちらへ。肩が濡れていますよ」
夏丞の手には柄の長い傘が握られていた。ひとつの傘を深玉と夏丞、ふたりで差し掛けるという不本意な状況だが、急な外出であったため致し方ない。深玉は渋々、一歩中へ寄る。
「それより、魏美人についてすこし情報をお伝えしておきましょう」
夏丞がおもむろに切り出す。「彼女について、なにかご存知のことは?」
「……特に、なにも」これで後宮女官だなんて、聞いて呆れる。
筆録房を通じて魏美人の手跡を見たこともないため、深玉は彼女についてなにも知らなかった。
深玉の表情を読んだのか、夏丞がやんわりと微笑む。「いいんですよ。深玉さんは奥ゆかしい方でいらっしゃいますからね」
いいように言ったつもりかもしれないが、全くもって嬉しくない。
夏丞は傘を持ち直す。
「彼女が水祥殿に出入りし始めたのは、半年ほど前。珍しく公の場に出てきた蓉昭儀と話す機会があったそうで、そこから魏美人の方が一方的に懐いていたと聞きました。その後も、御子の敦皇子とともに、たびたび彼女のもとに足を運んでいたそうで」
交流を深めていくにつれ、魏美人と敦皇子は目眩や吐気を訴えることが多くなり、体調を崩しがちになった。水祥殿の呪いかと周囲の女官らは騒いだが、本人らは呪いを信じている様子はなかったという。蓉昭儀の死後は気力も削がれ、日に日に衰弱していき――そして昨晩、魏美人は廉明殿で侍女らに見守られ息を引き取った。
「もともと持病もなく、侍医ですら理由がわからず匙を投げていたそうです。結局死因は、原因不明の衰弱死とのことで」
今朝未明に亡くなった妃にしては、内容が的確で、話も淀みがなさすぎる。深玉は端的に問う。
「それ、霍掖庭令からの話?」
夏丞は笑みを深くするのみで。「信頼できる筋からの情報であることは、たしかですね。魏美人のところから、蓉昭儀とやりとりをしていたと思われる手紙が何通か見つかったそうで。あなたに見ていただきたいのです」
そういうこと――深玉は胡乱な目を向ける。夏丞は掖庭令から情報を得て、やるべきことを絞っているのだ。深玉は筆跡鑑定のために同行させているだけだ――そう突きつけられたような気がして、深玉は拳を握る。
以前なら、それでも構わなかったかもしれない。だが、蓉昭儀に深く触れてきた今では、他人事には思えなかった。
すこしの反発心から、くどいと思いながらも再度問うてしまう。
「ねえ……魏美人の衰弱死も気になるけど、わたしはやっぱり雪燕の方が先だと思う」
「また、それですか」
ため息をつかれなかっただけ、いい方かも知れない。夏丞のすげない態度は変わらない。
もとは夏丞が後宮へ戻った頃合いで、蓉昭儀の詩文に名指しされていた雪燕に話を聞きに行く手筈になっていた。しかし魏美人の突然の訃報により、夏丞がまずは敦皇子のもとへ行くと言ってきたのだ。
「あの墨塗りにされた文章について、彼女が知っていることがあるかもしれないのに」
「私も雪燕さんが優先であることは変わりませんが……深玉さんが納得できるよう、はっきりと理由をお伝えしましょうか」
夏丞の口調は淡々としている。
「魏美人が亡くなった以上、同様に伏せっておられる敦皇子も、いつ亡くなるともわかりません。いずれ赴かねばならないなら、今しかない」
深玉はぎょっとして、おもわず周囲を見渡した。
「ちょっと、言葉を慎んで」
いくら人気がないとはいえ、おおっぴらに話していい内容ではない。
深玉が苦言を呈するも、夏丞は訳が分からないと首を振るばかり。
「誰もいませんし、いいじゃないですか」
本当にああ言えばこう言う男だ。
「あなたには人への思いやりってものがないの?」
「ありますよ」けろりとした態度がまた憎たらしい。「すくなくとも、今あなたが濡れないようにと気は遣ってるじゃないですか」
そういう話ではないし、だからどうしろというのだ。
どこまでが夏丞の本心なのか。彼の心の内をみせない気遣いが、時折とても居心地悪く感じてしまう。
と、ようやく廉明殿がみえてきた。尚宮の舎房は西区の南西にあるため、西の最北までは対角線上に横切るしかなく、気づけばかなりの時間を要していた。




