第壱部 悪路王 八 雪
七魚は暫く城で養生した。
命はとりとめたが、意識を取り戻した時、その眼は物を視る力を失っていた。
玻璃が様々に手を尽くし、明暗の程は判別が付くようになったが、それ以上の回復の兆しは顕れなかった。
「七魚はまだ幼い、此から成長に伴って回復する事に望みを掛けよう」と玻璃は言った。
小角は七魚の傍に付ききりになり彼是と世話を焼いた。
阿弖流為に「猿梨はもう無いだろうか」と訊ねると、短く「探してみよう」と答え、その足で山野を探し回ったらしく、陽が沈む頃、蔓に残されていた滋養の豊かな香り高い甘酸っぱい実をかき集めて来てくれた。
城の娘達が聞こえよがしに何かを噂する声は無論耳に入ったが小角は聞こえぬ風を装った。
こんなことは宮では日常茶飯事だった。
司馬女が困らないのであれば、言いたい者には好きなように言わせておけば良い。
赤頭は頻繁に小角と七魚の元に現れた。
七魚は辺りの物が見えなくても、赤頭と玻璃、小角、そして高丸を始めとする土蜘蛛達は判別が付くらしかった。
殊に赤頭の小さな姿形と手触りを糸惜しがって喜んだ。
身体を起こせるようになると小角は日中、高丸に頼んで七魚を城の外に連れ出した。
少しでも身体を動かさせて、陽射しを浴びさせないと佝僂病や床擦れ等を併発する。
弱った童子の身体はすぐに他の病に喰い荒らされてしまう。
阿弖流為は妛や、山葡萄、焼いた栗や大姥百合の団子などを持って足繁く城に訪ねて来た。
七魚の容態を気にかけていたが「俺の顔は見ぬ方が良かろう」と言って会おうとはしなかった。
瞬く間に長月の半ばとなった。
遅い野分が強い雨風を持来たらし通り過ぎた翌日、母禮がやって来て、七魚の手すさびになりそうな木彫りの玩具を置いていった。
「大した風だったが大事無かったか?。昨日石盾が造ったのでな。中々良い出来だろう」
どこか自慢げな母禮の顔を可笑しげに見ながら、小角はふと思い出して聞いてみた。
石盾が滝壺に落ちた日、滝壺の底に見た光るものは砂金だろう。
滝壺の底は拐ってみないのか。
母禮はすぐに答えた。
大地の恵みは与えられるものであって無理に採るものではない。
滝壺の底の砂金は河の物だ。
「それにな、昨日の野分等の様に大水が出れば下流に住む者への恵みともなる」
母禮はやや皮肉そうに笑って続けた。
盤具の民が集めた砂金を購うのは、渤海国の商人よりも、俘囚の大領達なのだ。
陸奥国の調が足りずに困る国府の官人の為に俘囚の大領が密かに買い付けているのだ。
「陸奥国の倭人のやり方では幾らも砂金は採れまいからな。俘囚が調を免じられているから公民では無いと倭人は蔑んで、調が調達できぬと俘囚を過酷な役に就かせる事もあるそうだ」
母禮は声を潜めて続けた。
「俘囚となっても毛野の民であることに変わりは無いと俺は思う。苦しんでいるとは聞きたくない。大領達も辛い所であろうよ」
空が高く、蒼は深くなり、木々は黄や紅の衣を纏い始めた。
司馬女が、もう麻の筒袖では寒うございましょうと真綿の入った衣や、毛野の民の冬の上着、革の沓などを用意してくれた。
長月の終わりには栗駒山の頂が白く雪を冠った。
訪れた阿弖流為が珍しく悪路王と共に聞いて欲しい事があると言うので連れだって玻璃の部屋へ赴いた。
「七魚の事だが」
長達の同意を得て御室で暮らすことになったと阿弖流為は言った。
眼の不自由さは生活の中では工夫と馴れで補える。
御室では眼の不自由さは巫としての才が宿る兆しとして尊ばれるので、七魚にとっては生まれ育ったこの地に居るより遥かに安定した暮らしを望めるだろう。
七魚は歩けるまでに回復していた。
山々が紅葉に燃える中、長月の晦の評定が明け、御室へ帰る長と共に、七魚は高丸に抱かれて御室へと去った。
阿弖流為の言葉を思い出して小角は七魚が居なくなった後の己の心の虚から眼を逸らした。
その方が七魚の為になるのだ。
伊治の残党は七魚について詮索してこなかった。
桃生の生き残りも比羅保許山の砦に受け入れているらしいが、大して蓄えなど有るまいにこの冬をどう越すのだろうと小角は思った。
阿弖流為は今回の評定でも結局、新年の朝賀の儀にどの部族から使者を立てるか定まらなかったと仏頂面だった。
毎年新年に宮で行われる朝賀の儀に蝦夷からも使者が来て献上物が納められていた事を小角は思い出した。
「朝賀の儀に参列するのは出羽辺りの朝廷寄りの民かと思っていたが。そうでもないのか?」
阿弖流為は我が意を得たりと言いたげに笑った。
「ああ大抵は出羽の者達に押し付けるのよ。今回もそうしたいのだが、厄介事があってな。この一年に出された太政官符をもう一度詮議せねばならぬ」
小角は眼を丸くした。
「太政官符?。阿弖流為がか?」
阿弖流為は少なからず不愉快そうに答えた。
「何が可笑しい。俺でも字ぐらい読めるぞ。我らは文字を持たないが、渤海国も唐も商人達は書を送ってくるからな」
阿弖流為のむきになった顔が可笑しく、小角は吹き出した。
「そうでは無い、そうでは無いが、な」
可笑しさを釈明しようとすればするほど笑いが込み上げてきて、切れ切れに「阿弖流為が鹿爪らしく太政官符を読んでいる姿を思うと笑いが止まらない」とようやっと言い終わると小角は腹を抱えて笑い始めた。
大墓の里では、秋から冬の間は収穫が済むと、畑と養蚕に代わって、馬の世話と機織りが里の女達の仕事だった。
男達は炭を焼きに山へ入っていた。
城の中でも娘達が機織りに精を出しているが、近寄らせて貰えない小角は専ら城の厩に足を運んだ。
馬達の間に居ると落ち着いた気持ちになれた。
白銀城では真鉄を吹く為に、新たに炉床と鉄池が掘られ、釜が建てられていた。
大地に直接炉床を置くことで一代(一行程)で大量の真鉄が吹けるのだそうだ。
やがて、古い鑪場の高殿を解体して新しい高殿が組まれ始めた。
春から秋まで北上川で拾い集めた餅鉄(磁鉄鉱)から鉄を製鋼する為に一冬に一代行われるのだと玻璃は教えてくれた。
周辺の森林から豊富に調達できる良質な木材で高殿を組み、熱源と炭化の為に大量に必要となる炭を得て、鑪と呼ばれる踏み鞴を使い高温の炉の中で母鉄塊となる鉧を凝らせるのだ。
鋳物に使う銑鉄(ズク)を得る事が主目的だが鉧の中に生まれる玉鋼は毛野の男達が佩く蕨手刀に鍛えられる。
炉に火が入れば三昼夜に渡って、危険な重労働が続くが、まだまだ先の事だ。
土蜘蛛達の力が頼りとされている事が窺えた。
御室から帰った高丸も高殿組を手伝っていた。
嘗ての高志の様に、土蜘蛛の力あればこそ毛野の民の真鉄吹きは成り立っているのだろう。
神嘗月に入り、木々が錦の衣をふるい落して脱ぎ去ると足早に冬が訪れた。
日に日に寒さが厳しくなり、玻璃から夜に添い伏しを行かせようかと問われたが、その習慣に馴染めない小角は断った。
玻璃は御帳台に良く似た天蓋と錦織の緞子が張り巡らされた床と、軽くて暖かい羽毛の衾を用意させてくれた。
炭櫃に炭が満たされ、火桶には赤々と熾きた炭が入れられた。
毎夜、湯殿が支度され、大竈に火がある間は城は暖かだった。
司馬女は小角の為に毎晩寝る前に火熨斗で床を暖めてくれた。
赤頭は七魚が御室へ去った後、暫く姿を見せなかったが、ある日、純白の冬毛に変わった姿で現れた。
小角は驚いたが、相変わらず忙しない仕草で動き回る白い躰の赤頭は愛らしかった。
雪原で目立たぬよう、地霊である赤頭でなくとも飯綱は皆、冬には白い姿になるのだろうが、母刀自は躰の大きな美しい白狼だった。
自然界に稀な色素欠落の生き物は古くから瑞兆とされてきた。
凶兆である赤気(緯度の低い地で観測されるオーロラ)と共に生を受けた己とは正反対だと小角はやや自嘲的に思った。
何時になく冷え込んだその夜、馴れない寒さで寝付けない小角は、話し相手をしてもらおうと玻璃の元へ行った。
大竈は火を落としたらしく、城の内は深閑と静まり返り、冷気が満ちていた。
これ迄も幾度か夜が更けてから玻璃の部屋を訪った事のある小角は、深い考えもなく蔀戸を大きくしたような木の引き戸の此方から
「私だ。入っても良いか。」と声をかけながら戸に手を掛けた。
衣擦れの音がした後、玻璃の声が「小角か。どうしたのだ」と答え、小角が引き戸を開けたとき、くぐもった声が控え目に抗議の言葉らしき物を言っているのが聞こえた。
若い娘の声だ。
玻璃が緞子を半ば引いた御帳台の衾の中で片手をついて半身を起こしていた。
衾に置かれた玻璃の手に自分の手を重ねるようにして館の娘の一人が同禽していた。
二人とも夜着で娘の袖が少し捲れて肉付きの良い二の腕が目に白かった。
小角の眼が見開かれ、のぼせたような顔になった。
慌てて背中を向け「済まない。大したことでは無いのだ。明日にする」とやっと言って引き戸を閉めて駆け出した。
自分の部屋へ戻る途中、銀色の海獣の長衣を着た玻璃が追ってきた。
「小角!待て」
玻璃の潜めた声が城の内の静けさに吸い込まれて行った。
尚も振り向かずに部屋へ入ろうとすると玻璃に手を捕られた。
「待てと言うのに。お前、何か思い違いをしただろう。あの娘はただの添い伏しだ」
声に微かに焦りがあった。
手首を掴んでいる手の力が動揺を物語るように思われた。
「吾に用が有ったのでは無いのか?」
肩を掴まれて振り向かされ、困ったような顔で問われて、小角はなんと答えたら良いのかわからなくなって俯いた。
「何でもないのだ。眠れないので、話し相手が欲しかった。其だけだ。邪魔をしてすまない。もう寝る。部屋へ戻ってくれ」
掴まれている肩や膝が震えているのはきっと寒さのせいだ。
玻璃が誰と床を共にしても私が気にする所以など何処にも無いではないか。
そして私がどう思っているかなど玻璃が案じる事は無いのだ。
「震えているではないか」
「もう寝るから、離してくれ」
突然小角は暖かな外套に包まれた。
玻璃の懐に抱き締められているのだと気付くのに暫くかかった。
「今夜遅くには里にも雪が降り始めるだろう。雪は積もってしまえば暖かいが、降り始めるまでが寒いのだ。物音が吸い込まれるように消えていくだろう?。こういう夜に雪は降り積もるのだ」
玻璃の低く耳に柔らかな声が降ってきた。
小角は何が起こっているのか理解できなかった。
玻璃の頬が自分の額に当てられた。
「こんなに冷えていては眠れぬだろうよ。吾もあの娘は帰してしまった。共寝してくれるか?」
「私とか?」
何を言っているのだ、玻璃は。
小角の間の抜けた答えに、玻璃は言い澱んで口許に手をやり、横を向いた。
「ああ、その、添い伏しだけでは済まなくなる、と、思うのだが。それでも良ければ、だが」
探るように顔を覗き込まれた。
「私とか?」
小角が呆けたように同じ事を問い返すと、何時も冷静な金色の眼差しが脅えるように怯んだ。
「嫌か?。嫌ならそう言ってくれて構わないぞ」
「私は、子を生せないぞ」
思わぬ小角の答えに玻璃は一瞬面喰らった顔になった。
慌てて言葉を紡ごうとしたがどうにも巧い言葉を見つけることが出来ないらしかった。
「そうではなくて、だな。吾が嫌いか?。厭わしくないか?」
小角は首を横に振った。
何と答えたら自分の気持ちが伝わるのかが分からなかった。
「良かった。お前に嫌がられるかと思っていたのでな。ずっと言い出せなかった」
思い出し笑いを浮かべた玻璃が揶揄する様に言った。
「また部屋の隅まで蹴り跳ばされては叶わぬからな」
「あれは、あの時は‥つまりその、済まなかった。それが理由か」
玻璃は赤くなっている小角の顔を覗き込んだ。
「いや、お前にまた厭わしがられてここを出て行かれるのが恐ろしかった」
玻璃が小角の肩を抱いて促し、部屋へ入り、御帳台の中に膝をついた。
お互いの神気が緩やかに渦巻いて混ざり合っていくのが解る。
二人で床に座ると白い細い指が器用に動いて小角の髪結いが解かれた。
小角の解き髪姿を初めて見た玻璃が言った。
「術が解けて男童子が娘になったかのようだな」
玻璃の薄い唇に微かな笑が浮かんだ。
どう答えたらいいのかわからないらしく頬を染めて俯いている小角が愛らしく、糸惜しいと思った。
あんな出会い方でなければ、言葉に出来たのだろうか。
否、自分が悪路王で有る限り、それは無理だ。
小角の頬に触れて、口付けると小角の微かな戦慄を感じた。
「吾は狡いのだ。雪が降ればお前は出発出来ない。そうすれば冬中お前と居られると思った」
小角が身を固くしている事に気付いた玻璃が案じ顔で覗き込んだ。
「恐ろしいか?」
小角は困った様な顔で答えた。
「どうしたら良いのかわからない」
玻璃が短く笑った。
「ああ。では眼を瞑ってくれ」
小角は二人で蛍を見に行った夏の夜を思い出した。
共に寝る床は暖かかった。
玻璃は小角が痛みに顔を歪めると必ず労りの言葉をかけてくれた。
無理強いはしなかった。
此れが本来の玻璃の閨での振る舞いなのだ。
そう思うとあのときはさぞかし内心忸怩たる思いだったのだろうと小角は感じた。
丁寧で優しい愛撫と思い遣りある睦言を呉れたが、一度も言葉では小角を糸惜しいとは告げなかった。
それでも小角には玻璃がどう思ってくれているのか良く解った。
玻璃の躰が近付くと何時も互いの神気が混ざり合う感覚が心地良いが、躰を重ねるとその交感が深く強くなる。
小角は狼児が阿倍の想いを知った時「今なら何でも出来そうな気がする。天にも昇れそうだ」と言った気持ちが初めて解ったような気がした。
「倭人はそうするのだろう」と玻璃は毎夜、小角の元に来て夜明け前に帰っていくようになった。
予測してはいたが、娘達の態度は益々冷たくなった。
陰口は以前からだが、背後から突然雪礫が飛んでくるのは少々厄介だった。
避けると床を濡らし、司馬女に気づかれるので初めの内は飛んでくる雪礫を振り向き様に掴んでいたが、次第に痴がましく(馬鹿馬鹿しく)なった。
便無いことだが日中なるべく城に居ないことを心がける事にした。
早朝から厩で馬の世話をしていると久し振りに阿弖流為と母禮が現れた。
彼是と馬の話が弾み、冬の間馬を肥らせない工夫について、阿弖流為が事細かに説明し終わった後、母禮が「小角は冬になって肥ったな」と無造作に言った。
慌てて自分の躰を見下ろした小角は、そう言えば近頃、衣の胸や腰の辺りが窮屈に感じることがあったと思い出した。
「そう思うか?」
「ああ、此処に来たばかりの頃よりな」
確かに最近、瞑想や気功は行っていても、荒行を行っていないので躰が鈍っているかも知れない。
考え込んだ小角の頭を阿弖流為の大きく分厚い手がとんとんと叩いた。
「気にすることは無いぞ。母禮はつまりお前が娘らしく為ったと言いたいのだ」
その眼が笑っていた。
母禮は我が意を得たりと手を打った。
「おおそうだ。そう言いたかったのだ」
阿弖流為が髭面に柔らかな笑みを浮かべていた。
阿弖流為の言わんとしていることが小角にも判ると同時に顔が熱くなって、思わず仏頂面になった。
そんな小角に気づかぬ風に阿弖流為は言葉を続けた。
「どうだ小角。此処にずっと居れば良いではないか」
「それは」
口ごもった小角の暗い表情に阿弖流為は何か理由が有るのだと気付いた。
「前鬼と後鬼をあのままにはしておけないからな」
小角は館の娘達に受けている嫌がらせを誰にも話していけないと司馬女に言い含めてあった。
だが阿弖流為は気付いているのだろう。
その日、高殿は組み上がり、鞴の用意も出来た。
炉も釜も出来上がり、数日の内に火が入れられるようだった。
阿弖流為と母禮が鑪場で働く親たちについて城内に居る童子達と小角の為に城柵内に雪室を作っていってくれた。
日中は様々に童子達と雪室で談笑して、陽が沈んで童子達は親達と里へ帰って行った。
夕餉の後、湯殿で火照った躰で小角は城を出て雪室に一人で膝を抱えて座した。
玻璃は私が部屋に居なかったら訝しむだろうか。
陽が沈んでも雪明かりで辺りはほの明るかった。
静寂の中、雪を踏む足音と共に玻璃の神気が近づいてくるのが解った。
「どうした、司馬女が探していたぞ」
低く優しい玻璃の声がして、雪室に玻璃が入ってきた。
懐に引き寄せられながら小角は、此処なら誰の目も気にしなくて済むという言葉を呑み込んだ。
「何でもない。阿弖流為と母禮がせっかく造ってくれたのだからもう少し居たかった」
玻璃は小角の頭を撫でながら黙していたがやがて言った。
「この季節には日中でも雪室が溶けたりしないぞ」
「ああ、でももう少しこうしていたい」
小角が呟くと玻璃は短く「ではそうしよう」と答えて銀色の海獣の長衣を脱いでお互いの躰に掛けた。
物音が全て吸い込まれていくような静けさの中で、深更まで二人はそうして寄り添っていた。
小角が寝入った頃、高丸が来て小角を部屋まで連れて帰ってくれた。
寝惚けた小角は、高丸を前鬼と呼んで歩けるから降ろせと寝言を言ったが、高丸はただ「眠っていろ。床まで連れていってやる」とだけ答えた。
翌朝、雪室は誰かの手で跡形もなく壊されてしまっていた。