恋情
私の腕を引いて、抱きしめた。
女が黎に縋ろうと言葉を吐くも、彼は私を抱く腕の力を強めるばかり。見向きもしない。それどころか愛だの恋だの嘆いている女に言い放ったのだ。
「お前、喧しいわ。もうどこへでも行ってくれてかまへんよ」
女は激昂した。まるで毛を奮い立たせて威嚇する野良猫のように。喚き怒鳴り、床を踏み鳴らし、散々悪態をついた後、私と黎を無理やり剥がした。
「最低!」
言葉と共に平手打ちが黎の頬に当たった。黎はと言えば顔色一つ変えず、女に手を振っていた。
わざと大きな音を立てて店を出て行く女。黎も女が居なくなれば、直ぐに店から消えるだろうとまた飛ぶのだろうと思っていた。
打たれた頬を擦ってから、こちらを見て微笑んでいた。
宝石のように輝く瞳、彼が首を傾げるのに連動して揺れるタッセルの耳飾り、髪の隙間から見える耳にはタッセルの他にも銀の飾りが三つ付いていて目を引く。薄い唇は弧を描いており、幼い時心惹かれた彼がいた。
先刻まで後ろめたい感情が煮えたぎり、どれだけ温度を下げようとしても叶わなかったのに、今ではすっかり冷や水だ。それどころか、別の想いが湧き出てきている。
私をもっと見て。私をもっと欲しがって。私をもっと安心させて。
私を、私を、もっと、もっと……子供の駄々だ、こんなものは。分かっているだろう、思ってはいけないと。考えてはいけないと。彼を求めて掴んでも手にあるのは蜃気楼だと。咲かせるな、想いの花を。もうその芽は摘みとらねばいけないと知っているだろうが。
求めるばかりの子供では彼に見てもらえないのだから。ただ追うだけでは、いけない。
「出て行かないの、黎。あの女と別れられたのだから、もうここに居る必要なんてないでしょう」
今は、この気持ちに封をして。普段の接客と変わらないように対応を。
これ以上店を開けている気力もないと、正面の戸の鍵を閉めた。
「出て行くわけないやろ。折角帰って来たって言うんに」
話途中に、男娼が起き出して会話に入って来た。
「痴話喧嘩かな? 悪いのだけど休みではないからねぇ、店に帰って客の相手をしなきゃならないのだけれど」
張り付いた笑みを浮かべて、口元を裾で隠している男娼。黎はその表情を見て、口角を片方だけ上げて、目を細めた。
「そやなぁ、痴話喧嘩やから入ってくんなや。売りモンが」
刺々しい声。冷笑と鋭い目つきが静かに争いを起こしていた。
そこまで互いに敵意を向ける必要など、どこにあるのか。
「申し訳ありません、表は閉めてしまったので、裏口からでもよろしいでしょうか」
割って入ると、手元を下げて口元を露にした男娼の柔らかな微笑みがこちらに向けられた。
「あぁ、構わないさ。これは今回分の金子」
しっかりとした重みのある巾着袋を手渡された。金庫の方へ行き、金を仕舞う。空になった袋を返し裏口へと案内をする。
「燐は辛くないのかい? 黎はあの時から変わっていないだろう。離れてからのお前さんは寂しげだったが、持ち直していた。傷はあっただろうが、深くはなかっただろう。今は前よりも深く抉られているのではないのかい?」
後ろからの低い声が心配の色を出しているのは分かっている。言われた通りだというのも、理解している。吐いていいのなら全てを言ってしまいたい。
けれど、男娼は禿を失っているから私の痛みが分かるだけで、全てを理解してもらえるわけじゃない。本当はどうしたいのかまで、見抜かれていたのなら私だって素直になっていたかもしれない。でも、そこまで気づかれていない現状ならば、私は弱さを曝け出したくない。本質を暴かれるまでは、強い己を演じて居たい。
折れない私を、流々と生きていける事を、証明しないと価値が無いように思えるから。
「もう絆されない。だから、心配せずとも平気よ。私ももう、子供ではないのだから」
振り向き様に伝えると、男娼は悲しげに微笑んだ。
「恋情というのはねぇ、歪なものだよ。人を苦しめる癖に恨むことが中々出来ず、その癖、一度恨んでしまったらもう戻る事も出来ない。燐は禿とは違って強い子だ。だが、お前さんは知らないだろう。僅かに芽を残した情の摘み方など。どうしたってね、根は強い。残ってしまうのさ。全てを消し去るのではなく、隠してしまうのではなく、受け入れなければ。絆されないなんて、口にしなくていい。強がる必要なんてないのさ」
なんだ、見透かされていたのか。瞳の奥が熱くなるのを感じたが、零れたのは己でも不思議なくらい温かな笑み。
「では、またのお越しをお待ちしております」
戸を開けると外は暗く、表の声がこちらまで届いていた。
「あぁ、また来るねぇ」
男娼が通りに出て行くのを見届け、黎の居る場所までゆっくりと進んだ。
広間に戻ると、彼は絨毯の上に座り込んでおり、こちらを見上げた瞳は冷気を帯びていた。




