2-1 夢の余韻
『深玉よ、信念には代償が伴うんだ』
肩に置かれた父の手は、ひどく冷えていた。棺を前に泣く涙はなく。そうなのかと頷くことしかできなかった、己の幼さが後悔を残す。
今ならわかる。父の信念が、母を追い詰めたのだ。
そして、その信念が深玉をも孤立させた。
窓の外で雷鳴が轟いた。
『おとうさん。その信念は、だれのためにあるの?』
地面を叩く雨音が、父の答えをかき消していく。
見上げた先の父の表情は、どこまでも真っ直ぐだった。憎らしいはずなのに、どこかで羨ましく思う自分もいて。
真実を追う高潔さは、何物にも代えがたいものだ。だからこそ、深玉は今でも父を――。
ふっ、と景色が滲んだ。
ああ夢か。微睡みに沈む意識を引き上げ、深玉は無理やりに瞼を押し開けた。
ぼやけた、自室の天井が映る。
最悪だ。
気怠い余韻を引きずりながら、深玉は寝返りを打つ。今一番見たくない夢だった。
昨日はどうやって与えられた自室へ戻ってきたのか、記憶が定かではない。いつもの悪い癖だ。考え事をしていると全てがおろそかになってしまう。
漏窓越しの空は、薄く白み始めていた。凛凛はおそらく宮女の舎房でまだ寝こけている。今朝は深玉が特別早起きなのだから、当然だ。
身支度程度なら自分だけでも事足りる。深玉は被子から抜け出て仕着せを着込むと、筆録房へ向かうことにした。
深玉は静寂の中、ひとり砂利を踏み歩く。
蓉昭儀の死。この一件から、深玉の静かで閉ざされていた環境が、少しずつ変化している。
それも全部あの男のせいだ、と忌々しく思う。姚夏丞。彼が来てから、深玉は引っ掻き回されてばかりいる。己は職務に忠実に、ただ成すべきことのみを積み重ねてきていたはずなのに。彼がいらぬ波紋ばかり落とし、凪いだ心にさざ波を立てていく。ああ本当に。
「本当に……嫌になる」
「なにが嫌になるのですか?」
呼吸が、止まったかと思った。
はっと振り返ると、筆録房に面した園林に夏丞が佇んでいた。朝靄に朱の官服が沈んでいる。
「おはようございます。ずいぶん早いのですね」
夏丞の態度はなにも変わっていない。肩透かしを食らった気分だった。昨日の影を落とすような会話があったからには、多少なりとも変化があるかと思っていたのに。
深玉はたどたどしく言葉を継ぐ。
「まだ、開門前なのに、なんで」
「調べ物がありまして。……ああ、きちんと手順は踏んで来ておりますよ」
夏丞が腰に下がる符節を持ち上げてみせる。どこまで真実を語っているのか解らない。やはりこの態度は勘に障る。
「なんでもそれで済むと思わないでください」
「それで? なにが嫌になるんです?」
夏丞は深玉の苛立ちも物ともせず、するりと近づいてくる。
「あなたには関係ないでしょう」深玉は突っぱねる。「こんな朝早くからなんの用です。まだ尚宮局は開いていませんよ」
「そう嫌がらないでください」
心の内を読ませないその瞳が、細められる。
「調べ物をするために、少し早く出てきただけです」
「なんですか調べ物って」深玉は眉をひそめる。「まだどこも開いていないはずで――」
尚宮局内へ続く内門を見やると、扉が僅かに開いていた。深玉は目を見開く。あの奥は尚宮局の書庫がある。あの内門は昨日凛凛が退出の際に確かに施錠をしていたのを、深玉も確認しているはずだった。まさか。
「……勝手に開けたの?」
自然と深玉の語気が荒くなるも、夏丞に怯む様子はない。
「言ったでしょう。通行証があるのだと。これも特権のうちです」
「ずいぶんと大層な『特権』ね」深玉は低く毒づく。「図々しいにも程がある。規則違反よ。少し弁えたらどうなの」
「ご心配には及びません。業務上、必要だと判断して行っていることですから」
「誰が心配してるなんて言った?」
ずっとそうだ。この男は、こちらの感情を逆なでする術だけは抜群に長けていて。
「そういえば、先程から私への言葉遣いが荒くなっていますね」夏丞は余裕の笑みだ。「すこしは私と親しくする気が出てきたのだと、解釈してよろしいでしょうか」
はっ倒してやろうかと思った。
「馬鹿言わないで」
深玉は横に並ぶ夏丞を無視して先をゆく。ここまでくれば諦めの境地である。
「あなた相手に敬語を使うのが疲れただけ」
「それはいい。仲良くなるいいきっかけになりそうですね」
この男の精神、鋼で出来ているのでは? 深玉は返事を無視し、筆録房へと入っていた。