2-2 一歩、外へ
朝日が眩しく窓から差し込んでいる。深玉は筆録房の窓を開け放ち、夏丞を振り返る。
「早々に来ていたんだから、すこしは解読が進んだんじゃないの」
視線の先、霍が持ち込んだ紙片は昨日のまま几に置かれていた。
わずかに間があき、「それなりですね」と返答がある。
「ですが、まずはこれが蓉昭儀の真筆であると確認しなければ先に進めませんので」
それもそうだ。そもそも深玉はまだこの紙片の中身を確認していなかった。たった紙切れひとつなのに、それがとても恐ろしいものに感じてしまい。
ざわつく腹の底の蓋をし、短く吐き出す。「わかってる。凛凛が来る前に終わらせるから」
「……まあ、早いに越したことはありませんが」
夢に引きずられている自覚はあった。どうにも気分が滅入る。椅子に座り硯を引き寄せると、冷たさが指に沁みた。
「深玉さん」
「ちょっと待って」
急かさずとも、きちんとやるのに。
「まずは、腹になにか入れますか?」
「……腹?」
突然なにを言い出すのだ。ゆるゆると顔を上げると、夏丞が奥の橱柜を漁っていた。
「ここには茶請けの菓子しかなさそうです。食べないよりはいいでしょうが」
「お腹は別に……」
「茶もご所望とあらば淹れますが……、それで? 甘いものはお好きですか?」
差し出された緑豆糕を一瞥し、はたと。気を遣われたのだと悟る。
一体己はどんな顔をしていたのだろう。深玉は気まずさから顔を背けると、「いい」と言い首を振った。
「凛凛が来たら用意してもらう。そもそも、あなた茶器を触ったことあるの?」
「ありますよ。男だからと見くびっていますね?」
得意げだが、茶盆の持ち方からしておそらくまともに扱えはしなさそうな気がして。
深玉は呼吸を整える。すこし、肩の力が抜けた気がする。
「早く終わらそう」
「そうですか、助かります」
ゆっくり紙片を開いた。
高閣臨雲杪 (高閣に雲杪を臨み)
禮經記秘章 (禮經に秘章を記す)
孤燕凌雪原 (孤燕、雪原を凌ぐ)
去處莫相疑 (去る處、相疑うこと莫かれ)
「五言詩、だけ……本当に?」
隠すように保管されていたのだ、昨日のような今際の言葉が綴られていると思っていた。たった五行の簡素な詩に面食らう。
けれど、それだけに秘された意図があるのは明白で。
「他に文章はありません」夏丞は文面を一瞥する。「借りた資料と比較して、どこか筆跡に違和感は?」
夏丞は脇に積んであった蓉昭儀の書きつけを前に並べていく。
「同じ草書で昨日の今日だから、鑑定は比較的簡単にできると思う」
五言詩には彼女の書き癖が目立っていた。右上がりの線に、左へ流す跳ね。流れるような筆致。ゆっくりと一字ずつ確認していく。
「字間の取り方も違和感はない。文字の流し方も蓉昭儀らしい手だし、墨継ぎもやっぱり少ない……」深玉は横目で夏丞の顔色を確認する。「模写には見えない。わたし個人としては真筆だと思う、けど」
夏丞は満足げに頷く。「ようやく真筆のものが見つかりましたか」
ようやくという言葉に、深玉は喉がつまったような気分になる。
「調査が一歩前進してよかった」深玉は声を絞り出す。「でもわたしが手伝えるのは、ここまでだから」
「おやおや、それはなぜです」
「筆跡からわかることは全て話した。これ以上は……鑑定を超えて、人そのものを裁く行為になる、と思う」
夏丞がわざとらしく非難がましい声をあげる。
「存外臆病でいらっしゃる。そんなに人の内側へ踏み込むのがこわいですか?」
この男は、的確に嫌なところを突いてくる。耳の奥でまた雷鳴が聞こえたような気がして――深玉はすべてを追い出そうと目を閉じた。
「話す必要ない。わたしには、あなたの方こそ理解できない。人の善悪を暴くような行為をしていて、平気な顔ができるなんて」
「生憎と、私はあなたほど繊細にできておりませんで」
黙ってうつむいてると、夏丞が深々とため息をついた。
「けれどあなたのような人は、見て見ぬふりができないはずですよ。わかっているのでしょう?」謳うように続ける言葉は、残酷で。「蓉昭儀は、殺された」
そう、これは自明である。はじめに見つかった遺書が偽物の時点で、彼女は自死ではなく他殺。悪意ある誰かが彼女の死を、自死にみたてて偽装したのだ。
見て見ぬふりをしようとしたのは、深玉自身。
夏丞が紙片を撫でる。
「彼女は自身の本当の意志を隠すため、この詩文を遺したとは考えられませんか?」
聞きたくない。理解してしまえば、逃げられなくなってしまう。
「彼女が遺したかった意志を汲むことこそが、我々に課された責務だと、私は思いますが」
「我々?」深玉は目をそらす。「わたしを関わらせて、あなたはなにがしたいの?」
「後宮内で男の私が立ち回るには、女官の手助けが必要です。それに、あなたのその筆跡鑑定の技術は他の誰にも真似できない」
「だからって」
夏丞の仄暗い瞳が、こちらを覗き込んでいる。
「あなたの鑑定を、殺された彼女のために使ってさしあげてほしいのです。どうか蓉昭儀と、彼女の最期の言葉を、助けていただけませんか?」
夏丞自身のためと言わないあたり、この男らしい狡い表現だ。耳障りのいい嘘に、虫酸が走る。
けれど、もしも――死した人間の言葉を、嘘偽りなく解けるのが、本当に深玉しかいないのなら。
蓉昭儀の最期の『声』を読み解くことこそ、母の声を拾えなかった、あのときの深玉を救うことにつながるのかもしれない。
「わかった、協力する。……ただし」深玉は有無を言わせず続ける。「凛凛はこれ以上踏み込ませないで。あの子はただのわたしの小間使い。不要な心配をさせたくないの」
「わかりました。では、ここから先の内容は私と深玉さんだけの秘密ということで」
密やかな笑みは、まるで毒のよう。蜘蛛のような男だと思う。気づけば絡め取られて、もう引き返せないところにいる。
丸め込まれた自覚はある。けれど、選択したのは自分自身だ。
この選択を、間違いにはしたくないと思うのだ。
深玉は手近の紙を引き寄せる。
「なら、早く詩文の解読に移ろう」
筆を執りかけた手を、夏丞が手で制した。
「大体の内容は、おおよそ私の方で解読できています。残りは、詩文が示している場所だけで――」
と、突然扉口が跳ね開けられた。仕着せの裾を絡げて、凛凛が筆録房へ駆け込んでくる。
「やっぱりここにいた!」
「凛凛、おはよ――」
「どうして今日はそんなに早起きなんですか!? お探ししました!」
髪も崩れた凛凛が、勢いのまま半べそで深玉の袖にすがる。
「朝はお部屋から勝手に出ないでくださいって、いつも言ってるじゃないですか! 居ないって気づいてから、ものすごく、ものすごおくお探ししたんですからね!」
「そうね、たしかに……」
「黙ってどこかに行かれたり、お部屋の机で突っ伏してそのまま寝たり、びっくりすることばっかりですよう! もっとご自分の立場をわかってください! 心配します!」
「ご、ごめんなさい」
たじたじと深玉が謝ると、凛凛は鼻息荒く腰に手を当てた。
「次に同じことがありましたら、深玉さまのお部屋に外から鍵をつけさせていただきますから!」
「それは止めてほしい、かも……」
「おやおや仲がよろしいんですね」
夏丞の含み笑いが深玉の萎れた声に重なった。