第壱部 悪路王 五 赤頭
小角は夏の間中、大墓の里の養蚕の手伝いをし、童子達の世話を焼きながら機を踏んだ。
夏の盛りに盤具の里で母禮と田鶴の婚礼が行われた。
宴が張られ、酒が酌み交わされ、多くの歌が唄われた。
当人達も、仮長である母禮の叔父や家族達も皆、幸せそうな顔をしていた。
阿弖流為は感慨深げに小角に耳打ちした。
「母禮は力づくで田鶴を妻とすることだって出来た。たとえ母禮がそうしても誰も母禮を責めなかったろう。掟だからな。だが母禮はそうせず、自分で田鶴の同意を勝ち取った。皆その行いが長に相応しく幸いだと喜んでいるのだ」
阿弖流為の顔には親しい友への掛け値の無い賞賛が浮かんでいた。
「だから阿弖流為も喜んでいるのだな」
小角も嬉しくなって言った。
「そうだ。母禮は辛抱強く事を運べる。大切な事だ」
篝火の灯りを映して阿弖流為の顔は輝いて見えた。
まもなく夏が終わろうという頃、漸く手の込んだ尺二(一尺二寸幅)の反物は織り上がった。
玻璃に似合うようにと地色には経糸に茜、緯糸に梔子色を選び、二丁織りの緯糸を白にした。
光の当たり具合で丹が勝って見えたり黄一色に見えたりする黄丹色の地色の上に白色の雲立湧の紋様が浮かび上がるように織り出した。
出来上がった反物を機から外して整えていると阿弖流為が来て妻の弓弦葉と二人で盛んに感心してくれた。
「この高機は使いやすいので良いものが早く織り上がった。よくこんな良い機が幾台も手に入るものだな」
小角が下野に置いてきた地機ですら庶人が手に入れるのは困難なのだ。
畿内で高機を持つ庶人など、都の織部司の下部か山背の秦氏等、限られた者だけだろう。
なのに此処では同じ様な高機が城にも里にも何台も置かれているのだ。
小角の言葉に阿弖流為はやや自慢げに笑った。
「渤海国の商人には手に入らぬものは無いようだ。これは大唐の機だと言うからな」
「唐か。」
小角には想像もつかない遠い国だが、真備も玄昉も十八年に渡って暮らし、学んだ国だ。
そして不比等が、仲麻呂が、律令の規範を求めた国でもある。
平城の都の東宮坊で阿倍内親王と共に、東宮学士だった頃の真備から律令についての綿密な講義を受けた今は小角にも理解出来ている。
法と令は国家を成り立たせ、存続させていくためには必要不可欠なものだ。
だが国が大きくなればなるほど、法と令は民の暮らしから離れていく。
首(聖武帝)も阿倍も、法令と民の間の溝を仏の教えで埋めようとした。
確かに官と民の人心は行基の導きと仏の教えの許に一つになったかの様に見えたが、実際に起こっている事象は何も変わりはしなかった。
嘗て真備と玄昉と語ったように、治水の利が計られていないあの都は多くの民を抱えては機能出来ない。
今も都では官も民も病の蔓延に苦しんでいるだろう。
都だけでなく、五畿七道の国々では労役で働き手を奪われた令民が重い調に喘いでいる。
新たに開墾を進める力など民には残されていなかった。
肥大した法と令は時流に遇わせて翻すことが難しくなる。
墾田永世私有法が寺社と一部の大氏族の高官や外官だけに利をもたらし、令民には苦しみしかもたらしていないと身を持って知っていた道鏡は、実権を握ると真っ先に百官の反対を押しきってこの法を禁じた。
だが、それによって道鏡は多くの高官や寺社から恨みを買うことになった。
阿倍の死と道鏡の失脚で、今は真備が孤軍奮闘してはいるだろうが、どうなっていることか。
そして法と令は振りかざし方を変えれば、他の地の民を圧迫する大義名分ともなる。
朝廷と同じ大和の地にあった葛城と、遥かに都を離れたこの地では更に事情が違う。
この地を朝廷が征しようとする目的は、どんな大義名分を謳っても、結局は朝廷の領土を広げ、その地の民ー併呑する為の侵略に他ならない。
「小角、この綺麗な反物は何に仕立てるつもりだ?」
考え込んでいた小角に弓弦葉が明るい声で訊ねた。
「長衣はどうだろう」
物思いから醒めて小角は反射的に答えた。
「ああ、そりゃあ良い。さぞ悪路王に似合うことだろう」
阿弖流為に言われて、急に小角は自信無さげな声音になった。
「私には毛野の民の衣の仕立て方が分からないのだが」
弓弦葉が「長衣ならこの意匠が引き立つな。吾は織物は下手だが縫い物なら任せておけ」と朗らかに笑った。
その夕べ、小角はいつものように玻璃の部屋で話し込んで、部屋へ戻った。
珍しく司馬女は部屋に居なかった。
小角は手を洗うつもりで大きな水差しを持ち上げた。
手応えに違和感を感じ、角盥(両持ち手の付いた盥)へ水差しの中身を静かに空けた。
そこには僅かな水と共に二尺程の太々しい蛇が蠢いていた。
銅銭を思わせる丸い模様で蝮と直ぐ知れた。
余程怯えているらしく鎌首を持ち上げ大きく口を開けて必死に威嚇している。
背後で息を飲む気配がした。
振り向かなくても司馬女だとわかった。
小角は角盥から目を離さず静かに言った。
「司馬女、怖がらなくても良い。今、こいつは気が立っているようだから急に動いたり大声を出してはいけない。それとこの事は誰にも話しては駄目だ」
そう怯えるな。
私はお前を害したりしないぞ。
直ぐにお前の気に入りそうな場所へ連れていってやる。
小角は蝮を宥めながら角盥を持って城の外へ行き、沢の畔で離してやった。
誰とも行き合わなかったが、背後にはずっと視線を感じていた。
長衣が仕立て上がった日、小角は大墓の里から帰ってすぐに玻璃の許へと向かった。
午の刻あたりだった。
それまで小角は玻璃が昼間何をしているのか気にかけた事が無かったが、階下に高丸が控えているのを見て足を止めた。
高丸が小角を掌を挙げて制し、「待て。今は駄目だ」と短く言った。
激しい勢いで階上の戸が開けられ、憤懣やる方無いといった顔の母禮が飛び出してきた。
母禮は小角を見て、何か言いかけたが、後を追うように掛けられた玻璃の制止の声を背に受けて口を引き結んで歩み去った。
阿弖流為の声が「待て悪路王、俺が話してこよう」と聞こえてきた。
階を降りてきた阿弖流為は、小角を見て笑顔を作った。
「済まんな。驚かせたか。悪路王は中に居るぞ」と言った後、高丸に「ご苦労だった。もう良いと悪路王が言っていた」と声をかけて立ち去った。
小角が部屋に入った時、部屋の中程の文台(机)の前で立っていた玻璃の肩には小さな赤茶色の生き物が載っていた。
漆に金泥で蒔絵が施されたきらびやかな文台の上には地図らしき物が描かれた大きな紙が拡げられていた。
どうも間が悪かった様だ。
小角が「出直してこよう」と口ごもった時、玻璃の肩に載っていた小さな生き物がするすると玻璃の躯を降りて小角の方へと寄ってきた。
その生き物は小角を見上げ、何の躊躇いもなく今度は小角の躰をするすると登ってきた。
赤銅色の背と白い腹と足が肩に留まると、長い胴が持ち上がり、漆黒のつぶらな瞳が小角の顔を覗き込んできた。
鼬によく似ているが、鼬より二回りほど小さな体つきで、小さな丸い顔があどけない。
頭頂から背にかけての毛色が特に赤みが強かった。
先だけ黒い長い尾がぴくりと跳ねた。
その生き物が顔を覗き込んで来たとき、小角はその気配に覚えがあることに気づいた。
金剛山の母刀自に似ている。
母刀自や土蜘蛛達ほど強いものでこそ無いが、霊気と言えるものだ。
「赤頭」
玻璃の低い声に呼ばれてその生き物は上体を捻って小角から玻璃へと目を転じた。
近寄った玻璃が白い手を差し伸べると、その生き物は体重を感じさせない身のこなしで玻璃の腕へ飛び移り、肩へと伝って行った。
「これは飯綱(オコジョ)という。深い山に暮らす生き物だが、小角は見たことが無いか?」
玻璃が訊ねてきた。
「ああ、初めて見る。鼬とは違うのだな。だがそれは並みの生き物ではあるまい」
小角の言葉に玻璃は微笑んで、飯綱の姿がよく見えるように肩を小角に向けた。
「そうだ、これは飯綱の姿をしてはいるが弱い地霊のようだ。どういう訳かは解らないが、数年前に突然窟に顕れて、時折吾の許へやって来る。吾の言葉もある程度解するようだ」
小角が覗き込むと再び飯綱は小角の肩へと跳び移ってきた。
背中を撫でてみると生き物の温もりと繻子のような、掻練りの絹のような滑らかな毛皮の手触りが伝わってきた。
「吾が赤頭と名を付けた」
小角は赤頭の背を撫でながら玻璃の顔を見上げた。
「玻璃は赤頭の気と土蜘蛛の気が似ていると思うか?」
玻璃はやや不思議そうな顔になった。
「似ているも何も、同じものだろう」
「そうか。そうだな」
やはりそうなのか。
これまで母刀自に近寄る機会は殆ど無かったのではっきりしなかったが。
高丸は御白様の御室でももう新たな土蜘蛛は生まれていないと言っていた。
それはつまり、御室の大地が、国つ神の力そのものが、衰退し始めたということに他ならない。
土蜘蛛の姿を採れずに山野の生き物の姿を纏ったのが母刀自やこの赤頭だとしたら。
してみると天狼は母刀自の仔では無かったのか。
だから天狼は老いて死んでいったという事か。
母刀自を最後に見たのは恵美押勝の乱で、焔に包まれた瀬田大橋の上で路を拓いてくれた時だ。
小角は頬に何か固いものが触れて物思いから醒めた。
飯綱が後足で立ち上がり、小さな前肢を揃えて頬に触れていた。
突然、飯綱は小角の躰を駆け降り、室内を忙しなくくるくると駆け回り、文台の上の地図に跳び乗ったと思うと、後足で立ってこちらを見上げた。
「赤頭」
玻璃の声が非難の色を帯びたが、赤頭は地図の上から動かなかった。
こんな大きな紙に描かれた地図とは、また随分と贅沢な物だ。
そう言えば盤具の里の作業場では楮で木綿の糸を紡ぎ、紙も漉かれていた。
小角が地図を見ると赤頭は前肢を下ろし、小角を見上げた。
描かれているのは殆どが略された意匠だったが、山脈や河、朝廷の城柵や駅路、毛野の民の集落などがほぼ一目で理解できた。
赤頭の足許に白銀城のある真鏡山が描かれている。
西に向かうと栗駒山から更に鳥海山まで西へ向かって丘陵が延びている。
その丘陵の中程に赤頭は不自然な格好で前肢を置いていた。
丘陵の北側には雄勝城が在る。
「赤頭は何か言いたいことがあるのか?」
小角は地図から顔を挙げて玻璃を見上げた。
「ああ、比羅保許山で戦が起こりそうなのだ」
朝廷は天平五年(733年)に大野東人によって最上川の河口近くにあった出羽柵を海岸線に沿って雄物川の河口近くへと北上させた。
その新しい出羽柵を足掛かりに鯨海(日本海)側から内陸へ領土を伸ばしたのが雄勝城だ。
この出羽柵と陸奥国の国府がある多賀城との間には雄勝城の東南を伊治、桃生と毛野の民の二大勢力地が囲んでいた。
近年のこの地方の攻防はそれぞれ国府の在る出羽柵と多賀城との間に駅路を結ぶ為に、雄勝城以南の地の安全を確保したい朝廷と、その地に暮らす桃生と伊治の民との争いだった。
桃生と伊治が相次いで朝廷に降り、一時的な休戦状態にあるのが今の状態だ。
だが、逃げ延びた伊治の民が比羅保許山(雄勝峠)周辺に集まっているらしい。
小角の表情に緊張の色が走ったのを見て、玻璃は言った。
「この地から兵は出ない。前の朔に例え戦端が開かれても伊治の戦に毛野の民は関わらないと評定された」
小角は先程の母禮の険しい表情を思い出した。
母禮はその決定を良しとしていないのだろう。
「小角、やはり冬前に出発するのは危険だろう。戦となれば陸奥国だけでなく東山道も東海道も物騒になる。春まで留まれ」
玻璃は穏やかな声音で話を続けた。
勿論駅路だけが道ではない。
毛野の民だけでなく、倭人の商人や東山道の国々の山樵達も山中に独自の道を持っている。
それらの道はいずれも険しいが、人目につくこと無く、最短の距離と日数で目指す地にたどり着けるものだ。
毛野の長老達が僅かな日数で集えるのも、阿弖流為が人目を避けて下野に簸を取りに行ったのもそういった杣道があればこそだ。
だが戦が起こるとそういった道は更に危険になる。
殊に睨み合いが続き斥候兵が頻繁に出る間は尚更だ。
「冬の間は勿論戦は出来ない。雪解けから暫くの田畑が慌ただしい間が最も安全だろう。雪解けまで留まれ」
小角は水差しに潜んでいた蝮を思った。
思えば以前にも部屋に百足が居たり、蟇が居たりしたことがあった。
百足も蟇も特に疎しとも思わぬ小角は気にも留めて来なかったが。
今思えばあれらも嫌がらせだったのだ。
水差しの一件から司馬女は大層気を遣って、小角の部屋に余人が入らぬよう計らってくれている様だ。
司馬女に要らぬ気苦労をさせるのは望むところではなかったが、玻璃の案じ声に異を唱える事はできなかった。
「そうだな、そうさせてくれるか」
小角の気乗りしない表情を見て、玻璃は微かに憂わし気な顔になった。
小角は急いで抱えていた衣を拡げた。
「阿弖流為に機を借りて織った布を、長衣に仕立ててみた。良かったら着てくれ。毛野で広く使われている織り方とは違う技法で織ったので珍しかろう」
拡げられた長衣は薄暗い部屋でも微かに光を放っている様に見えた。
「これを吾に?、小角が造ったのか」
玻璃の顔に驚きと喜びが広がったのが見て採れて、小角は胸が高鳴るのを感じた。
「世話になっているからな」
顔が紅潮してくるのを誤魔化そうと、慌てて素っ気なく言った。
「美しい紋様だ。夏の野に萌え立つ陽炎とはこういうものかな」
玻璃が衣の紋様を撫でながら呟いた時、小角は胸を衝かれた様な気がした。