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六月  作者: 賀茂史女
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第六部 伊治 四 節刀使

伊治 四 節刀使

延暦十三年(794年)

初春

陸奥国府多賀城(たがのき)に、長岡宮からの節刀使が到着したのは一月も半ばを過ぎた穏やかに晴れた日だった。

節刀使の一行は長岡宮から陸奥国までの長い道程を、騎馬の前駆を立て、輿の周囲には徒歩の従者が付き、薬師や下部、牛に引かせた荷車を従えて粛々と進んできた。

同じ陸奥国にあっても国府多賀城の置かれる広大な平野となだらかな丘陵地は、北にそびえる栗駒山と西へ連なる日高見の山脈が屋根となって雪雲を遮り、東南に広がる湾の先の大海がもたらす海風に守られており、冬中雪に閉ざされることは無い。

風こそ冷たいが、年も改まった。

雪解けを迎えるのはまだまだ先のことだが、駅路はもとより、森や雑木林から続く丘陵地の枯れ野に降り積もる残雪はさほど深くもない。

人の多く行き交う国衙の路の端に残る雪は、この好天があと数日続けば失せてしまうと思われた。

政庁の瓦屋根だけが白く雪を残している。

この季節でも常に雪が除けられている多賀城の大路は、今日はことに丹念に掃き浄められていた。

大路の脇の溝には除けられた雪が覗き、その前に衛士と白丁の官人が並び、背後では物見高い庶人が遠巻きに見守っている。

国府の門柵を潜った行列は、政庁へと続く大路を厳かに進んだ。


菰の掛かった素焼きの瓶を幾つもくくりつけた背負子を担った若者が脚を止めて、誰にともなく「大層なことだな。一体なんだ?。今しがた大門でも誰何されたが。」と低く訊ねた。

「都から大使様へのお使いだそうだよ。」

と言いながら振り向いた嫗は、陽に焼けた若者を胡散臭そうに見上げた。

髭こそ無いものの、髷を作らず一括りにした髪といい、彫りの深い容貌も頑丈そうな体つきも、毛野の血を引くと見受けられる。

身形はと言えば、粗末な倭風の麻の(あお)に古びた皮衣(かわぎぬ)を重ねていた。

俘囚でも無さそうだ。

媼は「見慣れない顔だが、何用だね。よくこんな日に国衙に入れたもんだ。」と言った。

眉の濃い朗らかそうな目付きの若い男は白い歯を見せて笑い、背に負う素焼きの瓶を媼に向けて見せた。

「この春(年明け)初めて焼き上げた藻塩を納めに来たのよ。入れてもらえない道理などあるはずも無いさ。」

若者の人懐こい笑顔に嫗は気を良くしたらしく、興味津々といった風の若者のために、行列を垣間見れるよう体をずらした。

周囲の庶人たちは老いも若きも、行列の厳かさに気圧されて、口々に声を潜め、根も葉も曖昧な噂話を語っていた。

大使が勅を頂くために都に赴くというなら常の事だが、大君からの使節がわざわざ辺境の陸奥へ勅を携えてくるとは聞かぬことだ。

伊治築城以前には、大臣(おとど)納言(なごん)よと呼ばれるようなお方が、遠路遥々遣わされたこともあったらしいが、近頃では絶えて無い。

しかもその使節が殊更大君に(ちか)しく、寵篤い貴人とは物々しい。

いよいよ戦となるものか。

大路を輿が往くのを遠目に見ながら、若者が「あれに都の貴人が乗っているのか。」と呟き、近くの翁が「ああ、何でもこの度の御使は大君が直々にお命じになられたそうな。」と勿体ぶって答えた。

絹の帳が巡らされた輿上には、無論貴人の姿は窺うことはできず、若者が投げた視線が一時鋭くなった事に気づいた者も居なかった。


伊治を明け渡せと言ってきた朝廷の使いを追い返した後、石盾(いわだて)阿弖流為(アテルイ)母禮(モレイ)から、冬の間、多賀城の様子を探る任を受けた。

国府へ出入りするために、千嘉浦(ちかのうら)の入り江近くで藻塩焼きに就く俘囚の翁のもとに置いてもらい、藻塩焼きを手伝っては調として納めるための運搬を引き受けてきたのだが、どうやらよい日に当たったようだ。

石盾(いわだて)は、荷の重さを感じさせない身のこなしで、群がる人の中から抜け出し、政庁の北門へと向かい、門脇の潜り戸で衛士に荷を見せて政庁へと入った。

背後から衛士が「今日はみな迎賓に忙しく気が立っているようだ。脇殿より内に近寄らぬよう気を付けろ。」と念を押す声に、石盾は振り向いて軽く片手を挙げた。

脇殿の調司(つきのつかさ)史生(さかん)が荷を改め、石盾に「式典が終わるまでは出れまい。少しここで待っていろ。」と奨めた。

「そうさせてくれ。」と答えた石盾は史生に目配せしながら、瓶と一緒に背負子に括ってあった(ひさご)を振って「猿梨の酒だ。こいつは強いが美味いぞ。一つどうだ。」と言った。

史生は心得た笑いを浮かべ、二人は藻塩を舐めながら酒を酌み交わし始めた。


行列は政庁の築地塀に開かれた南門の内へと歩みを進め、重々しい音と共に門が閉じられた。

前殿で出迎えに居並ぶ大使や外官の前で行列はその足を止め、担がれていた輿が降ろされると同時に、前駆も一斉に馬を降りた。

先頭の前駆が、朗々と節刀使の到着を告げ、口上を述べ始めた。

現御神(あきつみかみ)として大八洲を統べ治むる天皇(すめらみこと)が、詔旨として述べらるるお言葉を皆承るよう申し告げる。」

口上が宣明に移り、大君が大使の奏上により使節を選定した旨が述べられる中、大伴弟麻呂大使と官人は袖を合わせて頭を垂れていた。

酔って居眠りを始めた史生を置き去りにして、石盾は脇殿の陰に身を潜めて様子を窺っていた。

使節の目的が判れば阿弖流為(アテルイ)も母禮も事を図りやすかろう。

長々しく勿体ぶった宣明を大仰なことだと思いながらも石盾は耳をそばだてた。

聞き慣れない言い回しではあったが、その使節が戦の勝利を願う儀式のために遣わされたのだと石盾にも理解できた。

「これに因りて、朕の意に叶う者に節刀を携えさせて陸奥国に遣わすものなり。大使を初め国庁は宜しくこの旨に従い、使節を重んじよ。かく天皇(すめらみこと)の仰せらるる処を、みな承るべしと申し告げる。」

宣明が締め括られると国府の官人たちは、どうしたわけか落ちつかなげにざわついた。

輿の帳が開かれ、絢爛な装飾が施された沓が置かれた。

帳の内から白い大袖の衣の裾が垣間見え、白い(はかま)が覗き、大剣を捧げ持つ使節が輿から降り立った。

脇殿の陰で石盾は思わず挙げそうになった声を必死で堪えた。

幼い日の記憶でもあり、出で立ちも今とはまるで違うが、その使節の顔も漂う趣も、石盾には見間違えようも無かった。


多賀城から北に向かい、北上川の支流を一つ越える度に、野にも伝路にも、残る雪は多く深くなる。

玉造柵を越え、栗駒山を近く望む栗原駅舎(くりはらのうまや)あたりからは一段と積雪量も増えた。

栗原駅舎から東へと開墾の進む森の脇で、騎馬の兵を数名従えて、百済王俊哲くだらのこにきししゅんてつは作業の検分を行っていた。

残雪は人の(くるぶし)を越え、雪溜まりには膝あたりまでもが埋まる箇所もある。

役夫達にも細心の注意を払わせて開墾は続けられていた。

そこかしこで絶え間なく響く斧の音の中、(からたち)の脚を寄せて田村麻呂が問いかけた。

「節刀使がお越しというのに立ち会われなくて宜しかったのですか?。治部卿がおいでになると聞いていましたが。」

俊哲は苦笑いして「なればこそ吾は立ち会わぬ方が大使殿の不興を買わずに済むだろう。」と答えた。

重き身となっても壱志濃王(いちしのおう)はその性状から、公の場であっても俊哲と親しいことを包み隠すはずもない。

壱志濃王と俊哲が共に年若な頃から山部と親しんできた間柄であることは多くの官人の知るところだが、大使を差し置くかのような振る舞いは誤解を招きかねない。

「気苦労の絶えぬことです。」

田村麻呂が掛けた言葉に、俊哲は「それで事が旨く運ぶなら否やは無い。」と簡潔に答えた。

「虫麻呂はこの春の雪解けが常よりも早かろうと申しておりました。あるいは開墾が追い付かぬやも知れません。」

言い添えた田村麻呂は開墾作業が続く森の奥へと目を向けた。

斧の音を圧して役夫たちが注意を促しあう掛け声が上がり、幹の裂ける鋭い音ととともに、繁った枝から雪を振り落としながら一本の大樹が倒れた。


山城国でも、昨夜降った雪がわずかに降り積もった。

長岡の都の仮宮とされた嶋院の昼御座所(ひのおまし)で、山部は前栽の様に眼を落とし、遠く北の空を見上げた。

「陸奥ではこのようなものでは無かろうな。」

山部の呟きに、文台の傍らに控えていた明信は視線を上げた。

「治部卿の仰せをお聞き入れになるとは思いませんでした。」と言った明信の目元が笑みを含んでいた。

振り向いた山部は憮然とした表情で「そもそも昔から、壱志濃王はこうと決めたら朕の言うことなぞ聞き入れた試しが無いのだ。やむを得まい。」と答えた。

明信がさらに口許に袖を当てて笑いを隠す姿に、山部は大晦の直前の思いがけない訪問を思い出した。

全く、思わぬ使節を向かわせる事になったものだ。


年の押し迫ったその日、突然執務室を訪れた壱志濃王の傍らに、今は鈴鹿を名乗る吉備命婦の姿を認めた山部は、怪訝そうな表情を押し隠すことが出来なかった。

山部自身は遷都の御阿礼(みあれ)を勤めたこの古の斎媛には、心中感謝こそすれ、再びまみえるつもりは無かったのだが。

壱志濃王は意味ありげな笑みを浮かべていた。

「陸奥への勅使に最も適した使者を見いだしたのでな。これは大君に奏上せずばなるまいと、急ぎ辞見(まかりもう)した。」

壱志濃王の言わんとするところを察した山部の表情は俄然険しくなったが、壱志濃王は意にも留めず屈託無く言葉を継げた。

「どうだ、この斎媛に陸奥へ赴いてもらうというのは。この斎媛が恵美押勝の乱の時同様に、授刀に当たっての神事で戦を言祝(ことほ)いでくれよう。」

黙したまま見上げる小角の眼差しを受け止めて、山部は眉を潜めた。

「大君たるもの、知と謂う()きものを心得、民の義を務め、鬼神は敬して遠ざくものと思ってきたが?。」

山部がやや皮肉を込めて壱志濃王に答えると、壱志濃王は我が意を得たりとでも言いたげな笑みを口許に浮かべた。

「義を見て為ざるは、勇無きなり、とも言うな。だからこそ大君は遷都に当たって、皇家に縁無い賀茂社に(へつら)うのかと謗りを受けても宇気比(うけい)を奉ったのでは無かったかな?。」

小角の眼が意外そうに見開かれ、山部はさらに渋面になった。

壱志濃王は小角に「御阿礼殿には関わり無いことだが、朝堂にはそんな声もあったのだ。民可使由之、不可使知之とは良く言ったものよ。」と耳打ちして、山部に向き直り、面を改めた。

「よく考えられよ。もとより無才の我が赴いたところで、治部卿という身分ばかりが物を言い、通過する諸国にも陸奥国にも余計な負担を掛けよう。さなること英邁なる我が君の望むところではあるまい。この斎媛であれば、使節としてのみならず、薬師としての働きも望めるのだぞ。」

山部は暫しの間、口をつぐんだまま、年上の従兄弟と齢永き斎媛を打ち眺めた。

「その能力(ちから)に疑いは無くとも、位階も無く、身分も無い者を、ましてや(おみな)を節刀使になど出来ようはずもなかろう。己が()のために陸奥へ赴くと言うなら好きにされるが良い。」

突っ慳貪な答えにも動ぜず、壱志濃王は「山部よ、使節に権限を与えることこそが大君たる者の役目だろう。」と両の腕を広げて肩を竦めた。

「忘れているようだが、この斎媛は畿内から出るのに誰に断りを入れる身でも無い。行きたければ行くだろう。この斎媛自身の意思でな。だが、この斎媛は敢えて大君の意向を担って陸奥へ赴きたいと言ってくれたのだ。」

山部は低く唸って小角に眼を向けた。

「それが鈴鹿殿の欲するところであるのか?。何を目論んでおいでだ。鈴鹿殿自身がかつて申されたように、朝廷に属さぬ者の意図とも思えぬが。」

山部の問いに、小角は深く息を吸った。

真備は死の間際まで、陸奥へ脚を向けてはならないと言い続けた。

真備よ、私はお前の遺志に背いてばかりだ。

それでも少しは私にも分別と言うものがついたかもしれぬ。

どれほど強硬に抵抗したところで、いずれ毛野国は必ず朝廷に下ることになろう。

真備も田村麻呂も、小角が毛野国の滅亡に葛城の民の離散を重ねて捲き込まれることを危惧したのだろうが。

小角は真備に心の内で詫びながら答えた。

「先の宇気比で大君は申されたな。新たな都は倭人のためだけのものでは無いと。私の望みも、他国の民と倭人が共に活きる道だ。大君は仁を重んじられると見受けた。大君が仁を持って陸奥での戦に臨むのであれば、その仁を討征軍に知らしめたい。節刀は天下に仁を(ゆる)すために授けられるのであって、毛野の民を滅ぼすために授けられるのでは無いと。」

山部は一息唸り、小角の真意を推し測るかのように頭から爪先まで打ち眺めた。

この言葉を額面通り受け取って良いものだろうか。

この底の知れない古の斎媛に、またも国事を委ねるのは如何なものか。

だが実際、宮の移転まで進んだ遷都事業を鑑みれば、壱志濃王の不在は避けたいところだ。

蝦夷征討に割ける国力に限りがあるからこそ、俊哲の唱える融和策に非公式に同意したのでもあり、戦が終わればその民を公民として受け入れていくことになる。

天下に仁を(ゆる)すと言うか。

長い黙考の末、山部は口を切った。

「では、この度の陸奥への節刀使は治部卿の推薦により、治部卿の縁者に委ねるとしよう。だがその者は決して(おみな)ではあるまいぞ。宜しいか?。治部卿自ら推薦状を調えて、後は治部省で良いように図ってくれ。典薬寮のことは尚侍に一任してある。」

再び口を開けば、今発した言葉を翻しそうな己を内心叱咤しながら、山部は二人に背を向けた。


昼御座所を退出した小角は立ち止まり、一時、壱志濃王を見つめた。

「王はなぜ私のために心を砕いてくれるのだ?。」

壱志濃王は愉快そうな笑みを浮かべた。

「なに、この寒中にさらに雪深い陸奥まで赴くなど真っ平だと思っていたところであったのでな。」

小角の鼻白んだ顔を見て、壱志濃王はひとしきり笑い、小角の肩を叩いた。

「実際陸奥で必要とされているのは、御阿礼殿のような方であろうよ。もっとも何をされるにせよ、只人として赴いたところでさしたることは成せまい。ましてや(おみなご)の身では難渋するばかりよ。虎の威も使いようというものだ。」

眉根を寄せながら「狐のために大君の不興を買ったかも知れぬぞ。」と言った小角の肩に手を置いたまま、壱志濃王は答えた。

「大君と我は旧い付き合いだ。我の口のききようなど気にも留めておられぬ。つまらぬことで心を煩わせ召さるな。」

鷹揚に笑う壱志濃王を見ながら、小角は、この君は自身の生まれを知っているのだろうかと思っていた。

もの言いたげな小角の顔に眼を落とし、壱志濃王はふと眼差しを深くした。

「先にも言ったな。母(海上女王(うなかみのひめきみ))も我も、御阿礼殿には大恩がある。」

語り始めた壱志濃王の声音は真摯な色を帯びていた。

「あの時世のことだ。王族の母がもし大君(聖武)のお子を授かっていれば、母もその子も、どのような憂き目にあったことか今なら容易に想像がつく。それを鑑みてくれた貴方のことだ、陸奥で為したいことが何であれ、天命に背くことではあるまい。」

やはりこの君は、自身の父が誰であるか、知っているのではあるまいか。

見開かれた小角の眼を覗き込んで、壱志濃王は柔和な笑顔を見せた。

その微笑は、滅多に笑うことなどなかった首が、ごくまれに寛いだ時にだけ見せた儚い笑顔によく似ていた。

「我はしがない末孫王ではあるが、今こうして在るのも貴方の志あってのことだ。我にできることであれば、助力は惜しまぬ。陸奥へ赴き、貴方が成すべしと思うことを存分になされるがよい。」


栗原駅舎から更に栗駒山に近い伊治柵の周囲も雪に覆われ、陽が落ちると同時に辺りには寒風が吹き荒んでいた。

伊治柵の建物の多くは宝亀の乱でも損なわれること無く残されていた。

嘗ての政庁には、棟続きの厨や湯屋の大竈の熱が床下を通って館全体を暖める白銀城と同様の仕組みがあり、この季節でも大竈に火がある間は暖かに過ごせる。

政庁の奥の曹司で、石盾を前に阿弖流為と母禮は腕組みをして黙り込んでいた。

都から多賀城に戦勝を祈る使いが到着したということは、この雪融けがすなわち開戦となることは容易に想像がつく。

後一月ほどで、御室では春の神事が行われ、悪路王はもとより、阿弖流為も母禮も御室へと赴くつもりだった。

百済王俊哲をよく知る伊佐西古(イサシコ)は、あの副使は不意討ちはせぬと言い切ったが、攻められるのがこの伊治柵であることは解りきっている。

母禮が重い口を開いて「お前が見た使節は確かに小角だったのか?。」と訊ねた。

憮然とした面持ちの石盾がやや不満気に「ああ、信じてもらえずとも仕方あるまいが。」と答えると、阿弖流為と母禮は眼を見交わした。

「覚えておこう。だが見定めるまで誰にも話すな。春の神事が終わるまではまだ雪も残る。すぐに戦とはなるまい。」

阿弖流為が言葉を切ると母禮が後を続けた。

「今しばらく多賀城の様子を探ってくれるか。戦となればあの副使二人が(かなめ)だろう。多賀城と玉造柵とが呼応するような動きがあれば、後を省みず戻ってこい。」

母禮の言葉に阿弖流為も頷いて、石盾は僅かに言い澱んで「ああ、出来る限りそうしよう。」と答えた。

館から出た石盾は、しばらく俊巡した後、重い足取りで伊治柵を後にした。

早く千嘉浦に戻らねば藻塩焼きの翁が心配するだろう。

翁は足腰が弱り困っていたところへ、黙々と働く石盾が現れ、藻塩焼き以外の日々の暮らしも石盾なしでは済まないほど大層頼りにしてくれている。

翁の二人の息子は巣伏の戦で朝廷軍の兵として参戦して死んだと聞いていた。

石盾がその戦の敵である母禮の継子とは知るはずもないが、時おり翁は戦の不条理さについて一言二言溢すことがあった。

翁の複雑な心境は石盾にも理解できた。

多賀城の官人も、毛野の民を蔑むものばかりでもないことも知った。

今では石盾自身も身よりの無い翁を捨て置けない気持ちになっていた。

行方がわからないと騒がれると厄介でもあり、何より弱った足腰で石盾を探しに出たら却って怪我でも負うかもしれない。

今は朝廷の使節のことは考えまい。

知と謂う()きもの

樊遅問知。

子曰、「務民之義、敬鬼神而遠之。可謂知矣」。

問仁。曰、「仁者先難而後獲。可謂仁矣」。

論語 雍也(ようや)第六


樊遅(はんち)知を問ふ。

子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して(これ)を遠ざく。知と()()し」。

仁を問ふ。

曰く、「仁者はかたきを先にしてることを後にす。仁と謂ふ可し」。


樊遅が知とは何かと孔子にたずねた。

「人として行うべきことを努めて行うことだ。鬼神(先祖の霊、人間を超えた存在の象徴)を祀ってその力に頼るのではなく、敬って遠ざけられる事が知だ。」

樊遅はさらに仁についてたずねた。

「人間として正しいことは、たとい労多くして功少なしと知っていても、あえて実践する態度、それが仁だ。」


義を見て為ざるは、勇無きなり

子曰、非其鬼而祭之、諂也、見義不爲、無勇也。

論語 為政(いせい)第二


子曰はく、其の鬼に(あら)ずして、而して之を祭るは(へつら)ふなり。

義を見て為ざるは、勇無きなり。


孔子の言に曰く。

祭るべきでないもの(自分の祖先以外の霊)を祭るのは、鬼神に諂って自分の利益を得ようとする行いと言えよう。

だが、正しい人の道はこうだと知りながら、自分の利益を考えて行わないのは、勇気の無い人間の振る舞いだろう。


天下に仁を(ゆる)す。

顔淵問仁。

子曰。

克己復礼為仁、一日克己復礼、天下帰仁焉、為仁由己、而由人乎哉。

顔淵曰。

請問其目。

子曰。

非礼勿視、非礼勿視、非礼勿言、非礼勿動。

顔淵曰。

回雖不敏、請事斯語矣 。

論語 顔淵(がんえん)第十二


顔淵、仁を問う。

子曰く。

「己に()ち礼に(かえ)るを仁と為す。一日でも己に克ち礼に復れば天下に仁を(ゆる)す。仁を為すこと己に由る、人に由らんや。」

顔淵、さらに請いてその目を問う。

子曰く。

「礼に非ざれば視ること勿れ、礼に非ざれば聴くこと勿れ、礼に非ざれば言うこと勿れ、礼に非ざれば動くこと勿れ。」

顔淵曰く。

「回、不敏と(いえど)も、請うた()の語を事とせん。」


顔淵が孔子に仁について問うた。

孔子は答えて言われた。

「自己に打ち克って礼を省みることが仁である。

たとえ一日でも自己に打ち克って礼に立ち返ることができれば、天下の人民はその仁に帰服するだろう。

仁の実践とは自己の努力に由来するので、他人に教えを乞うては仁の実践はありえない。」

顔淵がさらに問うた。

「どうか、仁を目指すにあたっての具体的な指標について教えてください。」

孔子はこう答えた。

「礼に外れるならば見ない。礼に外れるならば聴かない。礼に外れるならば言わない。礼に外れるならば行動を起こさない。」

顔淵が慎んで申し上げた。

「私は愚鈍なものであります。どうか先生の仰ったことを実践させて頂きたく思います。」


顔淵(顔回)

孔子の弟子の中でも特に、理解の才にも学ぶ姿勢にも秀で、孔子からも他の弟子からも孔子の後継者と見なされていた。

仁についての答えも、顔淵に対しては他の弟子たちへの答えよりも推し進められたものであると考えられている。

早逝した顔回を悼んで、孔子は「天、我を滅ぼせり」と嘆いた。

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