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六月  作者: 賀茂史女
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第六部 伊治 五 栗原駅舎

伊治 五 栗原駅舎

延暦十三年(794年) 一月晦(新暦三月初旬)

陸奥国

日暮れ近く、千嘉浦(ちかのうら)の粗末な庵で、石盾は竈の火を引きながら藻塩焼きの翁の帰りを待っていた。

(つごもり)には翁が国府に参じ、石盾一人が浜の仕事をするのは常のことだが、今日はどうしたわけか翁の帰りが遅かった。

働く事に骨を惜しまぬ石盾は常に先へ先へと仕事をこなす。

それは童子の頃からそう育って躯に染み付いた習性でもあるが、何より今は国府の動き如何で此処を立ち去る事が案じられた。

おそらくある日突然、翁を置き去りにして姿をくらますことになるだろう。

このところの好天続きもあり、藻塩焼きは大層捗っている。

石盾は少しでも手が空けば薪を割り、筵を編み足し、竈を修繕してきた。

翁の起き居が楽なようにと土床を盛り、板を張った寝床が完成したのはつい今しがただった。

夕餉にと用意した魚の汁から立ち上る湯気に、石盾の腹は今にも鳴りそうだった。

翁の痛めた腰はよほど良くなり、足取りもしっかりしてきてはいたが、辺りは暗くなり始めている。

考えあぐねた石盾は燠を灰に埋めて立ち上がり、庵を出た。

薄暮の中、冠川の船着き場へと向かいかけると、ちょうど帰ってきた翁に出くわした。

翁は石盾の姿を認め、陽に焼けた皺だらけの顔をほころばせて「遅くなって済まなんだな。腹が減ったろう。」と言った。

石盾が迎えに出てくれたことが嬉しかったものか、童子に土産話を聞かせるような表情で目配せをしながら「せんのお()ではないが今日は吾が足止めを喰らったわ。」と言葉を継げた。

石盾は鳩尾の辺りに冷や水を浴びたような気がした。

努めて何心も無いような風で庵に向かって歩きながら「国府で何かあったか。」と訊ねると、翁は盛んに頷いた。

「国府を出る者皆が顔を改められたのよ。俘囚や商人の幾人かは国府から出れないばかりか獄舎行きも出たようだった。明日も続くようだ。しばらくは塩を納めに行くのも様子を見ながらが良かろうな。」

翁の声音にはため息が混じった。

国府の出入りに検分が入るようになれば戦が近いと容易に想像できる。

石盾は逸る心を押さえて暢気らしく「なんとも物騒なことだが、先に夕餉にしよう。(じい)も草臥れて腹が減ったろう。」と答えた。

粟と芋の団子を入れた魚汁を分け合ってすすりながら、翁は聞かれもしないうちからその日の事を語りだした。

衛士は無論、司所の下部まで動員されての検分だったが、荷が改められたわけではなく、一人一人の来歴や住み処がわかれば解放された。

不審なところがあればそのまま何処かへ連行されたらしい。

身許を証す者がいなければ不審者と見なされ、その先には尋問が待っているのだろう。

「検分を待っておる間に聞いた噂では、尊い方が城柵へと向かわれるから出入りを厳しくしているのではないかなど言っておったがなあ。まずお前が行く日のことでなくて良かった。」

石盾は時おり頷きながら聞き入るばかりだったが、心の内ではわだかまりが重くなっていった。

尊い方とは、都から来た小角に瓜二つの使節のことだろう。

儀式とやらが終われば都へ帰るのかと思っていたが、城柵に向かうとなるとそこでも儀式を行うものか。

阿弖流為には、国府に出入りする商人の内に何人か意を通じている者が居るが、そんな検分があったとすればその報せが二人の耳に届くのには時間がかかるかもしれない。

翁は魚汁を飲み干して、真新しい板張りの寝床に喜びながら横になった。

「なあ稚子(わくご)(「若いの」程度の意)よ。好い(めのご)でも見つけたなら遠慮なく言ってみろ。よく働いてくれるのはありがたいが、お前にも楽しみがあってもよかろう。」

言われて石盾は思わず頓狂な声が出た。

「藪から棒に何を言い出す。」

逆上せ顔で慌てて立ち上がる石盾の様を可笑しそうに見て、翁は「どうもこの頃、何やら思い詰めているようだでなあ。こんな爺だが、相手次第では取り持ってやれるかもしれんぞ。」と言った。

庵の出口に退散しながら石盾は振り返らず「椀を洗ってくる。」とだけ答えた。

暗に此処に定住しろと言ってくれているのだと石盾にも解った。

翁は生まれも素性も知れない石盾を、ただ難渋している時に現れて手を貸してくれたというだけで信用して住み処に置き続けた。

ともに毛野の血を引く民であるからと、まるで親子のようにこの冬を暮らしてきたが、成長してから戦場にばかり居た石盾にとってはまるで童子の頃に戻ったような日々だった。

この人の好い翁に嘘はつきたくないが、真実を語るわけにもいかない。

庵の外の瓶に溜めてある雨水で椀を洗った石盾が庵に戻ると、翁はすでに筵を引き被って鼾をかいていた。

歩く方はともかく、検分に出くわして気疲れしたのだろう。

「すまんなあ、爺よ。俺は去るが達者でな。戦に巻き込まれないでくれよ。」

口の中で呟いた石盾は静かに庵を出た。

陽が落ちた後で空気は冷え込み、吐く息も白く、藁沓を通して大地の冷たさが伝わってくるが、海から吹く微風はすでに真冬のものではなかった。

この冬は雪が少なく、その冬も間もなく終わろうとしている。

白銀城の真鉄(まかね)吹きに加わらない冬は初めてだった。

これまでも内偵で俘囚や倭人の中で暮らしたことはあったが、ひと冬を過ごすほど長くもなく、またこれほど親しむこともなかった。

石盾には翁を独りにすることが心残りでならず、その気持ちは白銀城の母親や伊治柵の義父を思うのと変わり無く思われた。

明日の朝、目覚めた翁はなんと思うだろうか。

今姿を消せば、翁は石盾が国府の検分の話を聞いて立ち去ったと気づくだろう。

そして石盾に後ろ暗いところがあったのだと思い当たるだろう。

目をかけてやったものをと恨むかも知れない。

石盾は一度きっぱりと頚を振り、朔月の暗闇の中を北に向かって足音も無く走り出した。


月が改まって二日の後、陸奥国府、多賀城の大門が音を立てて開かれた。

帳の下ろされた輿上で、小角は目を閉じ、この数日来のことを考えていた。

駿河を越えた辺りで覚えた違和感は、常陸や下野を経て陸奥に入るとさらに強くなった。

多賀城に近づくにつれ、嘗てとは明らかに違う不穏な気配が感じられた。

授刀の儀のために数日潔斎する内に、小角はその不穏さが地脈の乱れによると気付いた。

前鬼や後鬼なら何か感じ取れるかとも思ったが、二人は、玻璃から貰った真鉄の呪具の中で眠りに着かせている。

以前のことを鑑みると、地脈の違うこの国では、眠っていてもらうのが二人の消耗を防ぐ唯一の手立てだろう。

征夷大使大伴弟麻呂はもとより、国府の官人の多くが、節刀使は治部卿壱志濃王と思い込んでいたためか、年若で誰とも知れぬ小角の姿にどこか拍子抜けしたように見受けられた。

大君の勅もあり、授刀の儀は滞りなく済んだが、誰もが自身を扱いかねているのを良いことに、小角は重々しく、伴ってきた薬師を率いて城柵へ(かち)で赴くと宣言した。

国府では道程の安全を図ってからと慌てて引き留め、国府の出入りを固めた上で、輿での移動と護衛に牡鹿柵の大領の同行を願い出てきた。

大仰な一行より、少人数で機敏に動いた方が安全に決まっている。

このときばかりは小角は勅使として訪れたことを悔やみ、河鹿に笑いを噛み殺しながら「辛抱なされませ。今鈴鹿様は大君の名代にございましょう。」と宥められた。

確かに、勅使を徒で前線に向かわせるなぞ外官に許されるはずもないだろう。

河鹿は小角が節刀使として陸奥国へ赴くにあたって、供をすると言い張った。

小角が粟田の留守を任せたいと言うと「留守居には花鶏が居りまする。夫人(おおとじ)一人を往かせて吾が残ったとあっては(あるじ)に申し開きのしようがありません。どうでも粟田に残れと仰せなら、吾は流民になってでも陸奥国へ参ります。」とまで言い、これには流石に小角も渋々引き下がった。

だが、結局のところ、陸奥国までの長い道程の間、事情を知る河鹿の気配りに、小角は幾度も助けられた。

この朝も、河鹿は輿を担ぐ隼人達の傍らに立ち、辺りに抜かりなく目を配っていた。

牡鹿柵の大領が騎馬で先導に付き、輿の後ろに薬師と荷を背負った役夫が続き、数名の徒の兵が殿(しんがり)に並び、一行は開かれた大門から玉造柵へ向けて国府を出た。

よく晴れた朝の冷たい空気の中、多賀城近くでは残雪も無かった伝路は、進むにつれ路上にも斑に雪が残るようになった。

湿地から上る微かな靄が立ち込めるなか、周囲はしんと静まり、ときおり木々の枝から雪が落ちる音と、一行が雪を踏む時に出る足音だけが聞こえていた。

靄の彼方から、微かに馬の嘶きが聞こえ、先頭で馬を進める牡鹿柵の大領道嶋御盾は靄を透かして伝路の先に眼を凝らした。

玉造柵から迎えの兵が出ると聞いている。

陽が高くなるにつれ、辺りの淡い靄は薄れつつあり、果たして御盾は伝路の彼方に数人の弓を携えた騎兵とおぼしき影を認めた。

舎人に報告するため馬首を転らせた次の瞬間、御盾の目に映ったのは、残雪に白く彩られた右手の丘陵の尾根に居並ぶ蝦夷の騎兵だった。

輿の隣の河鹿が緊迫した声で「蝦夷の兵が」と言った。

隼人たちは足を止め、小角は帳を上げて河鹿の指差す彼方を見たが、さすがにこの距離では誰と判別が着くでもない。

馬を寄せてきた先導の騎兵が、肩から(いしゆみ)を降ろし「牡鹿柵の大領、道嶋御盾が申し上げます。行く先に玉造柵の騎兵がまかり来しております。疾くお進み下さい。」と口早に告げた。


「倭の貴人の輿とはあれか?。」

阿弖流為に問われた石盾は、輿の天蓋の金の飾りの煌めきを認め「ああ、そうだ」とだけ答えた。

母禮が「奴等も気付いた様だな。上手の兵が脚を早めた。襲うなら今だが。どうする。」と低く言った。

阿弖流為の眉が険しく寄せられた。

隊列の端で痺れを切らした二人の毛野の騎兵が行列が乱れるのを見てとり、「阿弖流為、逃げられるぞ。」と叫ぶと駆け出した。

石盾は小さく舌打ちした。

あの二人はよい歳をして気が短すぎる。

母禮が制止の声を上げたが、二人はさらに馬の脚を早め、雪の残る枯れ野の丘をみるみる駆け降りて行った。

阿弖流為はすぐさま二騎を追って駆け出し、母禮も「石盾、皆を抑えろ。伊佐西古(イサシコ)諸絞(モロジメ)にも決して動くなと伝えろ。」と言い残して後を追った。

石盾は浮足だった隊列の前に飛び出し、両の腕を大きく広げて叫んだ。

「留まれ。皆動くな。伊佐西古、諸絞、誰も追わせるな。矢をつがえたまま待て。」


玉造柵から節刀使の出迎えのため数名の兵を率いていた田村麻呂は、丘陵に姿を表した毛野の兵を見て、率いていた兵の脚を止めさせ、双方の距離を目測した。

輿で逃げては到底間に合うまい。

警護は騎馬一名と数名の徒歩の兵だけだ。

徒歩(かち)二名(とぶひ)を揚げよ。騎馬一名を残して他のものは続け。交戦はするな。使節一行と合流して迅速に城柵へ退避させよ。」

後続の騎兵に言い残し、(からたち)の腹を鐙で軽く押して駆け出した田村麻呂の目は、彼方の丘から二騎が駆け出したのを捕らえた。


残雪と泥を蹴立て丘を駆け降りてくる二騎を見て、荷を背負う奴達は狼狽えて悲鳴をあげた。

靄の晴れた伝路の先から駆けてくる一騎を認めた小角は、今こちらへ駆けてきているのは田村麻呂だと直感し、輿を担ぐ隼人たちに「卸させよ。」と鋭い声で命じた。

御盾は呆気に取られたが、気圧された隼人たちは反射的に輿を降ろした。

輿から歩み出た小角は周囲を見渡した。

この距離なら田村麻呂の方が早く着く。

丘を駆け降りた毛野の騎兵が輿に向かって弩を構えるのが見えた。

小角は河鹿が捧げた矛を奪うように取って叫んだ。

「みな輿を捨てて走れ。この先の騎兵に合流するのだ。牡鹿柵の大領よ一行の殿を守れ。河鹿、お前の主が来ているぞ。早く皆を率いて走れ。」

放たれた一の矢が真っ直ぐに飛んできたところを狙いすまして矛で払い落とすと、周囲に声の無いどよめきが走った。

続く二の矢が輿を揺るがして天蓋の梁に音高く突き立った。

その音で呪縛が解けたように、一行は我先に伝路を駆け出した。

御盾は援護に駆けてくる騎兵の先頭が坂上少将だと気付いた。

田村麻呂は御盾の傍らに、矛を握って立つ小角の姿を認め、瞠目した。

魂消えるとはこの事だろうか。

河鹿が一行を率いて駆けて来るのに行き違いざま「そのまま駆けろ」と声をかけながらも、(からたち)の脚は緩めなかった。

丘陵に眼を向けると、距離を詰めた毛野の兵が弩を背へ廻し、蕨手刀を抜いたのが見えた。

さらに背後から二騎が駆けてきているがこちらは弩も構えておらず、尾根の兵も動いていない。

背後で後続の騎兵が一行を伝路の先へと促す声を聞きながら、田村麻呂は太刀を抜いた。

小角の傍らで同様に太刀を抜いた御盾と視線が合った。

先ずはこの二騎だ。

田村麻呂は大きく手綱を引き、太刀を掲げたまま、馬首を巡らし小角を背後に立ちはだかった。

毛野の騎兵二人は後十五間(30m足らず)程の距離に迫っていた。

後を追ってきている二騎が、以前出会った並々ならぬ毛野の将だと田村麻呂は気付いた。

田村麻呂の背後で小角が「皆無事に合流したぞ。」と言った。

田村麻呂は眼前の二騎から視線を逸らさず「何故貴方が此処へお出でになった。大君が貴方に使いを求めたのなら断るべきであった。」とだけ言い、太刀を構えた。

小角が馬首へ廻った。

接近戦に馴れない(からたち)が剣撃で怯み、小角を傷つける事を案じて田村麻呂は短く「下がられよ。」と声を掛けた。

二騎は田村麻呂と御盾の正面まで来て大きく馬の向きを変えさせ、次々に後脚立ちになった馬上から激しい一撃と反す太刀を浴びせかけてきた。

重い金属音を上げて双方の太刀がぶつかり合った。

続けざまの激しい剣撃にも、(からたち)は一足二足、脚を踏み変えたのみで怖じたりしなかった。

小角が(からたち)の頚に手を触れているのが田村麻呂の眼の端に入った。

二騎は三人の前を駆け抜けると、間髪を入れず馬の向きを変え、次の攻撃に入るために向かってきた。

撤退を援護していた倭の騎兵の内、数名が馬を一行に与え、自身は徒歩で弓を構えながら伝路を駆けてきていた。

跪いた兵が狙いを定めて弓を引き絞った時、大音声が響き渡った。

八十島(ヤソシマ)乙代(オトシロ)、待て。」

阿弖流為の声だ。

小角は懐かしさに胸が痛くなった。

八十島と乙代と呼ばれた騎兵は馬をぴたりと止めて見せた。

「その倭の(いくさのきみ)に質したいことがある。」

小角がその声のする方に眼を向けると、そこには紛れもなく阿弖流為と母禮の姿があった。

ほんの一瞬、三者の視線が交錯した。

弓を構えた兵は田村麻呂が制止の為に挙げた手を見て渋々弓を下ろした。

田村麻呂は再び小角の身が隠れるよう(からたち)の位置を変えさせた。

「将よ、警告した筈だが。荷を運び込むとはまだ戦を諦めぬのだな。聞く耳は持たぬか。」

阿弖流為は堂々と言い放った後、挑むように田村麻呂の顔を見た。

(さき)に大君の勅令をもって通達したように、伊治柵は我が日の本の国の城柵に他ならない。明け渡さぬというなら、奪い返すまで。毛野の長にはその覚悟あっての勅令の拒否ではあらせられぬか。」

田村麻呂の答えに、阿弖流為は「信じぬか。だが悪路王にはそれだけの力があるのだ。その者に聞いてみるが良い。」と背後の小角に顎をしゃくった。

馬首を巡らせ「今日の所は退こう。」と阿弖流為が言った

時には、母禮はすでに二人の騎兵を退かせていた。

丘の上の毛野の兵は一糸の乱れもなく並んで四騎が戻ってくるのを待っていた。

最前列の兵は、事あれば援護出来るよう弩を構えている。

見事な統率力だと田村麻呂は改めて思った。


伊治柵へ戻る途中、母禮の隣で馬を駆けさせながら、石盾は「お()、小角だったか?。」と母禮に訊ねた。

母禮は隣で馬を駆けさせている阿弖流為の顔をちらりと見遣って短く「ああ、だが誰にも言うな。誰にも、だ。」と答えた。

石盾はやや不満そうに眉を潜めたが口に出しては何も言わなかった。


田村麻呂は毛野の兵が丘陵から姿を消した後、御盾を労い、小角を馬上に引き揚げて鞍の前に乗せ、伝路の先で待つ騎兵と合流した。

再び輿が運ばれてきて、河鹿から「お乗りいただけます」と聞かされた小角は、田村麻呂に向かって「お前の鞍の前で良い、輿はもうたくさんだ」とごねて、呆れ顔で「何を申される。」と言い返された。

渋々輿に乗った小角は、河鹿と談笑する田村麻呂の身なりを見て、改めてこの君が前戦に身を置いていたのだと痛感していた。

痩せた。

具足はあちこち壊れ、小札(こざね)は外れ落ちて、闕腋(けってき)の衣も汚れ、破れて、その手は荒れて傷だらけだ。

髭を当たる暇も無いのか、髪と同じ黄褐色の無精髭が伸び放題にされている。

それでも藍色の眼は炯々と輝き、口許には笑みを浮かべていた。

田村麻呂は小角の視線に気づき、柔らかな笑みを送ってきた。


無事玉造柵の大門をくぐると、田村麻呂は一行を案内の衛士に任せて早々に立ち去った。

河鹿から一通り、事の経緯を聞いたものの、栗原駅舎で伝路改修の指揮を執っている百済王俊哲は、治部卿壱志濃王が来訪すると思い込んでいるはずだ。

何と切り出したものか。

だが大君と治部卿のお考えあってのことであれば、有り体に報告するしかあるまい。

田村麻呂は思案にくれながら、栗原駅舎へと(からたち)を走らせた。

報告を聞いた俊哲は節刀使が壱志濃王の縁者の薬師だと聞いて、意外そうな表情にはなったが、特に落胆するでもなく、何より一行が伝路で襲撃を受けたことを重く受け止めた。

玉造柵での引見では、俊哲は一行を労いつつ襲撃についても詳細ないきさつを訊ね、使節一行の遇われた危難は逐一大伴大使へ報告しようと約した。

多賀城へと帰還する前に、俊哲は田村麻呂に「あの薬師にどこかで会ったように思うが」と漏らしたが、田村麻呂が答えあぐねる内に慌ただしく馬が連れてこられ、俊哲は馬上の人となった。

「これで言わば双方どちらからともなく、事実上の開戦を宣言したようなものだ。なれば、兵は一人でも多い方が良い。(なれ)の要請した薬師の働きに大いに期したい。大君の勅もあることだ、できうる限り便宜を図ってくれ。」

俊哲はそれだけ言うと、御盾と共に多賀城へと戻っていった。


その日の内に栗原駅舎へと移動した小角は、率いてきた薬師たちと共に、兵舎を見て回り、その不衛生さに顔をしかめた。

寒い季節が幸いして、新たに傷を負った者は案ずるほどでもなかったが、長患いの者では、壊疽を止めようと焼いた傷口が爛れていたり、捨て置かれた傷口に蛆が沸いている者もある。

傷からくる高熱で身動きかなわず、兵舎の隅で横たわったきり唸っていた数名は生きながら踵や趾を鼠に噛じられていた。

用を足しに兵舎の外へ出るのもままならず、汚した衣を替える者もない。

暑い季節であればたちまち疫病の巣だったろう。

小角は片端から沐浴させて衣を替えさせ、不平に耳を貸さず、自身で動けるものには皆、身に付けているものを洗わせ、兵舎を清めさせた。

兵だけでなく、奴の内にも凍傷病みや肺の腑を病む者がいた。

小角から河鹿を通じて、負傷者や病の者を兵舎から移させたいと進言された田村麻呂は、板張りの床を持つ官衙を一つ空けさせ、河鹿一人では手が廻るまいと虫麻呂と数人の奴を寄越してきた。

古い藁床は焼き捨てさせ、重傷者には裂いた亜麻布を編んだ清潔な寝床が用意された。

厨の有り様もひどいものだった。

隅に積まれた穀物の入った麻袋に近づくと鼠が逃げ、汲み置きの水瓶を覗けば孑孑(ぼうふら)がわいている。

小角は厨の奴を叱り飛ばしながら厨中を清めさせ、煮炊きと病舎に使う水は必ず新しく井戸から汲んで沸かすよう口煩く言った。

負傷者を病舎に移して数日の内に、壊疽の進行が止まらない数名は、鮮血が認められるまで腐敗した箇所を抉りとる荒療治が施された。

やがて軽症の者は薬と療治で熱や痛みが治まり、任に戻れる程になった。

怪我が癒えて兵舎へ戻った者を迎えて、兵たちは、あの副使殿は外見もさることながら、何とも変わった方であると、呆れたように言いながら、軽んじるでもなく、むしろ敬愛の念を込めて坂上副使の噂をした。

これまで、戦での兵の負傷を省みる(いくさのきみ)などあった試しがない。

有力氏族出の軍毅ならともかく、兵站に当たる多くの兵は駆り集められた農兵であれば、怪我を負えば打ち捨てられ、死んだとなれば新たに兵を供出させるのが常だ。

それをわざわざ薬師を招いて養わせるとは。

「あの副使殿が請うて都から遣わされたという年若な薬師だが、童子のような外見に似ず、大層肝が座っているぞ。」

一人が言い出すと皆が口々に、容赦ないだの口うるさいだのと言い、一人が「やれそこらで唾を吐くなの、手鼻をかむなの、壁に向かって立ち小便をするなのと、まるで吾の()に責められているようだ。」と道化てみせた。

同郷の別な一人が「(なれ)の妻の方がよほど猛々しかろう。蝦夷などひとたまりもないほどじゃ。」とからかい、哄笑がわいた。

通りかかった百長が、兵舎で笑い声が聞かれるとは珍しいと覗き込むと、みなあわてて黙り込んだ。


栗原駅舎に来て半月ほどが過ぎると、日々のことに追われていた小角も、ようやく息がつけるようになった。

もし戦が始まれば、共に来た薬師や田村麻呂が寄越してくれた奴たちが居ても手が足りないだろう。

いつ開戦となるものか。

田村麻呂とは、栗原駅舎に入って以来、言葉も交わしていなかった。

小角が知るところではなかったが、田村麻呂は節刀使一行が襲撃を受けた日から、開墾作業の衛士を増員して警戒にあたっていた。

多賀城の百済王俊哲のもとに、道嶋御盾と共に志波の長、阿奴志己(アヌシコ)が密かに訪れた事を知るのは、俊哲、御盾、田村麻呂の三者だけだった。

二月の半ば過ぎに毛野の民の祭祀の日が来る。

それぞれの里の長が御室に赴くその日は、阿弖流為と母禮も伊治柵を留守にする筈だと、阿奴志己(アヌシコ)は告げて去った。

尺、間(距離の単位について)

尺の基準については諸説ありますが、ここでは大宝律令で定められた大尺を唐の大尺として、一尺約30cm(29.63cm)、六尺=一間(約1.8m)と考えました。


古代道について

飛鳥~奈良時代初期に造営されたと思われる古代駅路の幅員は15m~13m。

現代の4車線道路程度の幅で、両側に広く深い溝を持ち、高度な測量土木技術で、直線的に高低差少なく、堅固で水捌けの良い路面に造られ、班田の為の土地区画の基準ともされていた。

建造の時期は天智・天武期が有力とされるが不明で、維持管理も行われていたはずだが詳細は残されていない。

奈良時代後期辺りから、養老七年格(良田百万町歩開墾計画)の影響か、一部の伝路では取り壊されて耕地にされた形跡もある。


闕腋(けってき)

朝服の中でも武官が着る、脇の縫いが胴まわりあたりまでの短いもの。

身頃の裾まで縫われていないので動きやすい。

平安時代中期に入って貴族の正装が非実用的なものへと推移しても、武官の衣は闕腋だった。


軍毅

軍団の指揮を執る役目の総称。

近代の将校や士官に当たる。

律令制下の軍隊は国、郡単位で編成され、軍団と呼ばれていた。


百長

軍団の中で二隊を率いる長。

二隊(百人)を率いるため百長と呼ばれた。

十人の班を()と呼び、火長が率い、火が五班(五十人)で隊となり隊正が率いる。

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