第壱部 悪路王 六 七魚
間もなく葉月が終わろうという頃、数日振りに大墓の里を訪れた小角は、これまでと違う張りつめた空気に驚いた。
集落の周囲の土嚢が高くされ、入り口には物見が立ち、狗が繋がれていた。
数日前まで秋の収穫の支度がされていた作業場では、今は多くの鏃が研がれ、矢柄が削られていた。
萱で葺かれている家々の壁の周囲には竹を結わえた大型の矢避けが置かれ、大甕に水が溜められていた。
戦端が開かれれば、望むと望まざるとに関わらずこの里が巻き込まれる可能性は高い。
備えをしておくに越したことはないのだが急に此だけ防備を固めたには何か有ったのだろう。
手伝える事があるかと小角は阿弖流為を捜してみたが、作業場にも厩にも姿が見付けられなかった。
阿弖流為の家の入り口の柱を叩くと妻の弓弦葉が転ぶように出てきた。
立っているのが小角だと気づいて、いつも快活で生き生きとしたその顔には落胆、安堵、不安、焦燥といったものがない交ぜになった。
反射的に小角は「何があった?」と訊ねたが、弓弦葉は貝の様に口を閉ざしていた。
何かあったのは阿弖流為の身になのか。
小角は「また来る」とだけ言って立ち去ろうとした。
向けた背に弓弦葉の「小角は関わってはいけない」と震える声が掛かった。
小角は振り向いて「わかっている。私の事で弓弦葉が気に病むな」と笑って見せた。
今、自分は悪路王の客人である以上、勝手な行動は出来ない。
胸に押し寄せる歯がゆさと疎外感から眼を背けて、城へ戻りかけた小角は童子達と行き会った。
童子達は馬の為の青草を刈りに行くと言うので小角も共に行くことにした。
何時も見かける六歳程の女童子の一人が居ないことに小角は気付いた。
童子達にその女童子の事を訊ねると皆一様に口が重くなった。
「病にかかったそうだ。寝かされているらしい。移るといけないからと若長に言われて様子も見に行けない」
仲の良い年長の女童子がつまらなさそうに答えた。
草原にはもう秋の花々が咲き乱れていた。
童子の一人が、また蜂蜜を採ることは出来ないのかと訊ねてきた。
余程蜂蜜が気に入ったのだろう、小角は笑いながら答えた。
「今は駄目だな。巣分かれの季節では無いし、何よりも」
小角は言葉を切って傍らの童子が青紫色の花を摘もうとしている手を停めた。
「そら、気を付けろ。その花は触ってはいけない。この花が咲いている間の蜜は危ないのだ。この花が何と呼ばれているか知っているか?」
その美しい花は草原のあちこちにたわわな花房を揺らしていた。
「鏃草だ。毒があるのだろう。お父が教えてくれた。お父達は根から矢に塗る毒を作るぞ」
やや年長の男童子が代わって答えた。
「そうだ。私達は鳥頭(トリカブト)と呼ぶが、この草は根だけでなく葉も茎も花にも毒が有る。蜜もそうだ。だから夏が過ぎたら蜜は採れない」
残念そうな童子達に秋になったら妛を探しに行こう等と言い含め、刈った草を束にして里へ帰る頃には短くなった陽が傾きかけていた。
童子達と別れ、白銀城へ戻りかけた小角の目の前に突然、見覚えの有る小さな赤茶色の生き物が飛び出してきた。
「赤頭か?」
小角が問い掛けると赤頭は小角の周りをくるくると駆け回り、今来た道を里へ向かって逆に駆け出した。
就いてこいと言うのか。
小角は一時逡巡したが、心を定めた。
辺りに気を配りながら赤頭の後に付いていくと、衣川沿いからブナ林の中へと分け入って行った。
垂れている蔓草を掻き分けながら赤頭の後を着いていくと、少し前に誰かが通った痕跡に気づいた。
わずかな痕だから余程目の良い者でなければ気付かないだろうが、所々下草が踏まれ、枝が折れている。
やがて、湧き水の滴る岩場の横に、下生えに呑まれそうになっている小さな廃屋にたどり着いた。
毛野の民の造る、木の柱に萱で屋根や壁を葺いた家では無く、崩れ掛けてはいるが板葺きの屋根と土壁のその家は、畿内の貧しい民家を思わせる造りだった。
赤頭は小角を振り返り振り返りしながらそこまでたどり着くと、壊れかけた遣り戸の隙間から中へ姿を消した。
小角は慎重に近づいた。
誰かが居る事は間違いない。
気配がする。
微かな血の臭いからして傷ついていると予想がついた。
遣り戸の外から「誰か居るのか?」と声を掛けると低く呻くような声がした。
「赤頭、よりによって小角を連れてくるとは、お前は何を考えているのだ」
阿弖流為の声だ。
急いで廃屋の中へ滑り込むと、明かり取りの窓から入る夕方の弱い陽を避けるように、暗い片隅に大きな人影が壁に凭れて力無く座り込んでいた。
その傍らには筵を敷いた上に童子が横たわっていた。
童子の胸が大きく上下していた。
阿弖流為と童子の間の暗がりに座っている赤頭の眼が明かり取りの窓から差し込む残照を受けて緑色に底光りした。
「阿弖流為なのだろう?」
声を掛けて一歩踏み出した小角に、阿弖流為は「ああ。」と答えた。
「赤頭奴、何もお前を連れてこずとも良さそうなものを」
恨めしげに言った声に苦しげな息づかいが感じ取れた。
傷ついているのは童子では無いのか。
「阿弖流為、怪我をしているのはお前なのか?」
小角が近寄ると阿弖流為が鋭く「待て」と制した。
「俺の怪我など大した物では無い。それよりも七魚の病が何か判らぬ。妄りに近づくな。移るかもしれぬ」
「構うものか」
一言答えると小角は唇を引き結んで阿弖流為の傍らにひざまづいた。
阿弖流為は左肩と脇腹、腿に矢傷を受けていたが既に止血も済んでいた。
「比羅保許山へ行ったのか」
傷を改めながら小角が問いかけた。
「ああ、やむを得なかった。七魚が病の床から拐われのだ。あのまま比羅保許山に置いていては悪路王に診てもらうこともできない」
阿弖流為は顔を歪めながら身体を起こした。
「砦から無事連れ出したまでは良かったが、戻る途中で気配を察した物見に矢を射掛けられてな。熊か猪とでも思われたのだろう、藪に目眩射ちしてきた矢がかすったのだ」
笑って見せたが、童子が呻いたので案じ顔でそちらに眼を向けた。
小角は童子の上に屈んで薄明かりにその表情を見て愕然とした。
童子は汗で濡れそぼった衣の胸の辺りを小さな両の拳で握りしめていた。
唇は歯を剥き出すように捲り挙げられて、歯を固く喰い縛っている。
この相貌になる病は一つだけだ。
穢れ病(破傷風)か。
阿弖流為が低く言った。
「無闇に近寄るな、物音でも苦しみが増すようなのだ。」
小角の眉が潜められた。
「この病は人から人へは移らない。それより、いつから口が開けられなくなった?」
「預かって育ててくれていた者の話では一昨日からだそうだ。だが、なぜお前がそれを知る?」
「今夜が三夜目か」
小角の声に焦燥が滲んだ。
「昨日の夜明け前に浚われたのを先程連れ戻して来たので俺には様子がよくわからない。小角、何の病か判るのか?」
赤頭が戸口に向かって駆け、立ち止まって振り向いた。
「この病は小さな傷口から病の鬼神が入って起こる。発病してから三夜目までに急激に病が進むと最も危険だ。命に関わる」
小角は激しい無力感に苛まれながら答えた。
「助けることは難しい」
一言主の力は和魂も荒魂も理の力であって病を癒す物では無い。
この病には薬草も効験が無い。
早い段階であれば孔雀明王呪で病の鬼神を屠る事が出来たかも知れないが、神経を食い荒らされている今となっては。
葛城の里でもこの病は死病だった。
魂還しも行われなかった。
だが。
御白様の和魂の力は養い、育てるものだ。
「悪路王は?。悪路王なら何か手だてを知っているのではないか?」
「ああ、悪路王は病に明るい癒し手だが、どうすれば良い?。悪路王を呼びに行くにしても、人目を避けて来るには夜が更ける頃になるだろう。此処にこの童子が居ることを気取られるわけにはいかないのだ。赤頭が現れたので悪路王に伝えてもらおうと思ったのだが、赤頭はお前を連れてきた」
小角は必死で考えた。
この病は、病の基である鬼神が増える時に毒が出るのだ、なれば。
「阿弖流為、いつぞや私に使った眠り香とやらを持っているか?」
小角が訊ねると阿弖流為は意外そうな顔をした。
「ああ、比羅保許山(雄勝峠)の見張りを眠り香で眠らせたからな。此処にある。」
「眠り香で病の基である鬼神を鎮めれば少しは病の進むのを妨げられよう」
小角の案に阿弖流為は賛同した。
「そうか。やってみよう」
眠り香で七魚の顔はやや穏やかになった。
戸口の傍に居た赤頭が駆け戻ってきて三人の周りを回り、七魚の顔を覗き込んだ後、外へと駆け出した。
「赤頭は今度は悪路王の許へ行ったのだろう。阿弖流為も疲れているだろう。少し眠れ」
駆けて行く赤頭の長い尾が揺れているのを見送って小角は言ったが、阿弖流為は自嘲気味に笑った。
「眠るどころか何か話していないと叫びだしそうに気が落ち着かぬ。小心な事よ」
阿弖流為の表情を見て、小角は話題を変えようと言った。
「この眠り香も唐の物なのか?」
「ああ、何でも天竺に咲く朝貌(桔梗)と鬼見草と鏃草で造られているそうだ。渤海の商人は配合は秘伝だと抜かしていたが確かに大した効き目だ」
「なぜこの童子が浚われたのだ?」
阿弖流為は暫し小角の顔を見ていたがやがて口を開いた。
「この童子は名を七魚という。伊治の長だった呰麻呂の子だ。伊治の残党は七魚を質に大領となった呰麻呂の居る伊治城を攻めるつもりだったのだ」
飲み込めない顔の小角に阿弖流為は労わるような表情になった。
「お前は大墓の里と言いながら大墓の長が居ない事を妙だと思わなかったか?。この達谷窟のある真鏡山一帯はそもそも大墓の地では無い。伊治の民の地なのだ」
阿弖流為が皮肉そうに口許を歪めた。
「大墓の本貫地は盤具の里の更に北にある。俺は父からこの地と七魚を任されて此処に居るのだ」
伊治の地が蹂躙された時、長であった呰麻呂はこの真鏡山を守る最後の手段を用意周到に整えた。
悪路王と共に遠く閉伊から兵を率いて来た阿弖流為の父と約定を交わした。
栗駒山から北上川までの地を民には打ち明けず大墓公に割譲し、最も年若な女子の七魚と共に女子供を避難させ、阿弖流為の父に後事を託したのだ。
戦が激しくなり、民が疲弊してくると長である呰麻呂の統率力不足と誹謗する者も現れた。
それらを総て承知の上で、呰麻呂は独断で朝廷と和議を結んだ。
この地を倭朝廷の北限として、これ以上北上しないこと、民を捕虜ではなく俘囚として受け入れるすることを条件に、伊治の地を朝廷の領国として明け渡し、出羽柵までの駅路の整備に協力することを申し出たのだ。
俘囚には公民と較べて多くの優遇措置が図られていた。
夷荻よ俘囚よと侮られても、呰麻呂は達谷窟以北と自らの部族の命と暮らしを救う事を考えたのだろう。
「長達とてそれを知らぬ訳では無い。だが、今伊治の民に荷担する事は更に混迷を深めるだけだ。長達の決定は正しい」
阿弖流為の声は苦渋に満ちていた。
「今、比羅保許山の砦に居る伊治の者達は和議に反対して逃げた者たちだ。呰麻呂を恨み、時期を窺っている。あれ達の無念は察する。だが七魚を質にするなど話にならぬ。病と知っても砦の連中は七魚を見殺しにするか、そうでなければ焦って戦端を開くだけだろう。伊治城が攻められればまた都から軍が送られてこよう。俺は刻が欲しい。悪路王の為にも、一族ではなく、毛野の民の総意を確かめる刻が必要なのだ」
言葉を切った阿弖流為の眼が一瞬怒りに満たされた。
「何より七魚に何の咎があるのだ」
小角は黙って聞いていた。
阿弖流為は感情を吐き出してやや気が落ち着いた様だった。
「お前が下野で住まっていた庵とこの庵は似ているだろう?。ここにはその昔、倭人の僧侶が住んでいたそうだ。御室でも大墓の本貫地でも多くの逸話が遺されている。白銀城もその僧侶が建築方を指導してくれたのだそうだ。そのため伊治の里には長く留まったと聞く」
「僧侶?」
小角の脳裏に道昭の柔和な笑顔が蘇った。
「名は遺されているか?」
「いや、少なくとも俺は聞いたことが無いな。陽が沈んだようだな。俺は白銀城へ行こう。小角、七魚を看ていてやってくれるか?」
「城へは私が行こう。阿弖流為は此処で休んでいてくれ」
「駄目だ。お前が悪路王と連れだって城を出れば誰かの目につくだろう。それに城の中でお前が嫌な思いをするかも知れぬ」
小角はたじろいだ。
阿弖流為は城の娘達が嫌がらせをしていることを知っているのか。
「悪路王を連れて戻ってくるまで七魚の傍に居てやってくれ。七魚は熱を出して寝ていろと言われた日にお前と会えないと溢したそうだ」
小角は七魚を見遣って「わかった」と答えた。
暗闇の中、七魚の横に踞って、時折汗を拭いてやり、唇を濡らしてやりながら小角は阿弖流為と玻璃を待ち続けた。
刻はその歩みを止めてしまったかのように思えた。
耳に入る音は七魚の息遣いだけだった。
庵の隅の暗がりがやけに目に付いた。
暗がりが膨張して、こちらに向けてぞろりと押し寄せてくるように思われた。
戸口に生き物の気配がして、そちらを見ると赤頭が入ってきた。
続いて玻璃が入ってくるような気がしたが、そんな筈もなかった。
玻璃が来ればその神気は戸口の外に居ても感じ取れるだろう。
小さく溜め息をついた小角の傍へ赤頭が駆けてきた。
七魚が一息、浅く詰まったような息をした。
小角が七魚を振り向いたその時、七魚の顔が歪み、胸の辺りにあった拳が強く握りしめられた。
香の効験が切れてきたものか。
小角が向き直ると七魚は大きく背を逸らした。
背が弓なりに反り返り、腰が浮くほど硬直している。
喰い縛った歯の隙間からは声はおろか息も漏れてこない。
固く閉じられていた目が見開かれたが何も映してはいなかった。
始まった。
こうなると、もう呼吸さえも儘ならなくなるのだ。
そしてこれが終わりだ。
この童子は死んでしまう。
固く仰け反った小さな躰を抱き抱え、無駄と知りつつ、喰い縛った歯をこじ開けようと試みた。
何度も名を呼び掛けた。
小角は胸を掻き毟られるような焦燥に顔を歪めた。
阿弖流為は、玻璃は、間に合わない。
この童子は今まさに死なんとしているのだ。
七魚の躰を胸に抱きながら小角は敗北感に歯軋りした。
独りでは魂還しも出来ぬ役公の力など、生死の間にあっては何になると言うのだ。
小さく尖った何かが小角の膝に触れた。
赤頭の前肢だった。
視線を揚げると庵の片隅から溢れた暗がりは膨らみ、粘質の塊となって小角のすぐ傍まで来ていた。
だが、その方が却ってこの童子には幸いでは無いのか?。
この童子が今、質とならずに済んで生き延びたとしても、その生の先で待ち受けるものとどれほどの違いがあるというのか。
大した違いは在るまい。
朝廷はいずれ何かの理由を見つけて軍を送り出そう。
此処で命を落とさずとも、果たしてその先の戦を生き延びるものか、或いは更に苛酷な局面に立たされるやも知れぬ。
どちらが幸いか誰に判じる事ができようか。
誰の問いかけとも解らぬまま小角は声を張った。
「少なくとも私が判じる事では無い。私は今目の前で失われようとしている命を捨て置くことは出来ない」
小角の腕の中で、七魚が一際大きく身を逸らし、強張った。
魂離る。
目を見張った小角の腕の中で、七魚の現し身からそっくり同じ姿の童女が抜け出し、膨れ上がった暗がりへ向けて駆け去ろうとした。
小角は急いで追おうと意を凝らした。
赤頭が忙しなく小角の周りを駆け回り、袖をくわえて引いたが小角は顧みなかった。
これから行おうとしている事が葛城の戒律を破る事になると充分承知していた。
自分はこの術をこれまで行ったことはおろか、指導も受けなかった。
役公と熟練した介助者あって初めて可能になると聞かされてきた。
玄昉と共に宮子の意を取り戻したのとは訳が違う。
現に母は独りでこの術を行い、不帰の人となったのだ。
だが今、小角には漸くあの時の母の気持ちが理解できた。
母はあの時、そうしなければならないと感じたのだ。
暗がりへ向かって遠ざかる小さな背中を追って小角は駆け出した。
残された現し身が七魚の躰を抱いたまま座したその場に倒れた。
赤頭は小首を傾げ、繁々とその顔を覗き込んで、小さな前肢で小角の頬に触れてみた。
眼が開く事はなかった。
赤頭はその場で踞った。