幸せ
書類を交わす正式なものではない。扱いは未婚と同じ。
事実婚というもので、彼は本当に正式に籍を入れてもいいと口にしていた。だが、私が拒否をした。もし彼がまた消えた時に別れる事が出来ないからだ。
仮で構わない。幸せを体験してみて、気持ちが変わらなければその時に本当の結婚をすればいい。
二週間、遥か昔に思える幼い時より、少し変わった生活を送っている。色町では味わうことの出来ない人並みの幸せ。
あれから彼はいい方へと変化し始めている。
「燐、これからは俺が夢を見せる。お前は帳簿と料理だけしとけ。他は全部俺がやる」
期間を設けず、煙を吸い続けたため休まなければいけないから、と彼は付け加えた。
今までふらりとしていた黎がきちんとした人間になっている事に驚きを隠せないのと同時に、己の中で渦巻いていた負の感情がこうもあっさりと消えてしまっている事も不思議に感じていた。
家族……思い描いていた形と違うけれど。やっと彼の隣に立てた。私は彼の妻だ。
羨んでいた数多くの女のことなど、もう忘れていた。
穏やかな水面のような、幸福な時間がずっと、永遠に続けばいい。
「黎、買い物に行って来る」
戸口から出る前に皿を仕舞っている黎に声をかけた。
音を立てながら急いで棚に片づけ、こちらに駆けてくる黎。
「まちぃや、俺も行く。お前に重いもん持たせるわけにいかんからな」
頬が赤く染まる。彼から私は女に見えているという事実が沁みる。嬉しい。大切にされているというのはこういう事なのか。
あぁ、あぁ、言葉にならない。
身体中に羞恥が広がって行く。こんな事で感じるものではないのに。
喜んでいる己が何とも言えない。
隣に立ち、一緒に歩んでいく彼に呟いた。
「ありがとう」
なんて順調なのだろうか。これほどうまく行った事が私の人生であっただろうか。
それなのに、何故か足りない気がする。
一体何が足りないというのか。満ち足りているではないか。幸福ではないか。普通の人生が送りたかったのだろう。叶えたじゃないか。
幾度己に言い聞かせても掛かりが取れることは無かった。




