表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六月  作者: 賀茂史女
47/53

第六部 伊治 弐 玉造柵

延暦十二年(793年)冬

玉造柵(たまつくりのさく)の城門からその武官が姿を消した後、高丸(たかまる)は「先に白銀城(しろがねのき)に戻る。」と言い残して立ち去った。

阿弖流為(アテルイ)母禮(モレイ)石盾(いわだて)も物音を立てないよう藪を抜け出して背後の森へと身を隠し、馬を繋いだ場所へと戻った。

手綱を解きながら、不意に石盾が「あの戦道はずいぶん見通しが効くが、いつからだろう。」と言った。

阿弖流為と母禮が不思議そうに石盾を振り向いた。

「皆を追っているとき、戦道に乗り入れた途端、辺りが開けた。巣伏の戦の内偵をしていた頃はあんなでは無かったように思うのだが。」

石盾の言葉に思い当たって、阿弖流為と母禮は改めて辺りを見回し、顔を見合わせた。

周囲の森が拓かれている。

あの武官の差配か。

「赤頭には気の毒だが一刻も早く悪路王に目覚めてもらいたいな。結界の強化を急ぐとするか。」

今にも雪の降りだしそうな鉛色の空を見上げて、母禮が呟いた。

阿弖流為も母禮も、これまで百済王(くだらのこにきし)俊哲(しゅんてつ)の動向を重く見て注意を払ってきた。

多賀城には、今も阿弖流為の意を受けて朝廷の動向を知らせてくれる者もいたが、あの副使が玉造柵に居るとなれば、どうやら今後は玉造柵も捨て置けぬようだ。


この年初めて栗駒山の頂きが白く彩られた日、七魚は赤頭への御魂降ろしを行い、その夜、悪路王は長い眠りから目覚めたのだった。

どこか誇らしげな赤頭も、少なくとも傍目にはいつもと変わり無いように見え、阿弖流為は胸を撫で下ろしていた。

悪路王は多くを語らず、皆に感謝と慰労の言葉を掛けた面差しには、何かを思い定めたような気色が垣間見えた。

阿弖流為は悪路王の様子を注意深く見守りながら言った。

「済まんが、俺ではもう長老たちの疑いの目を誤魔化しきれぬ。悪路王には、次の大祭にどうあっても御室まで出向いて貰わねばなるまい。七魚と高丸もそのつもりで居てくれるか。」

「ああ、そうしよう。無論、その次の大祭もな。」と答えた悪路王に頷いて、阿弖流為はこのところの出来事として、先日出会った倭人の武官について詳細に語り、母禮も思うところを補った。

二人の口ぶりに悪路王はわずかに口の端を上げた。

「二人ともその(いくさのきみ)をよほど買っているようだな。」

揶揄するような悪路王の言葉に、二人は剥きになって口々に異を唱え、悪路王はそんな二人の様が可笑しいと久しぶりに笑顔を見せた。

「雪が降り出せば無駄に兵は動かすまいが、確かに気にかかる(いくさのきみ)だ。異国人(とつくにびと)のような姿で土蜘蛛をも滅するか。」

悪路王は不意に何かを思い出したように「名は何という?。」と訊ねた。

悪路王の問いに阿弖流為は「征夷副使、坂上大宿禰(おおすくね)田村麻呂と名乗ったな。」と答えた。

口の中でその名を繰り返し呟いて、小さく頚を振り、悪路王は金色の眼を細めて「征夷などよく言うものだな。」と冷ややかに言い捨てた。


多賀城で百済王俊哲は、田村麻呂の整えた伊治柵近辺の詳細な地形と、北上川の測量を記した地図を前に低く唸った。

「生憎、栗駒山の南麓までは踏み込めませんでしたが、伊治柵の付近の地形は概ね知れました。確かに攻めるに難く、守るに易い立地と思われます。」

伊治柵の東から北上川までの間に広がる開けた地は、一見緩やかな起伏を持つ丘陵地と見えるが、その実、北上川の支流が複雑に入り組んだ湿地帯であり、葦原の中に多くの(やち)が隠れ、自然の壕の役目を果たしている。

この丘陵地のやや北には数ヵ所に広い水面を持つ沼があり、南にはうち棄てられた広大な集落と農地が荒れ果てたまま放置されていた。

これは伊治築城の頃に柵戸のために拓かれた糠塚邑(ぬかづかのむら)の跡で、宝亀の乱までは一大集落として機能していたが、今や灌漑用の水路がかろうじて姿を留めるのみとなっていた。

東南へ緩やかに下る丘陵地は城柵の物見楼から一望でき、近づく者を許さない。

城柵の北は栗駒山の山麓から続く深い森が迫り、西には出羽陸奥伝路から延びる支道が半ば森に呑まれており、共に大軍で寄せる事は難しい。

俊哲は地図を見ながら「攻めるとすれば西だな。」と言った。

「仰せの通りです。大使殿に伊治攻めを提唱するに当たっては、伝路を改修する案を出しては如何でしょう。その後、伊治柵の毛野の民に、伝路の改修を進める旨を勅として伝え、朝廷の城柵として返還を要求致しましょう。」

澱み無く語る田村麻呂の面に眼を向けて、俊哲は「無論応じまいな。」と答えた。

「さもありましょう。さすれば我等は弓箭を持って対すほかありますまいが、志波の民の協力が得られるのであれば東の脅威は無いものと考えて良いでしょう。」

文台に屈み込んでいた上体を起こし、腕を組んで瞑目した俊哲に、田村麻呂は更に言った。

「改修に当たっては雄勝の流民達を動員するのも一策でしょう。そも森の開墾であれば冬に行うが慣わしです。」

大きく一つ息をつき、俊哲は眼を開けた。

「吾はこの(えき)に向けて兵役に着くならと流民も受け入れてきたが、大使殿のお考えは違う。大使殿は家持殿の下で常陸介から征東副使に抜擢された来歴をお持ちだ。これまで流民や移民が柵戸として良く定着せず、のみならず周辺の令国にも害を為してきたことを充分にご承知だ。実際、兵として(つか)っても到底優秀とは言えぬ。所詮は雑兵の寄せ集めでしかない。」

言葉を切った俊哲はやや皮肉な口調で「吾に言わせれば先に望みが見えぬからなのだがな。」と付け足した。

「伊治を落とせば、嘗ての糠塚(ぬかづか)の集落が柵戸の農地として配給できましょう。あれは良い土地と見えました。兵役に着かずとも、公民(おおみたから)として生きる道があると知らせてやればおのずと人の(さが)も変わりましょう。」

田村麻呂の熱弁に俊哲は再び考え込んだ。

「糠塚か。確かに宝亀の乱以前の田租の大方はあの土地で産していたが、今は荒れ放題の地だ。果たして大使殿が何と見るかだな。」

「嘗ての正倉の台帳などは残っておりませんか。大使殿はこの陸奥国と所縁深い大伴のお生まれです。大伴氏は歴代の(かみ)按察使(あぜち)も輩出しております。先人の記録があれば大使殿への訴求力も増しましょう。」

「正倉の台帳か。多賀城では宝亀の乱ですべて灰に帰してしまったからな。いや、だが、待て。」

俊哲は唐突に円座(わろうざ)から立ち上がった。

その表情はまるで田村麻呂の熱気が移ったように高揚していた。

「亡き道嶋の中将が御盾に記させたものがある。台帳では無いが、正倉の出納も記されていた。」


国司館に訪れた副使二名を前に、征夷大使、大伴弟麻呂は思索を巡らせていた。

弟麻呂にとっては、そもそもこの戦の発端は宝亀の乱であり、自身が初めて陸奥に任官したのも、乱平定後の東国守護のためだった。

今回の派兵に当たっては胆沢城造営がその目標とされており、弟麻呂自身は北上川の巣伏付近に布陣して橋を掛ける事を考えていた。

自身より年嵩で宝亀の乱以前の陸奥を知り、人望厚い俊哲は、副使としては頼りになると同時に煙たい存在でもある。

着任後、これまでは特に衝突もなく、円滑に執務を執れたのだったが、ここに来て、戦略の転換を建議されるとは思ってもみなかった。

橋と水路は戦に欠かせない。

だが橋を掛ける事自体に危険が存在することは確かだ。

川を背に布陣しては巣伏の二の舞になるだろう。

紀広純(きのひろずみ)紀古左美(きのこさみ)も北上川上流に拠点を造り、北上川を輸送路として資材を調達するつもりだったのだろうが、後方に不安を残したまま北上するなど無謀としか言いようが無い。

志波の蝦夷の協力を取り付けた今だからこそ、滔々たる北上川はより良い利用法があるはずだ。

それが大君の寵篤い副使二人共から難色を示されるとは。

(さき)の討伐軍の覚鱉城(かくべつのき)の失敗を鑑みれば、胆沢城(いさわのき)の造営は未だ時期尚早と思われます。」

俊哲は田村麻呂を促して地図を広げさせた。

「これは坂上少将の案ですが、」と前置きして、俊哲は田村麻呂の提唱した伝路修復と伊治柵奪還の必要性を諄諄(じゅんじゅん)と説いた。

後方を確保しないまま胆沢へは向かっては、再びの敗戦への危惧は拭えない。

先ずは奪回されて久しい伊治柵を再び攻め落として万全を期されては如何か。

雄勝の流民を役夫として動員しても、戦端が開かれれば調は減じられようから、冬中その口を養うだけの余力は存在する。

さらに伊治を奪い返した後、それらの役夫を柵戸とすれば、伊治は翌年から田租を上げられるだろう。

伝路修復が成り、周辺の集落を懐柔できれば、なお確かな足掛かりとなる。

大伴弟麻呂は良く手入れされた顎髭を撫でながら、俊哲に眼を向けた。

「副使の申すところは、要約すれば宝亀の乱以前の情勢に戻すという事だろう。それは即ち大野の将軍(いくさのきみ)の時代まで遡るようなものでは無いのか?。それで大君に成果として何を申し上げる。」

俊哲は田村麻呂に眼を向けた。

「大君には、この坂上少将が、東国を益有る令国とするには首級で戦果をお量りくださるなと陳情しております。」

袖を合わせて礼を返しながら、田村麻呂は胸の内では、その後、話に聞く悪路王か、先に遭遇した並々ならぬ毛野の将と交渉することまでを考えていたが、今、口に昇らせることは控えた。

俊哲はなおも熱弁を奮った。

「例え一時代後退した様に思われても、この陸奥国を令国として栄えさせることこそが肝要と言えましょう。宝亀の乱からこの方、陸奥国は本来あるべき姿では無いのです。これをご覧ください。」

俊哲から献じられた、綴られた木簡に眼を通しながら、弟麻呂は幾度も唸っては年号を確かめた。

それらの木簡は、旧くは先帝の御代の陸奥案察使(あぜち)、大伴駿河麻呂の許可を得て払い出された備蓄や武具の目録、各郡から国府の正倉へと納められた税の出納といった一見雑多な記録ではあったが、年代ごとに綴られており、記されている租税台帳の写しの中で、栗原郡の田租の穀高は郡を抜いていた。

宝亀の乱以前の陸奥経営の記録はすでに無いものと思っていたがと思いながら、弟麻呂は「この記録は?。」と訊ねた。

問われた俊哲は、突然胸に熱いものが込み上げてきたのを強いて抑えた。

「そもそもは亡き道嶋中衛中将が、陸奥の俘囚が神火騒動の罪を蒙らぬようにと記録を控えさせていたものだそうにございます。その子である牡鹿柵の大領が、その後もたゆまず記し続けて、今日まで伝えておりました。」

弟麻呂は一際大きく唸って考え込んだ。

自身が初めて陸奥に着任した頃には、栗原は既に戦で荒れ果てた地であった。

当時の陸奥案察使は大伴氏の氏長者であり、敬愛する大伴家持であったが、年若い弟麻呂によく、伊治との境に立つ、戦火に耐えた松の話をして聞かせた。

松は皇統の象徴。

あれこそが、嘗て伊治が令国であった証だ。

「栗原郡にて以前と同様に田畑が営めるようになれば、これだけの益が見込めるのです。今すぐにとは申しません。何卒ご一考頂きたい。」

退出する段になって、俊哲は思い出したように言い添えた。

「坂上少将はこの地図を整えるに当たって蝦夷の将数名と遭遇したそうです。その将は多賀城に兵が集められている事を承知しており、蝦夷の側にも何やら策があるような口ぶりだったと言うことでした。」


数日の後、多賀城で行われた軍義で大伴弟麻呂は、列席する副使の顔ぶれを見渡して、重々しくこの度の征夷軍の戦略転換についての懸案を述べた。

「百済王副使より提案のあった伊治攻めについて、よくよく検討してみた。大君の栽可を仰ぐ前に幾つか確かめておきたい。」

弟麻呂の視線を受け止めて、俊哲は頷いた。

「先ずはこの冬の間に、旧出羽陸奥伝路の改修を雄勝を目指して進めるとする。これについては玉造、色麻両柵を拠点とする。役夫には雄勝の流民の動員も認めよう。伊治城の蝦夷にはこの改修に伴い、城柵の明け渡しを申し渡す。これについては百済王副使に一任しよう。」

立ち上がった俊哲は袖を合わせて「承りましょう。」と深々と頭を垂れた。

「恭順の意が得られず、伊治城の明け渡しが成らない場合には、多賀城から兵を出し、東山道(やまのみち)を北上して玉造、色麻の両柵、東海道(うみつみち)を北上して牡鹿、桃生(ものう)両柵を後援とし、先の御代の伊治攻めと同じように伊治城を囲み、攻め落とす事を目指す。宜しいか。」

居並ぶ副使が口々に「応」と答えると、弟麻呂は満足げに俊哲に眼を向けた。

「早急に奏上をまとめよう。駅馬で都に使者を向かわせる。伝路修復については大君の栽可を待つまでもあるまい。進めてくれるか。」

俊哲の力強い声音が「確かに承りました。」と答え、高揚した眼差しが田村麻呂に向けられた。

田村麻呂は藍色の眼でその視線を受け止めて、僅かに顎を引いて頷いた。

漸く、道嶋中将と父の悲願が形を成し始めたのだ。


「何やら、毘沙門天の化身殿は、またしても天邪鬼(あまのじゃく)を成敗したそうだな。何が起こったのだ。」

軍義が散じた後、田村麻呂に歩み寄った俊哲が笑みを含んだ口調で言い、田村麻呂は答えあぐねて「天邪鬼と申しますか。確かに異形の姿ではありますが。」と言い澱んだ。

その間に俊哲の思考は既に伝路修復へと移ったとみえ、「雄勝へ勅使を出すが、当座の受け入れ先は玉造柵で良かろうか?。寄り来る端から労役に駆り出して叩き台にかけるしかあるまいが。」と言った。

田村麻呂は苦笑しながら「そのように致しましょう。」と答え、「伊治柵への勅使はどうなさるおつもりで?。」と聞き返した。

俊哲は唇の片端を上げて皮肉な笑みを造った。

「狡いようだが、我が方は伊治攻めについて大君からの栽可が降りるまでは動けぬな。まずは阿弖流為の出方を見るとしよう。改修を妨げる様であればその時には公に勅使を出す。」

聞きなれぬ名に、田村麻呂は「阿弖流為とは?。」と訊ねた。

俊哲はさらに笑みを深めた。

挑むように眼を輝かせ「巣伏で東征軍を手玉に取った蝦夷の将だ。侮れぬ男ぞ。今は伊治柵の(あるじ)よ。」と答えた声音は、抑えきれない昂りを帯びていた。

田村麻呂の脳裏に、先日まみえた威厳ある毛野の将の姿が過った。

確かあのとき、あの将は阿弖流為と呼ばれていなかっただろうか。


冬を目前にして、暮らしに困窮する流民の多くが役夫の動員に応じた。

常の(よう)で徴発されれば、己が口は自身で養うのが当たり前だ。

屋根のある寝場所が与えられ、その上粗末ではあっても糧食(かて)まで給される労役など聞いたためしがない。

更には戦役が終わるまで勤め挙げれば、望むものには公民として口分田が配されるとは、なんと破格な労役か。

田村麻呂は前もって、廃屋同様だった栗原の駅舎を改修させてあり、玉造柵で徴発の申し立てをした者から、次々と仮拵えの駅舎へ送って(えき)に就かせた。

実際に路面の版築に携わる以外にも、為せる事は幾らでもある。

年老いた者も、身体に障りが有る者でも、徴発に応じたものには仕事が与えられた。

中には読み書きのできる者や、元は才伎(てひと)であったり、寺社の下部であった者などもあり、田村麻呂は何がしかの才が認められれば、忽ちに伝路造営以外にも見合った仕事を与えさせたが、同時に盗みや私闘は厳しく禁じた。

反すれば容赦無く罰則を下したが、咎の後には再び常の役に就かせた。

はじめのうち押し寄せる流民に眉を潜めていた玉造柵の大領も、集められた流民が、さしたる混乱もなく労役に駆り出されて行くことに胸を撫で下ろし、田村麻呂の手際の良さに密かに感心した。

本格的に雪に閉ざされる前に、玉造、色麻、旧栗原駅舎間の路面改修を終わらせ、雪が降り積もる季節には周辺の森の伐採を行うことが目標とされ、路面の版築は順調に捗った。

田村麻呂は毛野の民の妨害を懸念して、作業の区間には、太い丸太を連ねた頑丈な矢避けの置き盾を幾台も運ばせ、騎馬と徒歩合わせて数十名の衛士を配置した。

衛士達は重く巨大な置き盾を副使殿の気休めと名付けて笑い話の種にした。

改修が栗原駅舎を越えたある日、作業に入る前に、辺りの検分を行っていた衛士が蝦夷の斥候兵と出くわした。

双方が矢を射掛け合い、栗原駅舎では(とぶひ)が焚かれた。

烽を見た田村麻呂が玉造柵から遊撃兵を率いて駆けつけて斥候兵を撃退するまで、その置き盾が役夫達の身を守った。

斥候が出るようになったのは、此方の意図に気づいたからか、或いは伊治柵に近づいたためか。

いずれにしろ、これからは同じような事が頻繁に起こるだろう。

田村麻呂は騎馬の衛士を増員し、日に数回、辺りを検分させ、川を背にせず、森を伐採させながら地の利を稼いだ。

鉛色の雲に閉ざされた空から白いものが舞い降りてくる日も増えてきた。

路面が雪に覆われてしまえば版築は行えない。

季節との競争だ。

田村麻呂の予測通り、その後も度々、蝦夷の騎兵が姿を顕す事が重なり、小競り合いが繰り返された。

毛野の騎兵は森の中でも馬を巧みに操り、見通しの効かない場所から飛距離の長い(いしゆみ)で矢を射掛けてくる。

逃げ遅れたり、流れ矢を受けて負傷する者が出るようになると、役夫達は怯えて、工程は俄然捗らなくなった。

見えない襲撃を怖れ、苛立つ衛士や役夫に田村麻呂は辛抱強く説き続けた。

「焦ってはならない。森は敵だと思え。開けた地で同胞(はらから)を頼ってこそ互いの身を護れる。先ずは道を均し、森を拓くのだ。」

田村麻呂は襲撃を受けた時には、川ではなく、開けた地に出て陣を組むことで、森から毛野の兵を引き出させるよう役夫達に言い含めた。

やがて重い矢避けの置き盾を運ぶことに不平を言う者は居なくなった。

衛士達は周辺の森を焼き払う事を提案してきたが、田村麻呂は火を使わせなかった。

森に火をかければ、戦端を開くことになる。

大君の栽可を待たず、伊治攻めに踏み切ることは出来ない。

都からの返事は待てど届かず、弟麻呂は元より、俊哲も言動に内心の焦りが滲むように見受けられたが、田村麻呂は黙々と伝路修復の工程を進めさせた。

例え伊治攻めに我が君の栽可を得られずとも、伝路改修は後に必ず必要となる。

今為すか、後に為すかだけの違いだ。


やがて雪が降り続く日々が訪れる頃、漸く都からの勅使が駅鈴を携えて多賀城を訪れた。

俊哲は直ちに数名の精鋭兵を率いて玉造柵へと向かった。

前触れに俊哲の到着を知らされて、政庁の門で出迎えた田村麻呂は、馬上の俊哲の瞳の輝きに、時が至ったと知った。

「多賀城に長岡より勅がもたらされた。大君はこの度の征夷大使の奏上を受け、征夷大将軍に全権を預けると(のたま)われた。征夷大使、大伴弟麻呂殿はこれを奉勅された。追って新春には節刀使が多賀城に向けて出立するとのことである。」

朗々と俊哲の声が響いた。

玉造柵に着任してから朝服を身に付けていない田村麻呂は、笏の替わりに腰に佩く蕨手刀を都の方角に捧げ持った。

「重畳なり。誉むべきかな、英邁なる我が君。」

深々と一礼して向き直った田村麻呂に、俊哲は「吾はこれより伊治柵に向かい、城柵を占拠する蝦夷に勅命をもって退去を申し渡す。」と告げた。

田村麻呂は馬上の俊哲に蕨手刀を捧げて「お供つかまつりましょう。」と答えた。


嘗ての政庁を改造した館の内に居た阿弖流為と母禮のもとへ、伊治柵の物見が慌ただしく「倭人の騎兵が数騎連なって向かって来る。先頭の一騎は幡を掲げている。」と報せをもたらしたのは雪雲に閉ざされた空が薄暗くなる頃だった。

阿弖流為と母禮は顔を見合わせた。

わざわざ物見の目につくように来たのであれば、あるいは某かの使者か。

伊佐西古(イサシコ)に門柵の前で停めさせろ。迎え撃つなよ。弩の用意はするが、合図があるまで構えるな。今、事をはじめるつもりではあるまい。」

阿弖流為の声に、柵の内では慌ただしく備えが固められた。


俊哲は伊治柵の門柵の前で、徒歩(かち)の兵を率いて待ち受けるのが、宝亀の乱の決起で対峙した吉弥候(きみこの)伊佐西古(イサシコ)であると気付いた。

伊佐西古(イサシコ)自身は片手に(たいまつ)を掲げ持つだけだったが、周囲の兵は皆、矢をつがえた弩を手にしている。

手綱を引いて馬を停めた俊哲は、供の兵の脚を停めさせて、一騎で伊佐西古(イサシコ)に慎重に近付いた。

伊佐西古の陽に焼けた浅黒い肌に刻まれた幾筋もの皺が、自身と伊佐西古の間に、供に長い時が流れたことを物語っていた。

だが一見皺に埋もれているかに見えるその眼が俊哲を見上げた輝きからは、伊佐西古の冷静さはあの日から微塵も鈍ってはいないと見受けられた。

「久しいな、伊佐西古(イサシコ)よ。」

かけられた俊哲の声に、伊佐西古(イサシコ)は恭しく「将君(いくさのきみ)よ、ご用件を承りましょう。」と答えた。

「吾は征夷副使、陸奥鎮守副将軍百済王俊哲。この日の本の国に天の下(しろし)召す天皇(すめらみこと)より、勅を戴き、伊治柵を簒奪し、占拠する毛野の民に申し伝えることがあって参った。」

紫綾の紐の掛かった文箱を掲げた俊哲を打ち眺め、伊佐西古(イサシコ)は落ち着いた声音で告げた。

「この柵に住まう毛野の民に、倭人の威はまかり通りません。どうぞ疾くお帰りください。我らが長にご用件とあれば、武装を解いた者であれば、柵の内に招きましょう。」

伊佐西古(イサシコ)の言葉に、田村麻呂は隣で馬を留めていた虫麻呂に手綱を預けて馬から降り、俊哲のもとへ駆け寄って馬銜を取った。

「私が参りましょう。」

烏造(くろつく)りの頭巾(ときん)の下から覗く癖のある後れ毛が、炬の光を受けて金色の閃きを見せた。

伊佐西古(イサシコ)は田村麻呂の異国人のような容貌を認め、すぐさま言い添えた。

「我らが長は倭人の大使、副使とまみえる所存はございません。」

梢が影を落とす暗がりから、二頭の馬の手綱を引いて虫麻呂が姿を顕した。

(やつがれ)が参りましょう。」

虫麻呂は胸の前で手綱持つ手を組んで「ご下命を。」と述べた。

田村麻呂は馬上の俊哲を見上げた。

俊哲は田村麻呂の視線を捉えたまま、僅かに顎を引き「(なれ)に任せよう。」と文箱を渡した。

田村麻呂は虫麻呂の手から手綱を受け取りながら「行ってくれるか。虫麻呂が行ってくれるなら、是非とも頼みたい事がある。」と耳打ちした。

微かに頷いた虫麻呂に、田村麻呂は潜めた声で早口に言った。

「虫麻呂が憶えている伊治柵と現状の違いを見てきて欲しい。無理はするな。気取られぬようにな。」

虫麻呂は眼だけで応え、跪いて文箱を授かった。

田村麻呂は炬の灯りの届く距離まで、文箱を捧げ持つ虫麻呂を連れて歩み出た。

伊佐西古(イサシコ)は無論、門前の毛野の兵の間に動揺が走った事を田村麻呂は感じた。

微かに「御白様?。」と呟く声がした。

「これなるは牡鹿柵の奴。毛野の民が使いに害を為さぬと誓うなら、我らはこの者に勅書を携えさせよう。」

伊佐西古(イサシコ)は虫麻呂の姿を打ち眺めた。

己と同じか、更に齢を重ねているだろうか。

粗末ではあるが、潔らげな(あお)(はかま)で、(よろい)の類いも武器も帯びず身を屈める小男は、奴と言うより馬の口取りの様にも見えた。

怖じ気づいた様子もなく、気負う風もない。

田村麻呂の藍色の視線を受け止めて、伊佐西古(イサシコ)は「承りましょう。」と答えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ