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2-5 次の犠牲者


 ✣✣✣


 夏丞(かじょう)と別れてから、すでに七日。この日は荒天だった。

 風は吹き荒れ、院子(なかにわ)の佳木を枝葉を散らさんとばかりに揺らす。雨粒が筆録房(ひつろうぼう)の窓をしたたに打つ様を、深玉しんぎょくは鬱々と眺めていた。


「このお天気ですし、夏丞さま、今日も戻られないかもしれませんねえ」

 凛凛(りんりん)が隣に来て残念そうにつぶやく。その手には掸子(はたき)が握られていた。

 深玉はため息をこらえ、口を開く。「いつの間に()()に懐いていたの?」

「違いますう。目の保養ですよ、目の保養」凛凛が同じく窓枠に寄りかかりながら、軽やかに笑い飛ばす。「後宮であんな男前、めったにお目にかかれませんから」


 まるで珍獣のような扱いに忍び笑いが漏れる。

 彼女の言うように、夏丞はあれきり後宮に姿を見せていない。音沙汰がないのである。そも一介の女官が外廷と連絡を取りあう手段などあろうはずもないので、別れたら最後、相手の動向が見えないのは当然で。内心舌打ちをする。


「本当に早く戻ってきてほしい……」連絡手段でも取り決めておくべきだった。

 すると凛凛の目がわかりやすく輝く。「ええ! 深玉さまの方が親密になってらっしゃるじゃないですか!」

 いや冗談でも笑えないのだが。

「断じて、違う」深玉は据わりきった目で窓枠を殴る。「あの男が残していった仕事が厄介すぎるのよ」


 遺書の真贋(しんがん)を偽った報告書など特に、だ。


 深玉は夏丞の指示のもと、蓉昭儀(ようしょうぎ)の居室で見つかった遺書は()()()()()()()()()()()()()()だと、()局長に報告した。夏丞の考えはこうである――後宮内に蓉昭儀殺しの犯人が潜んでいる可能性がある以上、偽物と判じれば、かえって犯人の行動を刺激しかねない、と。


 もっともではあるのだが、真実を曲げる行為そのものが深玉にとっては苦痛だった。たとえ一時的な方便でも、あれが彼女の手によるものだと告げた以上、その嘘の責任は自分にある――そう思えてしまい、胃が締めつけられる。


「もしすべて明るみになったとき、わたしは杜局長になんて言えば……」


 愚痴をこぼす深玉の横で、窓の桟をはたいていた凛凛が「あ」と声をあげた。

「あそこにいるのは(かく)掖庭令(えきていれい)じゃないですか?」凛凛が庭樹の陰を指差す。「こんな雨の中どうしたんでしょう」

「掖庭令? どこ?」

「あそこですよう」


 凛凛の肩口から目をすがめて窓を覗き込むと、雨粒に濡れた窓越しにそれらしき後ろ姿を確認した。その傍らには、もう一つ人影があり。


「夏丞さまもご一緒みたいですよ。やっと戻ってこられたんですねえ」


 噂をすれば影が差す、とはよく言ったものだ。

 しばらく姿を見ていなかった男の姿があった。緋の袍が低木の繁みで揺れている。

 後宮を取りまとめる宦官の長が、一度ならず二度までも夏丞と接触している――その事実が、深玉の心をざわつかせた。蓉昭儀の詩文をわざわざ掖庭令本人が筆録房へ運んできたのも、違和感である。

 こんな天候の中で、一体なにをしているのか。


「はあ……」

 深玉は無理やりに窓辺から離れた。

 余計なことを考えすぎている、と思った。書の中では文字のことのみ考えていればよかったのに、人と関わるとわずらわしいことばかりが増えていく。

 落ち着こうと卓に置かれた茶杯に口をつけるも、すっかり冷めきっていた。


「……ねえ凛凛」ふと、深玉は思い出す。「水祥殿の呪いって知ってる?」

「知ってますよう。有名ですもん」


 当たり前だと言わんばかりに返される。夏丞の反応もふくめ、知らなかった己がおかしいのだとあらためて知らされる。


「いつから噂され出したか知ってる?」

「いつから、ですか?」凛凛は、はてと首をかしげる。「ええと……蓉昭儀さまが水祥殿に入られた頃なので……たぶん、一年くらい前からじゃあないでしょか」

「うそ、もっと昔からある怪談話じゃないの?」


 その情報は初耳だ。

 むかしの妃と皇子の自死から呪い話が端を発しているのであれば、十年程度は年季のある怪談話だとばかり思っていたのだが。


「違いますよう。蓉昭儀さまが水祥殿に入られてから、噂されるようになったんです」凛凛はあたりを見渡すと、声をひそめた。「だから蓉昭儀さまのことを、水祥殿の怨霊を呼び起こしてしまった呪妃(じゅひ)なんだ、とか呼ぶ人もいたんですよ。ひどいですよねえ」


 呪いをつれてきた妃――だから、呪妃か。

 深玉はここでようやく合点がいった。

 彼女が水祥殿に入ってから噂が立ち始めた――偶然というには、出来過ぎている。


「だから蓉昭儀さまはあまり外に出てこられなかったんだ……」


 建物だけでなく、本人までも呪妃などと噂されては、外を出歩くことも憚られるに決まっている。水祥殿への人足が遠のくのも頷けた。


「そうだと思いますよ」凛凛はやるせないといった表情で目を伏せる。「やっぱり、蓉昭儀さまは呪いを苦にして、亡くなられたんですかね……」


 そうではないのだ、と言ってやりたいが、現状、今の深玉には、主張できるだけの力も、確たる証拠もない。蓉昭儀の名誉を回復するには、夏丞の手を借りるしかないのだ。


 深玉の心中など知る由もなく、凛凛は純粋な疑問を口に出す。

「蓉昭儀さまは、どうしてそんな場所に住み続けていたんですかねえ。はやく出ちゃえばよかったのに」

「妃の方たちの殿舎は、中宮(ちゅうぐう)さまの差配で決まるのよ。そう簡単には移動できないわよ」


 中宮――すなわち、煕貴(きき)皇后が殿舎を指名し妃へと与えているのだ。住まいを移るとなると、人も時間もかかる。おいそれと変えられるものではなかった。


「うええ、偉い方たちは色々大変ですねえ……」

 しみじみとつぶやく凛凛の声に、水音混じりの足音が重なり――おもむろに扉が押し開けられた。


「ああずぶ濡れです。降るときは徹底的に降るものですね」


 ようやく夏丞が戻ってきた。靴や袖から雫を払い落としている。


「お邪魔してもよろしいでしょうか」

 すでに入室しながら聞くことじゃないだろう、と思う。

 慌てた凛凛が「なにか拭くものを探してきます」と奥へと駆けていき、あっという間に夏丞とふたりきりにされてしまう。

 窓から垣間見た光景に、勝手に一抹の気まずさを感じていると。


「覗き見とは、いい趣味ですね」


 心中を読んだかのような台詞に、心臓が跳ね上がる。

 髪から水を滴らせた男は、うんざりしたように前髪をかき上げていた。彼の視線が窓へ向いていることに気づく。まさか。


「あなた、気づいて――」言って、咄嗟に口を押さえた。これでは自白したようなものだ。

「私のことが気になりましたか?」

 窓越しに気づいている素振りは見られなかったはずなのに。

「気にならない」

 意地で突っぱねる。そもそも、以前立ち聞きしていた男にとやかく言われる筋合いはない。

「おや残念、ちょっとは期待したんですがね」

 先程の光景など深玉の杞憂かと思うほど、夏丞の態度は以前と変わらない。深玉は小さく呻く。

「なに、刑部での仕事は終わったの」

「そういじけないで。私としてはできる限りはやく戻りたかったんですから」

「さっきからなに。いじけてないし変に解釈しないで」


 夏丞は濡れそぼった上衣の襟をゆるめると、室内を見渡した。「それより深玉さん、今日は外に出られましたか?」

「え?」急な話題変更に面食らう。「いや、出てないけど……」外はこの雨だ、出歩く必要がないなら籠るに決まっている。


「では、まだ聞いていませんか」

 夏丞はそう言うと、卓に置きっぱなしになっていた茶杯に口をつけたではないか。

「ちょ、ちょっとそれ飲みかけ……!」深玉のものだというのは憚られたので、伏せておく。

 夏丞は気にした様子もなく、茶杯を飲み干した。「申し訳ありません、喉が渇いていたもので」

「いやちょっとは気にしてよ……」


 夏丞はにこりと微笑むと「いいお茶ですね」と言い放った。

 気の抜けた深玉を横に、「それで話の続きですが」と夏丞は口を開く。


「魏美人が、亡くなられたそうですよ」


 息が止まった。魏美人――どこかで聞いた名である。


「水祥殿に出入りしていた唯一の妃だそうで、蓉昭儀と懇意にしていたと聞いています」


 水祥殿。

 その場所で、ようやく思い至る。蓉昭儀が亡くなった際、弔問で泣き崩れていた妃だ。


「たしかに水祥殿でも体調を悪くしていたけど……そんな」

「くわえて、彼女には御子がおられる。彼もまた水祥殿に出入りしていたそうで」

 夏丞のかたい表情に、深玉は「まさか」とつぶやく。  

「ええ、彼もまた数日前から寝所に伏せってらっしゃる」夏丞が声を落とす。「これで周囲がなんと言って騒いでいるか、わかりますか?」


 蓉昭儀の遺書を確認した際に聞いた、宦官の噂――『水祥殿で何人もの人が倒れている』と。


「水祥殿の、呪い……?」


 けれど、呪いなど――そんな、はずは。

 ぞわりと背筋を冷たいものが這う。

 蓉昭儀は、何者かに殺されたのだから。

 深玉の表情を読んだのか、夏丞が酷薄な笑みを浮かべる。


「ええ。呪いなどありえない――これは殺しですよ」

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