バタフライノクス・リナウス
ここはセリオ王国の迎賓館。
騎士団長の計らいで、気を失ったリナウスは上等な部屋に運ばれ、専属の召使いたちが彼女の手当てと身支度をしてくれた。
(正直、童貞の俺には、触れるのも大変だからありがたい……)
しかし、「召使い」と自ら名乗ってしまったがために、83号は隣の――文字通り、召使い用の狭くて質素な部屋に通されていた。
壁の薄さと布団の薄さに若干の文句はあったが、疲労には勝てず、その夜はすぐに眠りに落ちた。
(ほんと、今日は色々ありすぎた……でも、生きててよかった……)
そんな安堵と共に、83号は深い眠りへと沈んでいった。
翌朝。
リナウスの隣の部屋で控えていた83号は、やがてゆっくりと目を覚ますリナウスを確認し、そっと声をかけた。
「む……ここは……何が起きたのだ?」
「おおっ、リナウス様! ご無事で何よりです。実はですね……」
83号は、ブルーとの戦闘から、異世界転移、そしてクマ退治に至るまでの顛末を手短に説明した。
リナウスはしばし黙ってから、ようやく口を開いた。
「……なるほど。断片的にだが記憶はある。この世界がどこかはわからんが、悪くはないな。
ただ、“女王”ではなく“姫”という設定、そこはいただけないな」
(細けぇなあ……!)
心の中で盛大にツッコミを入れながらも、顔は笑顔を崩さず頷く。
「どうして我々はこんな場所に飛ばされたんですか?」
「ふむ、それはだな。私がブルーを事象の彼方へ吹き飛ばし、ついでに自分も、戦隊の追撃が届かないような安全圏に転送した。たぶん、そんなところだろう」
(自分だけ安全圏に逃げる気満々だったのか……さすが悪の幹部。ブレてない……)
「おい、お前。いま何か失礼なことを考えていただろう?」
「い、いえっ!? 今こうして生きていられるのも、すべてリナウス様のおかげです!」
即座に取り繕う。口先だけで世渡りしてきたこの男、舌の回りは幹部以上だ。
「まぁいい。この翅のおかげで騎士団も勘違いしてくれた。これは使える。しばらくこの“高貴な妖精姫”設定で立ち回るとしよう」
「かしこまりました!」
83号は無意味にビシッと敬礼する。
「して……私の身体がずいぶん綺麗になっているのだが。まさか、お前が手を……?」
「い、いえいえ! この館のメイドさんたちが丁寧に……僕なんか、恐れ多くて!」
「ふん、腰抜けめ。……だが、礼は言っておく。ありがとう」
ツンが多めのデレに、思わず頬が緩む83号だった。
(……なんだよ、悪の幹部のくせに、ちょっと可愛いじゃないか)
「妖精姫が目覚められたとの報を受け、参上いたしました!」
バタバタと音を立てて部屋の扉が開き、騎士団長が現れた。
どうやらこの世界では、“妖精”という存在がそれほどに高貴で、特別なものらしい。
「おお……麗しの妖精姫よ。ご無事で何よりです。我が名はエルネスト・ヴァルゼライド、このセリオ王国に仕える騎士団長でございます。かくも高貴なお姿を拝見でき、まこと光栄に存じます」
エルネストはそう言うと、瞬時に片膝をつき、頭を垂れた。
その威厳ある振る舞いに、つられて83号も条件反射のように膝をついてしまう。
(ああ、完全に職業病……)
すると、ベッドで横たわっていたリナウスが、ふわりと上半身を起こし、上品に微笑んだ。
「ご丁寧にどうも、エルネスト様。私はリナウス・ネオ・ベスティアと申します。遥かなる亜空の彼方――“エリュシオン”より参りました、妖精族にございます」
あまりにも自然な口調と完璧なポーズに、俺はしばし言葉を失った。
(演技力バケモンかよ……これも幹部のスキルなのか?)
「エリュシオン……異界の地より……なんと、なんと尊いご縁か。姫をこの地でお迎えできるなど、我らにとってこれ以上の誉れはございません。どうか、ご無理なさらず、ゆるりとお過ごしくださいませ」
「ご配慮、感謝いたしますわ。では、少しこちらへ来ていただけますか?」
リナウスがそう言えば、エルネストはすぐさま立ち上がり、彼女のもとへ進み出る。
「お手を」
リナウスがエルネストの手を取ると、その掌に、小さく青く輝く水晶のようなものがふわりと現れた。まるで光をたたえた氷の結晶のように、美しく静かに煌めいている。
「こ、これは……なんと神秘的な……! このような贈り物、身に余る光栄……!」
「今の私にできるのはこれくらいですが、ほんの感謝の印ですわ」
そう微笑むリナウスに、エルネストは目を潤ませながら何度も頭を下げた。
(それ、確かナノマシンの結晶だよな……リナウスの演技力も本当の王族にしか見えない…すご)
完全にファンタジー空間に染まりつつある部屋の中で、ひとりだけ取り残されたような気分になる83号だった。
エルネスト団長がリナウスに一礼し、部屋を出ていく。その背を見送ったあと、彼はふと振り返った。
「そういえば、あなたは――83号殿、と申されたかな? あの戦いでのご活躍、目を見張るものがありました。もしや、あなたも妖精族のお方なのでしょうか?」
思わぬ問いに、俺は一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔をつくる。
「あ、僕のことは“マコト”と呼んでください。番号呼びは、ちょっと慣れてないもので」
とりあえず、本名を名乗っておくことにした。
「僕も……まぁ、妖精族の“ようなもの”です。ちょっと、お見せしましょうか」
俺は胸の奥にある、あの奇妙な感覚――バグスノクス・ヴェスパの残滓に集中し、呼びかけた。
「バグスノクス!」
掛け声とともに、背中から何かが飛び出す。
ぶちぶちっという音と共に、にょきっと生えてきたのは……少し汚れたような、やたら小ぶりの羽。
(え……これ、どう見てもゴキ……いや、やめよう。リナウス様やヴェスパ様の翅はアールデコ風に綺麗だったのに……)
妙に現実的な質感に、少し心が削られる。が、なんとか笑顔は保った。
「おお……これは確かに妖精の血を引いておられる証。まだ未熟なように見えますが、その分、秘めたる可能性を感じます」
エルネストはまっすぐな眼差しでそう言ってくれた。
こんなふうに、真正面から褒められるのは、いつ以来だろう。
「ありがとうございます。でも僕、今はあの“姫”のお付きなんで……まぁ、クビになったら相談に乗ってください」
冗談めかして言うと、エルネストは笑ってうなずいた。
「その時は、騎士団の門を叩いてください。歓迎いたします、マコト殿」
「はは、はい。じゃあその時はよろしくお願いします」
見送る僕の頬には、自然と笑みが浮かんでいた。
なんか……ちょっとだけ、自分が認められたような気がして。
「さっきの、水晶みたいなやつ……あれ、ナノマシンの結晶ですよね?確かに綺麗でしたけど」と、マコトは隣にいるリナウスに問いかけた。
「ああ、私が自在に制御できるナノマシンの鱗粉だ。毒にも薬にもなるし、情報を拾う機能もある。向こうの会話も聞こえるから、偵察には最適だ」
さすがは幹部。見た目だけじゃない、抜かりのない準備に感心する。
「とりわけ私の結晶は、人の欲望に“ささやきかける”ように設計されている。美しさに惹かれて心の隙が生まれれば、情報は引き出し放題。まぁ、お前には無理だろうが」
「軽くディスられた……」マコトは心の中で項垂れる。
「さ、さすがですリナウス様。では次は、どうしましょうか?」
「そうだな……もうひとつくらい、まともな頭脳が欲しいところだ。お前、ギュムノトスの能力も受け継いでるんだろう?何か策はないか?」
マコトはちょっとバツが悪そうに肩をすくめた。
「ええと、その件なんですが……知能の方はまったく変わらずでして。正直、高卒程度の知識しかありません」
「それを堂々と言うな。……まぁいいわ。私もまだ本調子じゃないし、しばらくは休養が必要か。使えるものはとことん使う。それが組織の鉄則よ」
「了解しました!」
(どこまでも都合がいいんだよなぁ、リナウス様は)
それから数日間、二人は迎賓館で穏やかな日々を過ごしていた。
リナウスは、世話をしてくれるメイドたちに小さな髪飾りを贈っていた。すべて、ナノマシンの結晶で作られたものだ。その幻想的な美しさに、メイドたちは歓声を上げ、まるで宝石でももらったかのように喜んでいた。
――それが高性能の盗聴器であり、場合によっては兵器にもなるとは、夢にも思わずに。
「どうですか? 情報、集まりましたか」
マコトは、今では迎賓館の使用人のような装いでリナウスの向かいに座っている。まるで一流の執事のようだ。
紅茶のカップを傾けながら、リナウスは微笑んだ。
「すっかり溶け込んでいるではないか、83号」
「ええ、長いものには巻かれる主義ですので」
「王が重い病で床に臥せっているらしい。あの結晶、最初は妃の手に渡ったが、今は王女の元にある」
「王政なんですね。典型的な封建型…なるほど」
「病か……使えるな」
リナウスが唇の端をわずかに持ち上げた。あの、何かを企むときの表情だ。
「お、何かお企みで?」
「その言い方やめろ。恩を売るに越したことはないってだけさ」
そう言うと、リナウスは指を軽く鳴らし、メイドを呼びつけた。
「おお……リナウス・ネオ・ベスティア殿下。このような場所まで足をお運びくださるとは……」
リナウスとマコトは、騎士団長エルネストの取り計らいで、ついにセリオ王との謁見を果たすことになった。
病の床に臥す国王は、顔色こそ優れないものの、妖精の姫に会えるとあって気力を振り絞って挨拶に応じてくれた。
「ご覧の通り、情けない有様で……病床からとは無礼をお許しください」
「いえ、こちらこそお見舞いの場に参上し、かえってご無礼を――ですが、殿下にはぜひお目通り願わねばと思ったのです」
「ほう……人間の身であるこの朕に、どのような御用が?」
「あなたの病を治しに来ました。女神より、あなたにはまだ果たすべき使命があるとお聞きしています」
その一言に、場がざわめいた。
「女神……!?」
「お、おお……」
マコトも思わず口を開けてどよめいた。
(また、サラッとすごいこと言ってるし……大丈夫かな、これ)
リナウスは静かに一歩進み出た。
「失礼いたします」
王の枕元に歩み寄った彼女に、一瞬、近衛が剣に手をかけたが、王が手を上げて制した。
リナウスはそっと王の胸元に手を置く。
すると、その背から美しい翅がふわりと開き、青く発光を始めた。
ナノマシンの共振。
微細な粒子が空気を震わせ、光と共に増殖していく――マコトには、それが恐ろしくも不気味な現象に見えたが、周囲の人々にはただの“奇跡”にしか見えていないらしい。
「なんと……この光は……」
「神々しすぎる……」
そのうち、王の身体全体が光に包まれ始める。
目、口、鼻、いや、皮膚の隙間からも光が漏れ出していた。
(おいおいおい……大丈夫かこれ……)
「王様!!」
「こ、これは……!」
「ほんとに信じていいんだよな……!?」
場がざわめきに包まれる中――
光がすっと消え、リナウスが静かに手を離した。
王の顔に、驚きの色が浮かぶ。
(……よかった、吹き飛ばされてない……)
そして次の瞬間。
王はぐっと上半身を起こし、そのまま立ち上がった。
「お、おお……立てる!?」
「王、王が……!」
「治った! まさか……治ったぞ!」
王は病床の上で、ぴょんぴょんと小さく跳ねた。
「むしろこれまでで一番調子が良い! 体が軽いぞ! なんだこれは!」
城内は歓声に包まれた。
「奇跡だ!」
「妖精姫が王を癒したぞ!」
「不治の病が、完治した!!」
その喧騒の中で、最もほっと胸を撫で下ろしていたのは、他ならぬマコトだった。
(ほんとに……爆発でもするんじゃないかと……)
その日、王都は夜遅くまで熱気に包まれていた。
王の快気祝いに加え、突然現れた“妖精姫”――リナウス・ネオ・ベスティアの奇跡的な癒しの力。
それは人々にとって希望の象徴であり、女神の使徒そのものだった。
「式典は正式には後日、改めて」とは言われたものの、即興とは思えないほどの熱狂。
広場には民衆が押し寄せ、花火が打ち上がり、音楽が響き、道には露店が並んだ。
市井の人々の顔は一様に晴れやかで、涙すら浮かべている者も少なくない。
(すげえな……これが“幹部”の手腕ってやつか……)
雑兵あがりのマコトは、その光景を呆然と眺めながら、どこか胸の奥にざらついたものを感じていた。
「リナウス様……いったい、何をしようとしてるんです?」
彼がそう問いかけると、リナウスは唇に人差し指を立てて静かに笑い、すっと群衆の方へと歩み出ていく。
「私は、女神より遣わされし者。この地にもたらすは恵みと癒し。皆さん、どうか願いなさい――不調の一つや二つ、すぐに治して差し上げましょう」
その声は、どこか神秘的で、そして決定的に“人間のそれ”ではなかった。
次の瞬間、彼女の背から青白い翅がふわりと広がる。
ナノマシンの鱗粉が空中に舞い、風に乗って群衆の上へと降り注いだ。
無数の光が宙を漂い、民衆を優しく包み込む――その光景は、まさに神話の一場面のようだった。
「見て! 足の痛みが消えた!」
「腰が……嘘みたいに軽い!」
「私の火傷の跡が……ない! ないのよ!」
「失われた視力が戻ったんだ、俺……もう一度、妻の顔が見える!」
歓声と驚き、涙と祈りの言葉が次々と巻き起こる。
人々はリナウスを“天の姫”と呼び、道端に跪いて感謝を捧げた。
子どもたちは彼女に花を投げ、老いた者たちは深く頭を垂れ、聖歌のような合唱が自然に起こった。
そんな中、マコトはぽつりと口を滑らせていた。
「こわ……大丈夫かよ、これ……」
彼だけが知っている。
あの翅が振るえば、癒しどころか都市ひとつを壊滅させることさえ可能だと――
ナノマシンの鱗粉は毒にもなる。殺戮のために使われることだって、これまで幾度となくあった。
だからこそ、それを“奇跡”と見上げている人々が、どこか痛々しく見えた。
やがてリナウスは静かに壇上から降りてきた。
人々の喝采の中、マコトの方を振り返って微笑んだ。
「リナウス様、一体何をなさってるんですか……?」
「ふふ……83号。我々は悪の秘密結社だろ? することなんて、決まってるじゃないか」
「……まさか、世界征服……?」
「そう、そのまさか」
翅をたたみながらリナウスは、冷たく、しかしどこか楽しげに言った。
その目の奥は、夜の闇のように深く、底知れないものが宿っている。
「回復にはまだ時間がかかるが……この世界、少し遊んでみたくなった。どうせ暇だからね」
その声音に、マコトは背筋がひやりとするのを感じた。
(この人、本気でやる気だ……)
人々の歓喜が続く中で、マコトはただひとり、冷や汗を浮かべながら空を見上げた。
(俺……ほんとにこの人についていって大丈夫なのか……?)
祭りのような一日。
だが、それは静かに始まりを告げる、支配と幻想の序章でもあった――。