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六月  作者: 賀茂史女
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第六部 伊冶 八 伊冶城

延暦十三年(794年)

三月上旬(新暦四月中旬)

陸奥国、嘗ての伊治郡(これはりのこおり)では、思いがけない好天続きで、伊治城改修と糠塚邑の開墾が順調に進んでいた。

牡鹿柵の大領、道嶋御盾(みちしまのみたて)はこの事業の監督の任で多忙ではあったが、日に一度の検分の前には必ず獄舎を訪れて、石盾(いわだて)を獄舎から連れ出しては駅舎の内を連れてまわった。

律儀な武官は、度々、石盾を見とがめる短気な衛士や、行き合ったとたん剣呑な罵声を浴びせてくる伊治帰りの警備兵を制して、石盾の振る舞いを妨げぬよう図った。

もとより寡黙な御盾だが、石盾に向かっては、その胸の内を思えばなお寡黙にならざるを得なかった。

坂上副使の思われるところだ。懐柔なぞという浅慮ではあるまいが、自身の口から語るものなど無い。

ただ何であれ、戦のもたらす憎しみの連鎖を思えば、この若者を邪険にはしたくなかった。

石盾が屈託を克服して毛野兵の病舎を訪れた日、御盾は病舎の内には入らず外で待った。

病舎に収容されていた男たちには充分な手当てが施され、誰もが石盾の無事な姿を見て喜びながらも、申し訳なさそうに己らの不甲斐なさを詫び、暗い顔で俘囚とされるらしいと告げた。

石盾は自身の頭を殴りたくなった。

この期に及んで己が心の弱さから、同胞の前に姿を顕すことに負い目を感じていたなど、なんと情けないことか。責めを負いたいならば、まず同胞の苦慮を背負わねばなるまいに。

石盾はその脚で毛野兵が収容されている兵舎へと向かった。

そこでも石盾は同じように喜びと詫びの言葉で同胞から迎え入れられた。不甲斐ないのは俺だと顔を歪めた石盾の肩を皆が叩いた。

「何を言う、皆、石盾をこそ頼りにしているのだぞ」

「吾らでは問われたことになんと答えていいものかさえ判らん」

「おおそうよ、石盾に計らねばならないことがあるのだ」

皆が言い立て、驚いた石盾が何事かと尋ねてみれば、伊治の戦で死んだ者達の御山(おやま)送りについて問われたのだが、と困惑しきりな声音で口々に訴えられた。

先ごろ、あの御白様のような容貌の将君(いくさのきみ)より、戦死した毛野兵は首こそ伐られて塩漬けとされているが、亡骸を葬るに当たって相応しい毛野の民の祖霊の地があるかと問われたのだそうだ。

葬送の地があれば、そのように計らおうとの申し出だったと聞いて石盾も魂消えたが、年嵩な者たちもそんな話は聞いた試しもない。皆、なんと答えたものかと困り果てていた。

首を伐られた(むくろ)とは言え、打ち捨てられるよりは御山(おやま)に葬りたいのは当然だ。だが倭人が毛野の民の慣わしを気にかけるなど真に受けて良いものだろうか。何か謀でもあるのではあるまいか。

皆の話を聴きながら、石盾はあの副使の穏やかな声音を思い起こしていた。年嵩な者たちの中には、あの将君(いくさのきみ)の容貌に感じるところあるらしい者も見受けられる。

無理もない。

日頃から悪路王に接してきた己でさえ、否、なれば尚更なのか、あの肌や髪の色に、どうしても目が行ってしまうのだ。


この度の戦役で坂東諸国から徴集された軍は、備えこそ解かれたもののまだ解散とはいかず、兵たちは改修と開墾とに別れて(えき)に就いていた。

いずれの兵も戦が終わった開放感からか、骨身を惜しまず働いており、陽が落ちて兵舎に帰ると、戦の手柄話や、これからの作付けのことなどに興じることが多くなった。

同郷の者同士が郷里の父母、妻や子を懐かしげに口に上らせ、年若い者たちが興に乗じて女気の無い兵舎と規律の厳しさをおどけて罵ってみせては笑いを喚ぶ。

たとえもとは流民であっても、この地で田を営むことを望んだ兵には、柵戸として税を免じられることも約束されていた。

それらの者たちも話の輪に入り、忘れかけていた在処を持つ暮らしになにがしかの希望を感じているように見えた。

この月の内には伊治城に移り住むこともできよう。糠塚邑(ぬかづかのむら)の田はすでに水を引くばかりに整えられ、田起こしを待っている。

やがて軍が解散されれば、めいめい己が郷里へ帰って、あるいはこの地に生活(たつき)の道を得て、暮らしを建ててゆけるのだ。

伊治を令国の内に取り戻した今、当面大きな戦も起こるまい。


伊治城の改修が進むにつれ、御盾は繁務のため栗原駅舎を留守にする日が増え、さまざまに苦慮した後、田村麻呂へと石盾の扱いについて陳情した。

田村麻呂はしばし考えた後「病舎では今も手が足りなかろう」と答え、河鹿を通じて小角に石盾の身柄を預かってくれと言ってきた。

病舎を預かる小角は二つ返事で引き受け、石盾は病舎で働き始めた。

小角と共に都から遣わされた医師や薬師たちは、はじめの内、奇異な者のように石盾を扱ったが、小角が始めに「坂上副使の意向だ」と言い置いたのが効いたらしく、表だって邪険に扱うものは無かった。

元々典薬寮の医師や薬師たちはみな、家柄こそ古くとも今では名家とは言いがたく、苦労して典薬寮に出仕するに至ったものばかりでもある。

雑兵どころか敵兵の蝦夷にも手厚い看病を施し、兵舎の(くりや)にまで口を出すこの風変わりな節刀使が、医師としても薬師としても優秀であることは既に身に染みている。

今となればその公平さにも敬意を払っていたが、なんと言っても病舎での気配りが細やかすぎて手が足りないのは事実なのだ。

元より敏く手先の器用な石盾は、毛野の民なら誰でも知る薬草の知識もあり、下部と共に傷に巻く大量の布を洗ったり、重傷者の床替えを手伝ったりしながら、乾いた地面が水を吸うように薬効のある草木の知識やその用法を身に付けた。

物部の出の老いた薬師の一人は、そんな石盾を見て、蓄えが心許なくなってきた薬草の採集に使いたいと言ってきたが、流石にこれがそのまま容れられることはなかった。

「若長に本草の心得があるなら、便に応じて得られそうな場所を教えてもらい、薬師自ら出向いて採り集めるがよかろう。衛士を付けさせよう」

田村麻呂は事も無げに言い、これにはさすがに医師と薬師は目を白黒させた。

蝦夷からものを教えてもらえとは。

小角は身近に在る草木の中にも役立つものが有るものだと、日々薬師と石盾と共に駅舎の内でも整備されずにある地割りへと向かっては、伸び始めた青草をあらためてどの辺りで生えていそうか石盾にたずねさせた。

薬効のあるものだけでなく、口にできるものがあれば、少しでも病舎の怪我人に食べさせたい。

東大寺の倉にある薬種の効験より、青いものを口にすることが、怪我人や病人にとってどれだけ大切かを小角はよく知っていた。

草や根を選り分けながら、薬師の一人が「あの副使殿はまこと型破りなお方よな」と言い「だが宮で上つ方のためだけに鬱々と薬種の管理をするよりは、ここで働く方がよほど薬師としての本分と思えるから不思議なものよ」と続けた。

石盾は黙々と作業を手伝いながら、胸の内で、果たしてあの副使を信じて良いものかという迷いを繰り返していた。

「伊治の西に古くからの御山(おやま)がある。叶うことなら命を落とした者たちは其所に葬りたい」

石盾が御盾を通じて告げた答えを容れて、毛野の戦死者の亡骸は、捕虜である同胞の手で旧くからの毛野の葬送地に葬られたと聴いている。

まだ俘囚として認められてはいないものの、毛野兵の捕虜で働けるものはすでに監視付きの労役に駆り出されていたが、それも苦役では無く、開墾用の農具の修繕や縄を綯ったり筵を編んだりといった駅舎内での手業(てわざ)に留められている。

己の扱いも、毛野の捕虜達を牽制してかと考えていたが、どうも違うように思える。

それでもこれまで聞かされてきた倭人の行いを思えば、易々と信じることはできない。

胸の内でこれまで幾度となく繰り返してきた堂々巡りに苛立ちを覚えながら、萌え初めた芹や蕗の芽、薺蒿(うはぎ)などを選り分けて摘む石盾の手が止まったのは、枯れ草の下で瑞々しく伸びる萱草を見つけたためだった。

驚いてさらに枯れ草を掻き分けてみると、野蒜(のびる)の葉が繁り始めている。

思わず石盾は立ち上がり、改めて周囲を見回してみた。

柵の向こうに遠く見える木々の芽吹きの色も濃く、まるで春の盛りのようだ。

それなのに鳥や小動物の気配は真冬のように乏しい。

「どうした」と歩み寄って来た小角の怪訝そうな顔を見て、石盾は「何かが妙だ。草木の春の進みが早すぎる」と足元の萱草と野蒜(のびる)を指差した。


同じ頃、田村麻呂は駅舎の官衙で多賀城の大伴弟麻呂に宛てて、陸奥観世音寺から僧の派遣を請う上奏書をしたためていた。

駅舎から伊治柵へと移住を開始するに先だって、み仏の加護による戦勝に感謝し、これから伊治で暮らす者への加護を祈る法会を執り行いたい。

金光明経は年賀に国衙で読誦されるもので、城柵で読経した例は無い。

だが、農兵や流民上がりの荒くれ達を相手に、仁や徳を百万遍説いたところで毛野の民との蟠りを和らげるには遠く及ばない。賞罰などは却って障りとなるだろう。

経を講じて御仏の加護や慈悲を説く方がよほど効果があろうというものだ。

伊治は再び令制国の城柵となるのだ。

毛野の民が信仰を寄せる国つ神の(かんなぎ)は髪や肌の色薄き者と聞いた。

敵将である私の奇異な髪や肌を見てさえたじろぐ処を思えば、その信仰の篤さも知れる。

(まつりごと)に於いてと同様に、御仏の教えを広めることで緩やかに両者の溝は埋めていけるのではあるまいか。

だがこれも、葛城を思えば急いては成るまい。

田村麻呂がこの案を百済王俊哲くだらのこにきししゅんてつに相談したところ、「ではぜひこの像を供養してくれ」と俊哲から一体の観音像を託された。

宝亀の乱の掃討戦で、窮地を脱した後に彫らせたというその護持仏は、小さいながら美しい像だった。

俊哲は田村麻呂に像を手渡したあと、一つ息をついて言った。

「大使が長岡へ凱旋される暁までには、何としても床を上げねばな」

口を開きかけた田村麻呂に言葉を差し挟む間を与えず、俊哲はきっぱりと言葉を継げた。

「常ならばともかく、戦役から日も浅いというのに按察使(多治比浜成)一人に鎮守将軍の任まで負わせるわけにはいくまい」

「仰せの通りに」と頷いた田村麻呂に、俊哲はさらに「何より阿弖流為(アテルイ)がこのまま引き下がるとは思われない」と苦く言ったものだった。

田村麻呂は筆を置き、書き上げた上奏書を黙読しながら、しばしその先の事を思った。

農兵の伊治への移住が済む頃には、駅路の雪の心配も無くなろう。

その時にはせめて百済王副使は多賀城へお移り頂きたいものだ。

阿弖流為の去就はまるで掴めていない。

まずは百済王副使の身の安全を図らねば。

今や毛野の民との諍いの経緯を身を持って知る官人は、百済王副使以外に無い。

この方の身に何か起これば、この戦役は振り出しに戻ってしまうだろう。

できうることなら速やかに長岡の都へとお還り頂き、大君にこの度の戦役のことを直々にお伝えいただきたいのだが、大将軍(おおいくさのきみ)(大伴弟麻呂)は、伊治奪還の報は移住が成って後にと申された。

大君へ軍の解散の意向をうかがうのはさらにその後になろう。

より速やかに大君に百済王副使の帰還について言上する手段は無いものだろうか。


陽が中天を過ぎた頃、前ぶれなく病舎を訪れた田村麻呂の姿に、医師も薬師も驚いて手を止め、慌てて立礼しようと一斉に腰を上げかけた。

田村麻呂は低く手を挙げて「皆そのまま続けてくれ」と押し留め、病舎の内を見回した。

小角は石盾と頭を寄せあって文台の上に屈み込み、さかんに何か話していたが、視線に気づくと薬師の一人を呼び寄せ、自らは田村麻呂のもとへと歩み寄った。

小角のもの問いたげな顔を見下ろして、田村麻呂は「二つほどお尋ねしたい」と言った。

「この月の終わりにはこの駅舎から伊治城へと移転を考えているが、病舎の者たちも移転は可能だろうか?、毛野の者たちも共にだ。駅舎に残るのは衛士だけになる」

小角は暫し考え込んだ。

「歩けない者はまだ居るが、動かせない程の者はすでにない」

僅かに眉根を寄せ、言い澱んだ後、小角は面を上げて「歩けない者たちの移動の便宜を図ってもらえるなら障りあるまい」と答えた。

田村麻呂は小角の言葉の中に含まれる痛みに気づいた。

さもあろう、手当ての甲斐無く死んでいった者は数多(あまた)居たのだ。

力車(ちからぐるま)を用意させよう」と頷いた田村麻呂は、続けて「百済王副使は一日も早い床上げを望んでおいでだが、貴方の見立てを伺いたい」と問うた。

小角は呆れたように「まだようやく床の上で身を起こせるようになったばかりだ。萎えた足で立ち上がるにはあと三旬はかかろう」と答えた。

「三旬か」と呟いた田村麻呂に、小角は 「按摩と傷折(しょうせつ)に長けた医師が付ききりで二旬になるかならないか。ここの医師を割くことは難しいが」と困惑顔になった。

田村麻呂は目元を緩め「多賀城(たがのき)ならば国医(くにのくすし)が居るか」と後を引き取った。

「そうだな」と頷いた小角は、辺りを見回した後、目を挙げ、ややひそめた声で「伝えておきたいことがある」と言った。

石盾は薬師との話の途中、幾度か話し込む田村麻呂と小角に視線を投げていたが、田村麻呂に促されて病舎を出ていく小角の後ろ姿を見送って、不意にこの二人が殊更に親しい間柄なのだと思い至った。

伊治の戦からずっと、小角が毛野国に立ち戻った理由が何なのか釈然としないままだったが、少なくとも己が密かに望んでいたものとは違うのだと、改めて身につまされた思いがした。


小角はその日の朝、青草を摘んだ一画へと向かい、生い茂る草むらを指し示した。

「あの若長が言うには、草木への春の訪れが急進しているのに鳥や動物たちは真冬のように静まり返っているのだそうだ」

田村麻呂はひと渡り周囲を見回すと「それは凶兆なのだろうか?」とたずねた。

「この地は今たいそう不穏な様相だ。先の戦で顕れた荒魂もその証しだ。何が起こっているのか定かではないが、良い兆しとは思われない」

小角の答えを聞いて、田村麻呂は暫し考え込んだ。

「貴方は以前この地には特別な力を持つ国つ神の守り手が在ると申されたな。その者は悪路王と呼ばれているのではあるまいか?」

短く「そうだ」とだけ答えた小角の屈託に気づかず、田村麻呂は続けて問うた。

「どのような力なのだろう?。貴方の様に大地や水や風と共に在る力とは違うのだろうか?」

「似て異なる物だ。俄には信じられまいが、言葉で現すなら動植(ことごと)くに関わる生い育つ力とでも言えるか」

言い淀んだ小角に藍色の視線がひたと向けられた。

「この事もその国つ神の守り手によるとお考えか?」

小角は唇を噛んでいっとき黙り込み、ようよう「この地の(ことわり)を身の内に持たない私には確かなことは言えないが、全く関わり無いとは思われない」とだけ答えた。

二人は暫し黙したまま足元の草むらに目を落とした。

田村麻呂が不意に面を上げた。

「貴方がここへおいでくださったことにも、その働きにもこの上なく感謝している」

その改まった声音に小角も顔を上げた。

「だが、貴方は本来節刀使として陸奥を訪れたはず。そのことを思えば、とうに帰還して然るべきだ。お考えになったことはあるだろうか」

「私一人都に戻れと言うのか」

思いもかけなかったその言葉に気色ばんだ小角だったが、田村麻呂の真摯な表情に言葉を詰まらせた。

確かにそれが道理なのだ。

思えばすでに陸奥国へ脚を踏み入れて三月が過ぎようとしている。

真鉄の呪具の中にいるとは言え、(さき)の前鬼と後鬼の疲弊を思えば、そうそう長くこの地に留まることは難しい。

「病舎の重篤な者が、一人で身の回りのことが済ませられるようになれば考えてみよう」

どうにかそれだけ答えて、小角は唇を噛んだまま背を向けて病舎へ歩み出した。

遠ざかる背なを見送りながら田村麻呂は、これで果たして鈴鹿が大人しく帰還してくれるものかと危ぶむ気持ちを強いて打ち消した。

いや、何としても都へお戻り頂くのだ。

鈴鹿が毛野の民に肩入れする理由を、これまで己は葛城の轍を踏ませたくないという願いからなのだとばかり考えてきた。

だが、あの毛野の将の言動や、若長との親しさを見ると、どうやらそれだけでは無いように思われる。問いただす気は毛頭無いが、私自身が鈴鹿を何事かに巻き込んでいるのやもしれぬ。

伊治移住が成った暁には大君への上奏書を託して、河鹿と共に何としても帰還させよう。


その月の下旬には兵の多くは栗原駅舎から伊治城に移り、明くる四月の朔日に形ばかりの政庁で最勝会が営まれ、これには駐屯している兵士も捕虜も歩けるものは皆参列させられた。

その場で、陸奥按察使 多治比浜成、征夷大使 大伴弟麻呂の権限で、捕虜となっている毛野の民を俘囚に直す旨の国符(くにのふ)が読み上げられた。仮の俘囚長として石盾の名が挙げられ、百済王副使に替わって坂上副使が伊治城の運営に当たることも述べられた。

その夜、これで戦は終わりだと多くの者が浮かれる伊治城から、深更に忍び出る人影があったが、兵舎の者たちも衛兵も、誰も気付かなかった。


四月も半ばを過ぎた頃(新暦五月上旬)、百済王俊哲は多賀城へと移った。

田村麻呂は囮として多数の護送兵を付けた一行に駅路を先行させ、狙い通りこの一行が襲撃を受け、多賀城に要請して待ち受けていた国府の兵士達が撃退して幾人かの襲撃者を捕らえ、本隊は無事多賀城に到着した。

捕虜が国府で尋問され、毛野兵(けぬのへい)が雄勝柵に集められていることを白状したと国府から伊治城へと伝えられた。

雄勝柵へ出す斥候兵は繰り返し編まれていたが、比羅保許山(ひらほこやま)周辺で去就が不明になり帰還しない者が多かったため沙汰止みとなっている。

伝令の任に当たった若い使丁は割符を返上した後、政庁の下部から「解が出るやもしれぬから滞在するように」と言われ、伊治城の兵舎へ案内された。

兵舎では「なんだまたお前が伝令か」などと言われてひとしきり賑わったが、駐屯している者達は皆それぞれの任の為に入れ違いに兵舎を出ていった。

その日も早朝から城柵内で青草を集めて病舎へ戻りかけていた石盾は、ふらりと兵舎を出たきた使いの若者の姿を見て、慌てて顔を背けた。

遠目の効く石盾には、その若者が多賀城の調(つき)の司の下部だとひと目でわかった。己を見咎められると千嘉浦(ちかのうら)の塩焼きの翁に何か(わざわい)為すかもしれない。

願い虚しくその若者も石盾にすぐ気付き、笑顔を浮かべて「久しいな千嘉浦(ちかのうら)の」と手を振ってきた。石盾に同行していた老いた薬師は振り向いたが特に何も思わなかったと見え、「後でな」とだけ言い残して歩み去った。

「爺さまから預かったものがある」と肩を抱かれた石盾は、赤地に複雑な模様が織り出された額巻きを渡されて心の臓が飛び跳ねるような心地がした。

「大墓の長も盤具の長もお前たちの無事を知っている。次の朔に解き放ちが有る。その日の朝迄に皆でここを出て白銀城(しろがねのき)へ逃げこめ」

低く口早にそれだけ言うと、若者は石盾の肩を放し、殊更愉快そうに背中を叩いた。

「爺さまが稚子(わくご)のことを案じていたぞ、何か伝えたいなら俺のいる間に言えよ」

立ち尽くす石盾を残し、伝令の若者は政庁へ向かって歩き出した。

薺蒿(うはぎ) ヨメナの古名


陸奥観世音寺

現高崎地区多賀城廃寺跡が比定されている。

神亀元年(724年)大野東人による陸奥国府多賀城築城と同時に建立されたと考えられ、太宰府観世音寺と同じ伽藍配置を持つ。

陸奥国分寺建立後も国府の付属寺院の役割を果たしていたと考えられる。


按摩、傷折(しょうせつ)

医疾令で医生が学ぶ治療法の一部。

ここでは外科系の治療全般の意味として使いました。


三旬

一旬=十日

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