第壱部 悪路王 九 雪解け
炉に火が入ると高殿の周囲は昼夜を問わず光と熱とに取り巻かれた。
柵の内では大篝火が幾つも焚かれ、多くの人々が出入りし、物音と掛け声で活気に溢れた。
敷地内の温度まで上がった様に感じられた。
焔の色と排出されてくる熔解物の色で竈長が炉の温度を見分けながら、鑪長に合図を送る。
鑪長が鑪番の男衆の息を合わせるために抑揚を付けた掛け声を揚げ、高殿では男衆がその声に輪唱しながら踏み鞴を踏む。
送り込む風の量で焔を操りながら、頃合いを見て竈長が炭と餅鉄を炉にくべて溶かしていく。
眩く赤く熔けた熔解物の中で鉧を育てるのは大地の奥深くの営みにも似ていると小角は思った。
夜を徹して鑪が踏まれ、輪唱が続いた。
真鉄が吹かれている間は常に危険が付きまとうため、年少な童子達は里で留守居をする。
排出される高温の熔解物もだが、炉や竈の造りに僅かでも手違いがあれば爆発が起こる事もあるのだ。
年長の童子達は女衆と共に鑪番の男衆の世話を焼いていた。
桃生と伊治の里を失った今は、大墓と盤具の民が総動員で鑪番を勤めていた。
田鶴と石盾も毎日城内に姿を見せた。
弓弦葉の朗らかな笑い声も聞かれた。
やがて真鉄は吹き終わり、竈は冷えるのを待って壊され、鉧が引き出された。
神嘗月の晦に、阿弖流為が小角の許に訪れた。
「こんなことをお前に訊ねるのは筋違いだと解っているのだが、他に手だてがない。聞いてくれ」
阿弖流為は言いにくそうに小角に訊ねた。
「道嶋宿禰嶋足と言う官人を知っているか?」
小角は記憶の彼方へ追いやられてしまった宮の出来事を思い出そうと懸命に考えてみた。
恵美押勝の乱が起こった時、駅鈴を取り返した将の一人が確か功を誉でられてそのような姓を授けられた筈だ。
もう一人の将は阿倍の死後、腑抜けていた狼児を叱ってくれた、東漢直の血を引く将だった。
「前の姓が牡鹿連であれば、随分前に会った事があると思うが。大柄で、無口で、厳めしく、騎射が巧みで弩を自在に扱う強者だった。今はもう初老と言っても良いような年齢の男君だが?」
「その男だ」
やや苦々し気に阿弖流為が答えた。
「どんな男だ。つまり、官人としてお前の眼にどう映った?」
小角は記憶を手繰り寄せてみた。
葛城王の死後、奈良麻呂と恵美押勝が皇太子争いで対立した時にも、あの二人はどちらにも組さなかった。
あの二人の武官は信ずるに足る、阿倍の元から離すなと言ったのは、退官間際の葛城王と、奈良麻呂(橘奈良麻呂、葛城王の子)の変で獄に繋がれた賀茂角足だった。
「帝に忠実で公平な武官と思えた。策略や企みに与しない者だった。現に一度ならず反逆の誘いを退けた事があった。だが密告はしなかった」
「毛野国をどう思っていると思う?」
重ねて訊ねられて小角は返答に窮した。
「それはどういう事だ?」
「その男は一昨年、多賀城と牡鹿柵を視察した」
阿弖流為が眉間に皺を寄せながら話し出した。
大墓の本貫地の南、志波に居を構えていた宇漢迷の長、宇屈波宇は、胆力有り、革新を好む男であった。
嘗て宇屈波宇は朝廷の朝賀の儀に蝦夷の使節として参列し、己の眼で倭国を見、平和的な国交を望んだ。
多賀城が陸奥国の国府となった後、宇屈波宇は一族を引き連れて、自ら朝廷に降った。
だが、俘囚を奴碑の様に扱う令外官(地方官)は余りに多かった。
元々位階などを望んだ訳でもなく、桃生、伊治との戦の前線に駆り出される同胞の苦悩や、謂われない罪を問われて一族の者に加えられる迫害を見かねて、宇屈波宇は一昨年の夏、一族を率いて多賀城を無血で堂々と出て志波に還った。
去るとき城柵の衛士に「毛野の民への扱いを改めねば、必ず報いを受けよう。このような事が続けば多くの部族の反感が増すばかりぞ。毛野の民総てを敵に廻すつもりなら城柵など護りにならぬであろうぞ」と言い残した。
国府ではこれを重く見て、反乱の兆し有りと朝堂に言上した。
朝廷が詳細を報告させるために送り込んできたのが道嶋嶋足だった。
道嶋嶋足は牡鹿柵で生まれ育った事から陸奥国の大国造(中央での地方官の相談役)に任じられていたが毛野の民ではない。
城柵が置かれる度に朝廷は兵や農兵、罪人だけでなく、多くの公民を移住させて来た。
移民の中で生まれ育った、姓を持たない庶人の若者の武勇の才が多賀城の官人の眼に止まり、警護の舎人として都へ出た。
やがて重用され、中央の官人となり、戦で功を挙げたとは聞いていたが。
「どんな報告を持ち帰ったのか気になる。牡鹿で生まれ育っていても毛野の民では無い。どの様に物事を受け止め、考えるか推し量れない。伊治の里を落とし、城柵を築いたのはその男の弟なのだ」
阿弖流為の顔が険しくなった。
「宇屈波宇の処遇についてはその後、何の発令も無い。少しでも手がかりが欲しい」
「それで太政官符か」
一昨年(神護景雲四年、770年)の夏と言えば、阿倍が薨じた直後だ。
私は阿倍の殯宮に居て、何も耳に入っていなかった。
今いったい誰が帝位に着いているのかさえ知らない。
阿倍は無論、譲位によって道鏡を後継にと考えていたわけだが。
度重なる後継者争いで血の濃い王族は次々廃されてしまっている。
藤葛は今はどんな松に纏い着いているものか。
「道嶋嶋足がどんな言上をしたところで参議の顔ぶれ如何だろうな。朝議を藤原北家が舵取りをしているなら動かぬ方へ流れよう。式家が舵取りをしているならば」
宇合の不敵な顔が浮かんだ。
「式家は以前からこの地に野心が在る。式家が主流となっていれば戦も辞さないだろう」
「言上が歪められると言うことか」
「そうだ。己を利する所が誇張され、利さぬ所は削られる。私は道嶋嶋足について多くを知らないが、朝議の場がそう言う物だということは知っている。生憎言えるのはそれだけだ」
阿弖流為は腕組みをして考え込んだ。
「北家の参議は名を何と言う」
小角は物静かで慎重な永手の顔を思い浮かべた。
「私が知るのは左大臣の永手だが」
阿弖流為が無造作に「その官人は死んだそうだ」と答えた。
小角は愕然とした。
「なんと言った?」
阿弖流為は噛んで含めるように繰り返した。
「藤原永手は病で死んだそうだぞ」
病だと?。
その病には顔があるのでは無いのか?。
式家宿奈麻呂という顔が。
それにしても。
阿弖流為は太政官符にしろ、参議の動向にしろ、一体どんな手段で知るものか。
「宇漢迷の長は評定に来るのか?」
小角が訊ねると阿弖流為は苦い顔で答えた。
「ああ、来る。何を思ったかこの度の朝賀の儀に行くと主張しているのだ。言い出すと頑なな性でな。俺のような若造では意見なぞ聞く耳を持ってはくれぬ。何として説き伏せるか。頭の痛い事よ」
自分をそれ以上巻き込まぬ心遣いだろう、評定の場で何が語られたのかについては阿弖流為は小角に明かさなかった。
真鉄を吹き終えた鑪場は高殿の一部の解体が始まり、鍛冶が営まれ始めた。
城の内に居たくない小角も高丸に解体の手伝いを申し出た。
高丸は作業具が納められている丸木倉を教えてくれたので小角は鎚を取りに駆けていった。
人気の無い倉で鎚を探していると戸が軋む音がした。
小角が顔を挙げると、開き戸が閉じられる所だった。
閉じ込めるつもりなのか。
遣りきれない思いを押さえ込んで戸に耳を当ててみると、閂の横木を嵌める音と若い娘の忍び笑いが聞こえた。
情けないような、腹立たしいような、行き場の無い気持ちを小角はどうにも出来ずに暫く立ち尽くした。
倉の中は暗くて寒い。
閉じ込められれば心細くなるとでも思ったのだろうか。
蝮で脅したり、雪室を壊したり、あの娘達はそんな意趣返しで暫くでも気が晴れるのだろうか。
春になれば私は去ると解っているだろうに。
小角は意を集中させて意話で高丸に呼び掛けた。
人目につかないように倉に来てくれと頼むと、やがて閂が抜かれる音がして高丸が入って来た。
「何があった」と訊ねられて小角は肩を竦めて「私が中に居るとは気づかなかったのだろう。」と切り口上に答えた。
高丸に口止めするのは無理だろうと小角はそれ以上何も言わなかった。
高丸は悪路王に見たままを伝えた。
城での娘達の小角に対する態度が冷たいものであることは玻璃も気づいていた。
その責めは吾が負うべき物であるはずだ。
小角には何の咎も無いどころか、浚われてきて犯されたのだから吾が一方的に悪いのだ。
跡継ぎを産めない小角が恋しくて引き留めているのは吾だ。
小角を憚って他の娘を床に呼ばず、それでいて小角にお前が恋しいから留まってくれとは言えないのだ。
そのことを表立って言葉にすれば小角は、毛野の長老達から国を追われてしまうだろう。
先の評定の後、長達は再び継子について念を押してきた。
あの夜、添い臥しの娘を見て逃げ出した小角だ、他の娘達との伴寝を前提にして尚、吾の許に留まりはすまい。
今のお互いが如何に道理に合わないかを小角自身も良く解っているのだ。
何事か言葉に出したら、今の危うい幸いは去ってしまう。
だから何も言い出せず、見なければならない現実から眼を背けているのだ。
なんと吾は弱く狡く穢いのだろうか。
それまで小角が実際にどんな嫌がらせを受けているか知っていたのは司馬女とその報告を受けていた阿弖流為と母禮だけだった。
小角は阿弖流為達にも、春になって私が去れば終わることだから悪路王には何も言うな、と釘を刺していた。
霜月が極月に替わり、陽の最も短い日に御室で行われる祭祀の為に玻璃は城を留守にした。
高丸が留守居として司馬女と共に終日小角の傍に居てくれた。
御室だけでなく里でもこの日は祭祀が行われるらしく城の娘達も、鍛冶場に来ている里人達も各々の集落へ帰っていた。
城はしんと静かだった。
赤頭もどこからともなく現れ、小角にとっては大層穏やかな日となった。
祭祀が過ぎると大晦となり、明けて年が改まった。
小角は陽のある間を厩と鍛冶場で過ごした。
長い冬の夜、小角の元に訪れる玻璃は益々優しかった。
如月の晦に小角は前鬼と後鬼の霊気が弱くなっていることに気づいて顔色を失った。
玻璃に診て貰い、差し迫っての手立てとして、玻璃の結界を緩めると同時に小角が一言主の力を送り込んだ。
前鬼と後鬼の霊気は回復したが、玻璃は早々に葛城に連れ帰った方が良いかも知れないと言った。
共に術を使う度に、玻璃は小角を、小角は玻璃を、国つ神の守り手として互いに理解しあえる唯一の存在なのだと強く感じてきた。
だが同時に各々の守るべき地の国つ神の理の違いも感じてきた。
このまま共に在りたいとは到底言葉には出来なかった。
卯月に入り、小角は白銀城の近くの沢の日溜まりでツチザクラ(雪割草)が咲いているのを見付けた。
雪融けなのだ。
此処を出ていかなければならない。
沢の畔で花を見詰めていたら誰かが後ろから近付いて来る気配を感じ、立ち上がった時、後ろから突き飛ばされて氷の溶けかけた沢へと落とされた。
振り向いて、突き飛ばした者の姿を見定めるような真似は矜持が許さなかった。
身を切るように冷たい水に両手と膝をついたまま、感傷に浸っていた私が迂闊だった、と小角は思った。
心を決めなくては。
「玻璃、雪が溶けはじめたから私は出ていく。今まで世話になった。三日あれば皆に挨拶に廻れるだろう。もう寒くないから共寝も要らない。独りで大丈夫だ」
卯月の晦に思い切って玻璃に告げると、玻璃は一瞬眼を見張って「分かった」とだけ言った。
自分を見た玻璃の眼が哀しみに満ちていた。
今泣いてはいけないと小角は必死で自分に言い聞かせ、背中を向けて玻璃の部屋から駆け出した。
玻璃は追ってこなかった。
出発前日、玻璃は高丸と赤頭と共に小角の部屋を訪れた。
赤頭は小角の肩に駆け上って頬を擦り寄せて来た。
赤頭の背を撫でる小角を見ながら玻璃が口を切った。
「長達にはお前の出発を吾から伝えておいた。それと、お前は吉野という地を知っているか?高丸が吉野の事で話したい事があるそうだが」
「ああ、知っている」
小角が目を向けると、遠い昔、顎田の地に来た倭人から伝わった話だが、と前置きして高丸が言った。
「吉野の山には古き力在る国つ神がおわしまして、その国つ神を守る土蜘蛛の一族が住んでいると聞いている。知らぬか?」
小角は意表を衝かれた。
「畿内で他の土蜘蛛に出会った事はないが、吉野は山深い。私が知らないだけということもあろう」
部の民がいると言うことか。
吉野と言えば国栖人の事だろうか。
だが国栖人に役公が居るとは聞いたことがない。
「その地は土蜘蛛の祖の地だそうだ。御室の土蜘蛛は滅びる事を厭わないが、お前が土蜘蛛の衰退の理を知りたいのであればその地でなら何か解るかもしれぬ」
玻璃は考え込む表情の小角を見ながら努めて平静な声で問うた。
「小角、また訪れてくれるか」
それでも声が極微かに震えていた。
小角は金色の眼差しを受け止めて無理に口角を吊り上げてみた。
「ああ、いつかまた来よう」
嘘だ。
きっと私はもう二度と此処へは来ない。
いや、来る勇気を持てないだろう。
阿弖流為と母禮は玻璃に何度もそれでよいのかと念を押した。
玻璃は「仕方あるまい」と答えた。
二人は同じ問を小角にもして、同じ答えを聞いていた。
阿弖流為も母禮もそれ以上何も言えなかった。
よく晴れた早朝だった。
小角はこの地に連れて来られた日と同じ出で立ちで、筒袖の上衣の懐に前鬼と後鬼が眠る呪具を納めて馬上に居た。
玻璃は小角のために馬を用意してくれた。
冬中小角が世話をして、すっかり懐いた黒鹿毛の大人しい若い雌馬だった。
毛野一族にとって大切な財産である馬をくれるということがどういうことか、小角にも分かった。
阿弖流為は交易に使われているという手形を馬銜に結わえてくれた。
「この手形はお前が大墓公の庇護を受けていることを現すものだ。お前の安全を下野、上野までは確実に保証する。だが下総を出たら必ず外せ。東海道でも東山道でも下総より西では逆にお前の為にならないだろう」
小角は重く頷いた。
この手形は私への信頼の証しなのだ。
恐らく阿弖流為は、この手形に基づいて商人や令外官やその下部達の間に独自の情報網を築いているのだ。
母禮は掌に載るほどの、大きさに比してずしりと重い革の小袋をくれた。
「砂金だ。路銀にしろ。銅や銀よりも値は低くとも珍しがられるからな。他人には見られぬように小分けして使うのだぞ。野宿などするなよ」
司馬女は小さな軽い包みを渡してくれた。
中身は熊胆だった。
「お身体を労うてくださいね」
皆に礼を言って、司馬女の涙を拭って遣り、阿弖流為と母禮に何度も手を振って小角は白銀城を後にした。
玻璃は見送りには来なかった。
小角は、窓のない部屋で玻璃は今何をしているだろうと考えた。
私のことを考えているだろうか。
司馬女と阿弖流為と母禮の姿が見えなくなって、白銀城の屋根飾りが遠くに光るだけになって、真鏡山の姿の全体が見え始めた頃、北上川の畔に出た。
玻璃が廻らせている白銀城の結界から出たことがその身に感じられた。
川に沿って林の中の仙道を南へと向かった。
やがて、林が途切れる先に、整備された道が見えてきた。
遥か南、国府のある多賀城へ向かう軍路だ。
やっと、小角はもう泣いても良いだろうと思った。
人気の無い路で馬の背に揺られながら小角は涙を零し初めた。
一度零れ始めた涙は止まらなかった。
玻璃はこの毛野の地で、白銀城のあの部屋で、生きて行くのだ。
でも私は葛城で、畿内で生きて行かなくてはいけないのだ。
美しくて哀しい玻璃の横顔を、白い繊細な手を、低い優しい声を想いながら小角は泣き続けた。