表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
六月  作者: 賀茂史女
46/53

第六部 伊治 壱 隠世

延暦十二年(793年)冬

「悪路王はどうだ。」

この数年というもの、阿弖流為(アテルイ)が白銀城の最上階の窓の無い部屋を訪れて、まず口にするのはこの言葉だった。

昨日までは、答えるのは高丸であったり、七魚であったりした。

だが、この日、振り向いた高丸と七魚が座した向こうの寝台の上では悪路王が身を起こしており、阿弖流為のかけた声に、悪路王の猛禽類を思わせる金色の目が向けられた。

「吾はここだ。阿弖流為、長いこと済まなかった。」

悪路王の口から、聞き慣れた低く太い柔らかな声が発せられて、阿弖流為は大きく一つ安堵の息を漏らした。

悪路王の膝の上にいたものか、白い冬毛に変わった赤頭が、阿弖流為めがけて一跳ねして来て、辺りを忙しなく駆け回った。

もう随分以前から、半ば幽境にある悪路王には答えるすべが無く、意を伝えられる高丸と七魚を介して辛うじて意思の疎通がとれる程度だった。

七魚は、赤頭も悪路王の意を理解しているとよく言い、阿弖流為はにべもなく「生憎俺が赤頭の意を汲み取れん。」と答えて七魚を憮然とさせてきたが、このときばかりは赤頭の浮かれ様も、どこか誇らしげな理由も理解出来るように思われた。

この日が来るまでの、なんと長く感じられたことか。


悪路王が初めて不豫(ふよ)に陥ったのは、呰麻呂(アザマロ)が伊治城を奪い返した戦(宝亀の乱)の直後だった。

出羽国府を落とし、雄勝柵の城門を破った母禮(モレイ)と、呰麻呂(アザマロ)の伊治城奪還の援護に向かった阿弖流為(アテルイ)は、それぞれ白銀城に帰還し、勝利の熱気に満ちて首尾の如何を悪路王に伝えた。

報告を受けた悪路王はその夜、自ら城を出て、野営地を回り、伊治城までも出向いて呰麻呂(アザマロ)にも会い、傷ついた毛野の兵たちを癒して回った。

そしてその後、白銀城に戻った悪路王は一昼夜の間昏倒した。

目覚めた後、阿弖流為の心配を他所に御魂振りを行うと窟に向かった悪路王は夜になっても城に戻らなかった。

高丸と阿弖流為が窟で見いだした時には深く眠っているように見えたが、高丸はこのままだと悪路王は目覚めないだろうと告げた。

「どうすれば良い。」と訊ねた阿弖流為に、高丸は隠世を知る者なら悪路王を呼び戻せるかも知れないと言った。

神守(みかみもり)ということか。だが他に神守と言っても」

阿弖流為は脳裏を掠めた小角の姿を打ち消して口ごもった。

高丸はその盲しいたような目を、寝台に横たえられて身じろぎもしない悪路王に向け「七魚なら、或いは。」と答えた。

七魚が御室に去って八年が過ぎていた。

成長した七魚は秀でた口寄せ()として、御室での神事を悪路王とともに幾度かこなしていた。

年頃の娘としては不自由な思いをするであろう目も、感覚を鋭敏にさせる利点があり、かつて一度は生死の境をさ迷ったことも幸いしたものか、七魚の口寄せには御魂振りの功徳があると悪路王も高く評価していた。

老い先短い呰麻呂(アザマロ)に、娘を逢わせたいと、表向き尤もらしい理由を付けて、御室から呼び戻された七魚は、事実を知って青ざめた。

それでも「為し遂げられるか判らねが、試みてみるより他あるまい。吾一人では到底及ばねども、赤頭なら隠世でも悪路王を見いだせよう。悪路王さえ見いだせば、還るは難しぐね。」と阿弖流為の望みを容れた。

果たして悪路王を目覚めさせることは叶ったが、悪路王と呰麻呂と阿弖流為は今後について激しく言い争った。

呰麻呂と阿弖流為は長老達の評定を仰ごうと言い、悪路王は今まで通りで良いと言い張り、互いに譲らなかった。

終いには七魚が「もう止せ、お()、阿弖流為。吾が傍で出来るだけ悪路王を()ける。それで()が?、悪路王。」と割って入った。

悪路王と呰麻呂、阿弖流為はこの提案を渋々受け入れた。


城の娘たちは長く居る者から順に、各々の里へ帰され、新たな娘たちが城に上がり、白銀城の娘たちの顔ぶれは大きく変わった。

司馬女は七魚が戻ったことを大層喜んだが、ほどなくして亡くなり、替わって七魚が悪路王の最も身近な存在となった。

やがて呰麻呂は後事を阿弖流為に託して、眠るように息を引き取った。

しばらくは悪路王の様子に変わりは無いと見受けられたが、阿弖流為は七魚に目を離してくれるなと念を押した。


五年前、巣伏の戦へ向けて備えが進む頃、七魚は思うところあって自ら他の娘たち同様に、悪路王の床に侍ることを望んだ。

そして巣伏の戦の後、悪路王は再び昏倒した。

この時も七魚が赤頭を連れて悪路王の意を探しに隠世へと降りていき、現し世へと連れ戻したが、目覚めた悪路王は何処か心ここに在らずな風だった。

集っていた高丸と阿弖流為、母禮、石盾に、七魚は険しい表情で「まず、良ぐね。大層困った(こん)だ。」と告げた。

「隠世は亡者の念で溢れんばかりだ。吾ごときでは元より、悪路王でも御魂振りが追い付がね。無理に連れ帰りはしたが、悪路王の心は半ば蝕まれていよう。窟がいつまで持ちこたえるか。」

阿弖流為は眉根を寄せて黙り込んだまま腕組みした。

七魚の苦渋に満ちた声音から、ただならぬ事態なのだとは推し量れたが、母禮と石盾は目を白黒させた。

「どういうことか俺にも解るように言ってくれ。」

母禮が困惑顔で聞きただすと、阿弖流為が面を挙げて、低い声で話し出した。

「窟は御白様の力が沸く場だが、同時に隠世との端境でもある。亡者の念を悪路王が滅することも受け入れることも難しいとなれば、今すぐとは言わぬが、亡者の念が窟から溢れて来るやもしれない。」

今一つ呑み込めない様子で母禮が押して訊ねた。

「するとどうなる。」

阿弖流為は感情を圧し殺した声音で「神守が濾しとれない負の意だ。悪路王が蝕まれているなら荒魂と化すだろう。」と告げた。

「荒魂だと。」

母禮が思わずあげた上擦った声を、阿弖流為は身ぶりで制した。

石盾はただ目を丸くしていた。

石盾にとって荒魂なぞ、昔語りや謡いでしか知らず、実際にあるとは考えてみたことも無かった。

ひとたび顕れれば大地の上で生を営むありとあらゆるものから、生きる力を奪い去り、呪われた不毛の地へと変えてしまうとは聞くが。

「巣伏で悪路王が奮った力も言わば河の荒魂を呼び覚ましたようなものだ。だが今起ころうとしている荒魂は大地の力とは違う。御白様そのものの荒魂だ。厄介なのはそこだ。」

高丸が低い喉声で「この所、大地の子等の中で様子がおかしい者がいるのもそのためだろう。荒魂が顕れれば、この地に由来する大地の子等は(さが)を失うかもしれない。」と告げた。

石盾は案じるように高丸を見上げた。

「高丸は大事無いのか?。」

高丸は石盾に面を向け、淡々と「ああ。御室の地に大きな異変が無い間は吾は大事無い。今のところ湧口(わっくつ)まではさして変わりは無いようだ。」と述べた。

「七魚、何か手だては無いだろうか?。」

掛けられた阿弖流為の声の方へ、七魚は漠然とした視線を向けた。

「窟を封じるが、悪路王の荷を誰かが替わってやれれば、時は稼げようが。」

母禮は即座に「窟を封じるなど話にならん。栗駒山が怒り出したらどうする。」と釘を刺した。

石盾が「御室で養生すれば、悪路王は回復するか。」と訊ねた。

七魚と高丸は一時顔を見合わせたが「いや、回復は見込めまい。同じことだろう。」と高丸が答えた。

「これまでと同じように吾はできるだけ悪路王の荷が軽くなるよう助けるが、いつか必ずその日が来る。それは胆に命じてくれるが。」

七魚は日々御魂振りに専念し、替わって石盾の母、田鶴(たづ)が日中、悪路王の傍らで世話をするようになった。

巣伏の戦で嘗ての盤具の里は囮に使われ、里の皆はそれぞれ川沿いに伊治城の近くへと集落を移していたが、この事があって田鶴は白銀城へと移り住んだ。

悪路王は次第に目覚めている時間よりも眠りに着いている時間の方が長くなっていった。

目覚めている間も受け答えが薄弱になり、遠くを見据えたまま、呼び掛けられても答えないこともまま有った。


作春、城に上がって日の浅い御室の長の娘が、月のものが来なくなったと言い出した。

田鶴から報せを聞いた阿弖流為は、悪路王に継子が生まれ、無事育てば、それで山積している多くの問題の解決の糸口となると長く考えてきただけに、これを大層喜んだ。

急ぎ白銀城を訪れた阿弖流為は、城の入り口で一人の娘と髪を掴んで争う七魚と、止めようと七魚に取り縋る田鶴の姿に胆を潰した。

「若長、この罰当たりな(めし)いの(めのご)を止めてくれろ。腹の子が流れたらなんどする。」

阿弖流為の姿を見たとたん、訴えるように憐れな声をあげたその娘を、七魚は力一杯突き飛ばした。

(もだ)せ、この虚言(そらごと)吐き()。お()の腹の子は悪路王の子では無えが。それぐらい吾に判らねとでも思っだが。」

息を荒げて罵りの言葉を投げつけ、脚を踏みしめて立つ七魚は、その顔に激しい怒りを浮かべていた。

「何を言う。少しばかりの口寄せの才を嵩に着て、お()ばかりが悪路王に愛でられずがらとこんな真似を、」

突き飛ばされた娘は口を尖らせて、尚も七魚に向かって何かを言い返そうとして、突然、凍りついたように身を強張らせた。

七魚が背にする城の入り口から、呻き声とも獣の吠え声ともつかない声が聞こえ、若い娘たちの悲鳴が重なった。

城の入り口から、重く引きずる足音と呻き声とともに、言い様のない気配が流れ出て来た。

阿弖流為は思わず眼をしばたかせた。

白昼のもと、始め黒い靄のようだったそれは、朧に姿を採り始め、次第にはっきりとした幾人かの人の姿になった。

七魚は気配を察して城の入り口へと向き直った。

尻餅を突いていた娘が悲鳴をあげて後じさった。

始めに判別がついたのは骨と皮ばかりと見える腕に、何かを抱えて脚を引きずるように歩む(おみな)の姿だった。

腕に抱えているのが赤子の屍であると気づいたのは、赤子の胸に太刀が突き立てられていたからだった。

歩む女の眼球の無い虚ろな眼窩からは、黒ずんだ血とも涙ともおぼつかぬものが流れた痕が見てとれた。

次々と靄は人の形を取り始めた。

腕を指し伸ばしながら、這うように進んでくる老爺の纏う衣が、破れていると思ったそれは、焼かれて剥がれかけた皮膚だと阿弖流為は気づいた。

幾本ものの矢を躯に突き立てた童子が、おらび哭きながら、歩んで行く。

太刀傷に胸を切り開かれた若い男が、呻き声を上げながら、よろばうように脚を進めてくる。

亡者たちの眼には、呆けたように頭を抱えて悲鳴をあげる御室の娘も、立ちすくんで震えている田鶴も、阿弖流為も映らぬと見えたが、七魚の傍らを通る時だけは眼を向けた。

七魚の眼にもその様は映ると見えて、七魚は短く「田鶴、此処に居てくれろ。じき終わらせる。」と言い残して城の中へと駆け込んで行った。


その日からは、醒めているのに悪夢を見るような日々だった。

悪路王は目覚めることは無くなり、寝台の帷の内には常に暗闇が立ち込めるようになった。

七魚は赤頭とともに寝台の傍らから離れることなく御魂振りを行い、必要があれば悪路王の意を問いに隠世へと降りていった。

姿を顕した亡者たちは、その日は何処かへ消えてしまったが、その後も折りに触れ、悪路王の帷の内や、城の隅の暗がりに姿を顕し、城の内で立ち働く多くの者は皆、日々怯えながら過ごすことになった。

数日後には田鶴が、狩りに出ていた里の者が見たこともない、大きな化鳥に襲われたらしいと報せてきた。

死人こそ出なかったが、連れていた狗が拐われ、後を追おうとした男衆の一人が怪我を負った。

見たものは犬鷲より大きく、人じみた頭があったと言った。

高丸は白銀城の内の土蜘蛛の中の数人が、性を失いつつあるようだと告げた。


悪路王の子を身籠ったと言う御室の娘について、七魚は二度と語らず、干渉もしなかったが、その娘はじきに里に帰されることになった。

娘が城を去る日、阿弖流為がそれとなく「捨て置いて良いのか?。」と訊ねると、七魚はいかにも不愉快そうな面持ちで場所を変え、辺りに誰も居ないか確かめさせた上で、阿弖流為にさらに過酷な事実を告げた。

「赤子が生まれれば父親が誰かはじきに知れる。長達の眼は誤魔化せね。阿弖流為、覚えでおけ。悪路王は世嗣など得られね。」

「何と言った?。」

聞き返した阿弖流為に、七魚は見えぬ目線をあげて低く「床をともにしてみて吾には判った。悪路王には子を成す力が無い。子種が無いのだ。」と言った。

阿弖流為は衝撃の余り、しばらく言葉を失った。

「悪路王自身は気づいているのだろうか。」

沈黙を破った阿弖流為の声音は沈痛なものだった。

「口には出さねども、薄々気付いているのではあるまいか。」

「七魚、決して他言してくれるなよ。」

阿弖流為が念を押すように言うと七魚は癇癪を起こしたように「当だり()だ。()が言うものが。」と答えた。

日に日に疲弊していく悪路王が継子を得られないと思うと、阿弖流為には、巣伏で掌にしたはずの未来(さき)への望みが、急速に指の隙間から零れていくように感じられた。

七魚が思い出したように言った。

「先に亡者が姿を顕した日があったろう。あの後で気付いたが、ああいう事があると、その後、少しは悪路王の荷が減るようだ。」

阿弖流為が「抑えるものが減れば少しは楽になるようなものか。」と答えると、七魚は頷いて考え考え言葉を継げた。

「ああ、それで高丸がな、悪路王の荷を自らの身に引き受けようと言ってくれたが、悪路王は承知しねがった。高丸では何かあった時に抑えるものが居ねがら駄目だというのだ。」

「尤もな話だな。」

阿弖流為は相づちを打ちながら、七魚は何を言いたいのだろうと頭の隅でちらりと考えたが、その日の阿弖流為は悪路王の継子の望みが絶たれたことで頭が一杯で深く問いただすこともなかった。

その時の七魚の表情は、しばらく阿弖流為の記憶の片隅に残り続けたが、やがて季節が移り、倭人の城柵に人が集められ始めたことや、母禮がもたらした離反の気配を確かめることに忙殺されて、それきり忘れてしまった。


再びの戦は避けられないと判断した阿弖流為は、伊治城で母禮と石盾にだけ、自身の胸の内の策を打ち明けた。

母禮は昔も今も、阿弖流為にとって欠くべからざる盟友であり、成長した石盾は阿弖流為の指揮下で呰麻呂(アザマロ)の戦、巣伏の戦と二つの大きな戦を戦い抜き、血気盛んな逞しい若者に育っていた。

予測していた反応ではあったが、この日阿弖流為が打ち明けた策について、二人は容易に首を縦には振らなかった。

阿弖流為は、達谷窟から荒魂を顕現させて朝廷の兵を殲滅させる策を提唱したのだ。

「正気で言っているのか。それでは倭人の居る土地だけでなく、達谷窟から南の地すべてが、不毛の地になってしまうのだぞ。」

母禮の言葉に阿弖流為は頷いた。

「だが、そうすることで悪路王が背負う荷も大きく減るだろう。そして倭人が去った後に悪路王に御白様の癒しの力を奮ってもらうのだ。」

母禮は腕組みをしたまま一声唸って、考え込んでしまった。

石盾は父の顔と阿弖流為の顔を交互に見て、「他に手だてがある間は、できる事を行うと言うことだな?。」と念を押した。

阿弖流為は「無論そうだ。倭人にも何かの形で警告は行おう。」と答えた。

母禮が「悪路王は何と?。」と訊ねると、阿弖流為は殊更憂鬱そうに「そこが最も難儀なところよ。」と答えた。


以前、里人を襲った大きな化鳥は、その後も度々姿を表し、童子や女衆のうちに怪我を負うものが出て、母禮と石盾は捨てては置けず、男衆数人とこれを追い始めた。

数日かけて栗駒山の麓あたりでどうやら仕留めたが、見つけた骸は腐敗しかけた犬鷲と(ましら)のものだった。

次には狗の頭を持つ大熊が現れた。

毒矢が効かず、手練れの男の数人が怪我を負い、一人が命を落とした。

七魚は険しい顔で「前の亡者の念の結ぼれだが。もう捨て置げね。やはり悪路王の荷を誰かに受げてもらわずが。」と阿弖流為に告げた。

「誰が受けられる。高丸が駄目だというなら、土蜘蛛衆も駄目だろう。俺やお前のようなただ人では叶うまい。」

阿弖流為が問い返すと、七魚は苦々しげに「赤頭だ。」と答えた。

阿弖流為はしばし考え込んだ。

「そんなことが叶うのか?。」

酷いことのようにも思われたが、それで悪路王の荷が軽くなるなら、藁にでも縋りたいのが実情だ。

「まず出来よう。赤頭は(なり)こそ小さいが地霊だ。あれは悪路王を慕っているがら、悪路王のためだと望めば助けてくれよう。」

阿弖流為は七魚の眼を覗き込んだ。

「お前はそれで良いのだな。」

七魚は僅かに眉をしかめて、唇を歪めた。

「仕方あるまいが。他にすべは無がろ。」


何か出来ることはあるかと問うた阿弖流為に、七魚は赤頭に御魂降ろしを行うに当たって白銀城の付近の結界を強化しておきたいと言った。

このところ頻繁に倭人の姿が見られるとの報告を鑑みて、高丸に城の留守居を頼み、阿弖流為、母禮、石盾が交互に七魚に付き添って、城の周囲の結界を強化して廻ることになったが、銘々、こなさねばならない日々の仕事もあり、これは遅々として進まなかった。

結界の強化も残すところわずかとなった日、七魚は供を待ちきれず、その日向かう所が険しい場所でも無いことを考えて、一人で城を出た。

黒玉の刃を埋めて榊を立て、立ち去りながら、七魚は赤頭に重荷を負わせることを思って気持ちが塞いでいた。

それでも倭人の脱走兵の気配に、囲まれるまで気付かなかったのは痛恨の失策だった。

危うい所を助けてくれたのも倭人だったと知って七魚は大層驚いた。

あのとき七魚の見えぬ目に映ったのは、悪路王や高丸や赤頭と同じように、纏った神気が朧に光る姿で、七魚は記憶の奥底を揺さぶられたような気がしたのだったが。

阿弖流為と母禮と高丸は何やら言いたげだったが、ともあれ、それから七魚は一人で出歩くことはしなかった。


数日の後、白銀城の最上階にいた高丸と七魚のもとに、土蜘蛛衆の一人が鑪場(たたらば)で暴れていると田鶴が報せにきて、高丸が「吾が行こう」と立って行った。

赤頭は七魚の膝で丸くなっていたが、不意に頭を起こした。

七魚の不安そうな表情に、田鶴は「若長も、母禮も石盾も向かっているそうだ。安心すれ。」と声をかけた。

七魚は「ああ。」と答えたものの、胸騒ぎは消えなかった。

高丸が鑪場に着いた時には既に古い高殿があちこち壊されており、数人が怪我を負っていたが、既にその土蜘蛛の姿は無かった。

弩を背負った石盾が馬で駆けてきて「高丸、城を出て南に向かっているらしい。若長とお()が馬で追っている。俺も行くぞ。」と叫んだ。

石盾が城の門柵を駆け抜けると、繋がれていた狗たちが異変を察したのか盛んに鳴き立てた。

その声を背に、杖を手にした高丸の巨躯が風を巻いて石盾の馬を追い抜いた。

石盾は馬の耳に顔を寄せて「高丸を追うのだ。遅れてくれるなよ。」と叫んだ。

伊治柵から出たと思われる追手が数人、左手に見えたが、高丸は目もくれずそのまま(やち)を南西へと駆け続け、石盾も迷わず高丸を追った。

やがて倭人の拓いた戦道に出ると石盾の目にも、阿弖流為と母禮だと判る騎馬の姿が遠目に見えた。

このまま南へ向かうと玉造柵だ。

既に阿弖流為と母禮と合流した高丸が戦道の北側の藪へと向かったのを見て、石盾も戦道を外れて馬を進めた。

阿弖流為が渋い顔で「なんとも不味いことになった。追われていると知ってかどうか、城柵へと逃げ込んだのだ。」と指差した先には玉造柵の打ち壊された城門があった。

柵の内で何が起こっているのかは沸き起こる怒声や悲鳴で容易に知れた。

数人の倭人の兵が城門から(まろ)ぶように出てきて、壊れた門を取り巻いて弓を構えた。

杖を手にした土蜘蛛が、左の脇にうなだれた若い男を抱えて門から姿を現した。

滅多に動かない高丸の表情がわずかに動いて、盲しいたような眼が剣呑に細められた。

「あれはもう性を取り戻せぬ。皆ここで待て。吾が行けば異形の者同士の争いと思われて済むだろう。」

阿弖流為が「そうはいかぬ」と返答しかけた時、城門の中からよく通る声が「待て、妄りに射るな。」と響いた。

「まずその者を放してくれぬか。何が理由で城柵に立ち入った?。このところこのあたりで見たと聞く異形の生き物とはお前たち土蜘蛛か?。」

門柵から歩み出てきた声の主に目をやった石盾は、思わず「あのときの(いくさのきみ)だ。」と低く呟いた。

阿弖流為はやや呆れながら、副使だと名乗った異国人の風貌をもつ武官を遠くから眺めた。

盤具の里でまみえた時には斥候中であったからと思っていたが、城柵にあっても粗末な鳥の子色(生成り)の筒袖に(はかま)で挂甲を帯びた姿とは。

太刀こそ帯びているが、弓も持たず、あの武官は本当に副使などという高い身分なのだろうか。

だが取り巻いていた兵が、一斉に弓を下ろしたところを見ると、統率は採れているようだ。

掛けられた言葉に応えず、囲みを破る素振りで辺りを見回す土蜘蛛に、「言葉が通じぬか。残念なことだ。」と口惜しそうな声が掛けられた。

次の瞬間、いつの間に間合いを詰めていたのか、その武官は抜き打ちで土蜘蛛の左の腕を切り落とした。

抱えられていた若い男の身体が音を立てて地に落ちたときには、さらに踏み込んだ一太刀が、体を入れ換える間も与えず、頚を薙いでいた。

高丸が息を呑んだことに石盾は気付いたが、自身もその武官から到底眼を離すことはできなかった。

鈍い響きを立てて転がった土蜘蛛の首に、弓持つ兵が怯んで後じさったが、その武官は躊躇い無く地に伏した若い男のもとへ歩み寄って片膝をついた。

性を失った土蜘蛛は、身に纏っていた手無しと褶だけを残して、首も巨躯も微かな音を立てて砂が崩れるように土塊へと変貌していった。

石盾が思わず詰めていた息を吐いた時、その武官の藍色の視線は、真っ直ぐに身を潜めている藪へと向けられ、一時看破するように険しくなったが、やがて逸らされた。

「この者の介抱を頼む。修理(すり)に当たる兵と警備に当たる兵を集めよ。門柵の修繕は最優先だ。律令の如く迅速に行え。」

不豫(ふよ)

天皇、上皇など貴人の病気に対する表現。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ