夢
下にはあれほど充満している煙もここには無い。あるのは寝具と机に蝋燭が一本。夜を越すためだけに戻る場所なのだから大して必要な物もないのだ。
皺の寄った敷布に横たわり、くたびれた毛布を掛ける。金はあるのだから布団も変えかえればいいのに、いつまで経っても新しいものに変える気は湧いてこない。理由は分かっている。だけども、これにすら縋っているようで、本当に己が嫌になってしまいそうだ。また熱くなろうとしている目頭。泣き出してしまう前に眠ってしまおう。仄かに痛い瞳を閉じた。
……迎えに来て。響くように聞こえた幼子の声。あぁ、すぐに分かった。これが夢なのだと。
ただ白が広がっていた場所にぼんやりと色が付き始め、形を取り始める。いつの間にか見覚えのある光景に変わっていて、覚えのある感覚に襲われる。
そこの昼間には明るい声の一つも聞こえてこない。
雨に降られて凍てつく寒さと、荒みをはらんで隠しきれない色情……子供が一人の垂れていても誰も気に留めやしない。見て見ぬふりなのか、そもそも見えやしないのか。
そんな路地裏に幼い私は落ちていた。
じとりとした髪から水が滴り落ちて下半身を濡らしている水溜へ。服は肌着と見紛うようなボロ一枚だけ。それが九つのガキの姿なのだから。なんとも哀れなものだ。
やっと弱まったと思っていた雨が再び強く身にあたる。明りの落ちた行灯の横、色を売る女たちの根城から細い煙が上がった。
二階の縁側から顔を覗かせる売女。一度、狐のような細い目がこちらを向いた。だが、嫌なものを見たといった感じですぐに根城へと引っ込んでいった。
可哀そうな子供を助けるふりでもしてくれればどんなに良かったか。娼館に拾われたかった。躰に傷もないガキだ。色を売るのに女は必要だろう? どうして商品にしようとしてくれないのか。
酷くなった雨。道を叩くような大きな音。自分の鼓動すら聞こえなくなった時だった。
「ん」
煙草をくわえている癖に、煙を吐きもしないでこちらに手を伸ばしてくる男。逆の手は朱色の番傘を持って雨をよけている。
男は優しくはないようだ。決して傘をこちらに差し出そうとはしないのだから。ただ、出された腕がどれだけ濡れようとも決して引くことはなかった。それほど長い時間ではない、だが、決して短くもない時間。
男は煙草の臭いを漂わせながら、こちらをじっと見ている。
掴みたくなった。はなから助けてくれれば誰でもいいとは思っていたのだ。だが、これが間違いの始まりだったのだろう。蟻地獄のような、抜け出すこともできず喰われるための悲惨な罠へと囚われることになるのだから。
手を、取った。
一瞬で景色が変わる。掃き溜めから街へ。
男は器用に羽織を脱いだ。そうして私の景色は布で覆いつくされ、雨に奪われていた音が帰って来た。
仄かであったが、温かくもあった。
抱えられてから、幾ばくか時が経って、何を思ったのかそっと男の躰へ身を寄せ、耳を当てた。
鼓動が聞こえた。大きな音だった。でも、早いわけではなくて。しっかりと聞こえてくるのに静かだった。
ずっと固く結ばれていたはずの口元が綻んだ。
ちらりと羽織の一部が捲られ、隙間から男がこちらを見ていて、私の顔は強張った。冷えた瞳は一瞬だけ、魔性だった。真一文字だった口が緩く弧を描く。男は変わらないのに哀れなガキは鼓動を速めていた。色恋など知りもしないのに、熱なんて持ったことが無いのに、浮かされていた。
何かの危機を感じて目を逸らすと、羽織は肩まで下げられ通りが見えた。
朱に塗られた檻のような建物が並ぶ中、男は硝子が壁にはめ込まれている建物の中へ足を進めた。
番傘を戸に立てかけると、履物を適当に脱ぎ部屋をいくつか抜けて、狭い場所に私を下した。一組の布団に、座布団と机、和綴じの紙がいくつも重ねられている、よく分からない場所だった。
男はやっと煙草の煙を吐いて、問うた。
「名前」
唇を噛み締めた。捨てられた忌々しいこの名を言いたくなかったから。濡れた服を握りしめていると、男はその場から消えた。
また、外へ出されるのだろうか。不安が心を占めているとふわりと柔らかい布が降って来た。目を丸めていると、戻って来た男がしゃがみ込んだ。
「寒いんか」
ただ一言口にして、男は私にかけた布の端を手にして、顔を拭った。
声もなく、泣いた。枯れるまで涙を流した。
男は私を見て、手を伸ばした。布越しに撫でられている感覚。首筋から何かが伝って、今度は声を上げて泣いた。枯れたと思っていたのに、まだ出てくるのだ。
小さなこの身を抱き寄せて、何度も男は慣れない手つきで頭を撫で、背を優しく叩いた。
「黎―!」
私は彼を見て、笑顔で呼んだ。
あれから三年。私を拾った男、黎は二十歳になった。幼かった私は十になった。季節外れの雪が積もって、はしゃいでいた私は彼を連れて庭に出ていた。
「何や、燐。ちぃとその声下げれ。耳が痛い」
片耳を抑え、渋い顔をする彼は不満げだった。
すぐに、というわけではなかったが、徐々に私は彼に心を開いていった。そうして、他人と妹の間の情を注がれていた。
「なぁーに言うんよ、黎! ウチの声ぜーんぜん煩ないやろ~?」
黎がずっと傍に居てくれる、それがとても嬉しくて、高揚していた。
最初こそ冷たかった彼だったが、私が心を開くにつれ、彼も変化していった。有無を言わさず飯を出していたのが、好きなもんはあるんか、これは食えへんのかと質問攻めにして、ある時から甘味を出してくれるようになった。お前は大切やからと。
「煩いわ、ボケ。下げへんのやったら、もう抱き上げてやらんぞ、ええんか」
叱りつける様な声に、びくりと躰を震わせた。少し恐ろしかった。嫌われたのではないかと、思ったからだ。
この時には少しずつ、彼へ向ける感情が家族への物ではないと理解し始めていた。
「意地悪。ボケナス。ウチのこと嫌いなんか? 黎……」
泣き出すすんでに彼の表情が変わり、傍によって頭を撫でた。
「バカか、嫌いやったら、とっくに追い出しとるわ。燐はずっと家に居てええって言ったん、もう忘れたんか」
髪がくしゃくしゃになるまで撫でくりまわされ、ムスッとした顔をしつつも私は彼の言葉が嬉しかった。
「覚えとる」
下を向きながら言うと、こちらの顔を覗き込んできて彼は笑った。
「なら泣くなや。醜女になっても俺は知らんぞ」
穏やかな時が流れていく。雪が日に照らされて姿を消し始めていた。
「ならんわ。ウチはこの辺で一番の美人になるんやもん」
そうして、黎の傍にずっといて、いつか彼の……。
「随分自信あるんやな」
小ばかにしているのだろう。だけれど、不思議と嫌な感じはしなかった。言葉の裏に違う意味があるのが分かっていたから、だろう。きっと。
「黎がお前は美人になるなって言うたやんけ」
熱くなる頬を隠すようにそっぽを向いた。
「よぉ覚えてんなぁガキは」
子供としてしか見られていないが、いつかは。秘めていた想いは蕾になりかけていた。
……確かあれは、十四の時だ。蕾だった想いは白百合となり咲いた。もう止める事等出来なかったのだ。
彼は二十四。元から女遊びをしているのは知っていた。夜居ない時に誰かを抱いている事も知っていた。彼が居ない時に何度か違う女が一人二人訪ねてきたことがあったから。艶めかしい女性がお兄さんは居るかと聞く瞬間が、何よりも苦痛だった。拾われる前のあの日より。
「なぁ、黎」
部屋で横たわる彼に声をかけた。
「何や、燐」
気怠そうな声はいつもと変わらなかった。
「黎はウチのこと好きなん?」
振り返ることなく、返って来た。
「好きとか、嫌いとか、そんなもんに当てはまる間柄やないやろうが。変な事聞くなや」
嬉しい様な悲しい様な。首筋に変な感覚が上がってきて、ゾクリとした。首に手を当てて、早く収まれと願ったが、消える事は無く。私は聞いた。
「なら、黎はウチのこと抱けるん?」
静寂が一時、部屋を包んだ。
やっと横たわっていた、こちらを向かなかった彼が起き上がり私を見た。
「お前、自分が何言うてるんか分かってるんか」
いつもの、家族や兄の目つきではなかった。鋭く、冷たい……初めて会った時と似た眼差し。
私の視界は左右に揺れた。唇を巻き込んで噛み、首元にあった手は顔の下半分を覆い隠すのに使った。早い鼓動、静まるはずもなかった。
一度、二度、三度。
目を合わせる度に、躰は熱を帯びた。吐息が漏れた。もう制御できないならいっそ。
「ウチもう子供じゃないんよ。意味くらい分かってる」
意を決して言葉にすると、刹那。黎が腕を強く引いて、隙も与えずに耳元で囁いた。
「泣いても、止めへんからな」
蕩けた瞳を見た彼は両手を拘束し、私を押し倒した。捕食者の目をした彼からふわりと沈丁花の香りがした。
私の躰にも香りが沁みついた。
明るかった空は暮れ、二刻かけて白百合は手折られた。
失った事が幸福だった。彼に摘まれた花という事実が。私と愛を交換してくれたことが嬉しかった。
それなのに、黎は望まぬ方へと変貌していった。
違う、私が望んでいたのはそんな貴方じゃない。元の彼を返して。すすり泣く少女。
あぁ、なんて愚かなのか。




