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2-3 墨塗りの書


✣✣✣


 尚宮局(しょうぐうきょく)には十の書庫がある。そこには、後宮の文献をはじめ、古今東西の書物や、はたまた艶本(えんぽん)に至るまで隙間なく保管されており――なかでも特に古い第十書庫は、渾渾沌沌(こんこんとんとん)とした有り様だった。


「本当に、ここで合っています?」夏丞(かじょう)が棚の埃に指を滑らせ、懐疑に満ちた表情を浮かべる。「ほとんど物置ではないですか」


 そんな書庫の一角。奥まった書架の陰で、深玉(しんぎょく)と夏丞は肩を寄せ合っていた。


「合ってるはず」深玉はひたすらに頁を()っていた。「というより、今それを確認してる」


 詩文は暗号であるという夏丞の言葉を実証すべく、ここに来たわけだが。

 深玉はしかめ面のまま、乾いた唇を舐める。

「あなたの見立てでは、一句目の『高閣に雲杪(うんびょう)を臨み』は、雲の果てに届くほど高い場所って意味なんでしょう」

「ええ。それで、深玉さんの考えついた高い場所とやらが……ここですか?」

「そう、後宮で一番書物が集まるのが尚宮局。なかでも書架が特に大きくて高いのが、この十番書庫」

 人の出入りもなく、絢爛な後宮の陰で塵にまみれた場所だ。

 棚に指を滑らせば、灰色の塊が指先にたまる。「ほら、棚にこんもり乗った埃。まるで雲海みたいだとは思わない?」

「ええ、ずいぶん汚い雲ですね」

「誰も聞いてないからってあけすけに言わないで」


 二句目は『禮經(れいけい)に秘章を記す』。禮經は、言わずもがな経書の一つたる礼記(らいき)のことだ。そして、そこに秘章――つまり、明かされていない文書があるという意味であり。


「一句目と二句目を繋げると、どこか高い場所に保管した礼記(らいき)に、蓉昭儀(ようしょうぎ)さまが文書を隠したと読み取れるわけで……」

 深玉は落ちてきた横髪を片手間に耳に引っ掛ける。

「隠すにしても、蓉昭儀自身が書庫に直接足を運ぶなんてことはありえないから、あるとすれば侍女に礼記を外に持ち出させて、記録を隠したはずで……ちょっと、埃を書面に落とさないでよ」

 夏丞は興味半分で引き出していた本を棚へ戻す。「ああ失礼。それで?」

「貸出記録に侍女の名前があれば()()()なんだけど……よし、あった」

 目当ての貸出記録を見つけ、深玉は指差す。「見て」

 覗き込む夏丞に見えるよう、深玉は綴本を持ち上げた。

「ここ。礼記(らいき)の貸出記録がある。持ち出したのは、筆跡からして(ちょう)沙李(さり)

 夏丞が瞠目する。「彼女の筆跡をご存じなんですか?」

「借りたあの方の書きつけの中に混じって彼女の字があったから、なんとなく覚えてる。主の代筆をすることも多かったみたいよ」


「恐れ入りました」夏丞がわざとらしく目を見張る。「深玉さんは、書のこととなると途端しっかりしますね」

 人のことをいちいちおちょくらないと喋れないのか、この男は。

「茶化すなら、わたしはもう、なにも、言わない」 

()ねないでください。黙りますので、どうぞ続けて」


 気を取り直して、記録を指で辿る。

「貸出記録によると……持ち出されたのは三月(みつき)ほど前。蓉昭儀さまのもとに数日あった後、返却されたみたい」これは間違いないだろう、と深玉は口角を持ち上げる。「尚宮には礼記なんていくつも保管してあるのに、あえてあの方がこの場所にある物を借りたっていうのは、やっぱり意味があるんだと思う」

「私の推論は正解でしたか」

「貸出記録によると、礼記の保管場所は……」深玉は書架を仰ぎ見る。「あそこね」

 書架の頂上にあたる棚。長身の夏丞すら、ゆうに二尺は超えた高さにあたる。


 夏丞は面白そうに目を細める。「なるほど、あそこなら高閣の(たと)えも頷ける」

 人気のない場所とはいえ、ゆっくりもしていられない。深玉は手近にあった梯子(はしご)を引き寄せた。「中を確認してみましょう」


 足をかけたところで、横から伸びてきた夏丞の手に制される。

「深玉さん、私が取りますよ。その長い裙では危ない」

「慣れてるから平気。裾を踏んで落ちたりなんてしないから」

「そうではなく」なぜだかため息をつきたそうな顔をされた。「これは私の伝え方が悪かったですね」

 問答無用で梯子を奪われた。

「ちょっ――」

「下品と承知の上で口にしますが」夏丞がやんわりと遮る。「私が下から見上げると、裙の中が見えてしまいますよ」

 一拍遅れてようやく理解する。慌てて梯子から距離を取った。

「……あなたが、見なければいい話でしょう」己の配慮のなさが嫌になる。

「おわかりいただけたならいいんです」


 夏丞はするするとのぼりきると、赤茶けた巻物をひとつ抱えて降りてきた。見れば、かなり古く装丁の劣化が著しい。深玉と夏丞は、隅に置かれた卓上で巻物を確認することにした。


「あるとすれば、落下を防ぐために中盤あたりに巻き込んでいるはず」


 深玉は慎重に少しずつ巻き出し、中をあらためていく。水祥殿の居室をみる限り、蓉昭儀は几帳面だ。そんな彼女が、書物を傷めるような行為をするとは思えない。糊で無理やりに貼るような真似はしていないはずだと、黙々と引っ張り出していき――中ごろを過ぎたあたりで、薄く白いものが見えてきた。


「ありましたね」

 夏丞がそれに指をかける。

 巻物とともに巻き取る形で一枚の長い用紙が挟まっていた。日焼けして茶けた巻物の紙面と比べると、見るからに新しい。

 冒頭の一文目は『真実を記す』。一目見て蓉昭儀の手だと判る。


「でも……ちょっと待って、これ……」


 けれども巻き出していくにつれて、深玉と夏丞の顔は曇っていく。

 冒頭一文を残して、文章全体にべったりと墨が塗りつけられていたのだ。

「裏まで墨が滲んでる。もとの文章を読み解くのは――」

「不可能、ですか」

 夏丞が深いため息とともに髪をかき回した。「一歩遅かったか」


 苛立ちを隠そうともしない夏丞を尻目に、深玉は残された断片的な文面を目で追う。

 用紙の長さは二尺を超えるほどか。とにかく損壊が激しい。単語がところどころに薄く見える程度で、内容の判別はやはり難しい。


「ずいぶん穂の太い筆を使って塗ったのね……あとは」顔を寄せる。「蓉昭儀さまがこれに使ったのは古墨かも。発色がとてもいいから」

 彼女がいかにこの文章と、必死に向き合ったかが察せられて。胸が痛む。

「他にわかることは?」

 気持ちを立て直したのか、夏丞がそばへ寄ってくる「なんでもいいのです、わかることを教えてください」

「わたしの所感にはなるけど」

 深玉は用紙を持ち上げる。

「おそらくだけど、犯人は几帳面な性格だと思う。上から横に一筋ずつ、念入りに文章を塗り潰していっているから」

 黒黒とした紙面は、禍々しさすらある。執念にも似た筆致に、背筋が薄ら寒くなる。

「あとは……終筆がすべて左に寄っている」用紙の左端を指す。「紙の左端に、筆のかすれが揃ってるでしょう」

「常に右から左へと塗っているようですね」

「そう」深玉は隣の夏丞をのぞき込む。「この筆運びが意味することがわかる?」

 夏丞はじっと墨塗りを見つめる。「左利き、ですか」

「御名答」いつかの、誰かのように深玉は答えてみせる。「犯人は確実に左利き。筆を左で持つ人間は、右から左へと腕を動かす方が無理がない」

 利き手による痕跡はどうあがいても隠しきれない。生活に根ざした癖だからだ。

 夏丞が眉間を揉む。「利き手がわかるだけでも、一歩前進と思うべきですね」


 文章の損壊は想定外だったが、疑問は残る。深玉はたいして厚みのない用紙を持ち上げる。


「どうして犯人はこの文書を持ち去らなかったの?」

 折り畳めば懐にでも無理やり忍ばせられそうなものである。わざわざこんな古臭い書庫で塗りつぶしに勤しむ理由が、深玉には分からなかった。


「そんなもの、決まっているではないですか」

 しかし夏丞の認識は違うらしい。彼の顔が厭わしそうに歪む。「これは見せしめですよ」

 長い指がざりと書面をひっかく。

「最初の一文『真実を記す』、この一文だけを残して塗りつぶす。そして、文書自体は暗号文の指示する場所にそのまま隠しておく――見つけた人間には、どう見えるでしょうね?」

 すうと腹の底が凍えた気がした。「真実を、塗りつぶして……」

「ええ。これは、真実はこの手で塗りつぶしてやったという、我々への挑発です」


 塗りつぶされた文書が重たく横たわる。

 ではここから導ける答えは――ただひとつしかないではないか。


「だったら、彼女は」喉が震える。「この文書を()()()()()殺された、ということ?」


 返答はない。深玉は冷えた指先を握りしめる。

「ここには相手にとって不都合な『真実』が書かれていて、殺されなければいけないほどの、内容だった……?」

 行き着いた考えは、正しいのか。深玉は答え合わせをするように男を見上げる。

「……合っていると思いますよ」

 夏丞は淡く微笑む。「あなたは聡いですね」


 夏丞からは、深玉ほどの動揺はみられない。墨塗りの用紙に視線を落とす。

 こんな紙切れ一枚に、蓉昭儀は殺されたのか。どれほどの内容であろうと、人が死んでいい理由にはならないのに。


「そろそろ行きましょう。あまり長居しても目立ちます」

 夏丞が埃を払い落とし、立ち上がる。深玉も頷くと、礼記を巻き戻すべく、中軸に手をかけた。


 遠くで鐘が鳴っていた――以前聞いたことがある、殯宮(ひんきゅう)への出棺を報せる鐘の音だ。

 これでもう、蓉昭儀は後宮には戻らない。

 そう思うと、胸が苦しかった。

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