第五部 栗原 九 多賀城
延暦十二年(793年)初秋
数名の従者と共に速やかに東海道を北上した田村麻呂は、先年観察使として派遣された頃を思い出しながら、令国の有りように目を向けた。
駅路から窺える限りでは、当時より公民の暮らしが劇的に改善されたとは見えなかった。
殊に遠江を越えた富士の辺りでは、未だ草木が生えず、田畑も営めぬ郡があり、度々大きな地揺れが起こって、人々は不安げに富士の山から立ち昇る煙を臨んでいた。
新たな政策は一朝一夕に効を成すものではないうえに、天災が及ぼす損失は予測も防ぐすべもない。
答えが出るには時がかかるものだ。
駅鈴を持たない旅でも、少人数であればこその迅速さで、田村麻呂は十日余りで陸奥国府へと到着した。
冠川の川湊、塩竃津を臨む多賀城は宝亀の乱で焼け落ちた後、やや内陸よりの高台に再建された。
再建後の国府では政庁以外に、製鉄や武器製造に関わる官衙も増え、威風ある国庁の佇まいを呈していた。
幸いと言うべきか、巣伏の大敗でも城柵が損なわれることはなく、この数年の豊作にも恵まれて多賀城は活気に満ちていた。
百済王俊哲が再び多賀城に着任してからは遠浅の浜で盛んに藻塩を焼かせており、この事業は軌道に載っていた。
国衙の政庁で大使の大伴弟麻呂に着任の謁見を済ませ、正殿から出た田村麻呂を百済王俊哲が待ち構えていた。
「久しいな。待ち兼ねたぞ。大君は汝を副使としたことを忘れているのではあるまいかと案じていたが。早速だが会わせたい者がいる。まずは荷を解け。大使から指示があるまで暫くは吾の館に滞在してくれ。」
国府の大路を連れ立って歩く二人の姿は衆目を集め、密やかなざわめきを生んでいた。
田村麻呂にとっては、それが何処であれ、初めて訪れる場所であれば常のことであったが、今、己に向けられている視線には常とは何処か違うものが感じられた。
日頃から己が向き合う、あからさまな驚き、むき出しの好奇、見慣れぬ姿形への漠然とした怖れに入り交じって、純粋な畏敬の念に似たその視線を辿ると、そこには一人の翁の姿が認められた。
装束こそ倭人の舎人風な身形だが、錦織の額巻きと控えめな目元の黥は、その翁がこの毛野の生まれであることを物語っていた。
翁は田村麻呂に視線を向けられると、慌てたように視線を落とし、そそくさと立ち去った。
百済王俊哲が田村麻呂に引き合わせたのは、厳つい体つきに濃い眉が印象的な下官だった。
自身よりやや年長と見えるその姿に、田村麻呂には名を聴く前からその下官の素性が知れた。
「牡鹿柵の大領で、道嶋御盾だ。御盾、この度の副使、坂上少将だ。」
俊哲の目元が満足げに綻んでいた。
「嶋足殿のお子か。父御によく似ておいでだ。道嶋中将には父ともども親しませて頂いた。」
異国人の容貌で、しかも権威ある副使と紹介された相手に深々と礼をされて、御盾は意外そうに目を見張り、次いで「では坂上の中衛中将のお子で。父から話だけは聞かされておりましたが、こうしてお会いできるとは望外の喜びです。」と感慨深げに挨拶し、袖を合わせて深々と頭を垂れた。
俊哲は愉快そうに二人の邂逅を打ち眺め「様々に語りたいことなぞあるだろう。今夜は共に吾の邸で一献傾けようぞ。」と促した。
俊哲の邸では、海松や貝、焙った魚など新鮮な海の幸が並べられた膳を前に、酒が酌み交わされた。
田村麻呂は恐縮する御盾に、嶋足に譲られた陸奥駒や蕨手刀の話など親しげに語り、程なくして御盾はすっかり打ち解けた様子になった。
程好く酒が回った俊哲が「どうだ、御盾よ。よもや坂上少将がこのような男君だとは思いもよらなかっただろう。」と笑いながら言った。
「大伴の大使殿が着任されて、我が事細かに兵に目を配るは難しくなったが、案じるまでもない。この男君に任せておけば大抵の事はうまく運ぶぞ。」
俊哲は御盾に向かって意味ありげに目配せした。
「この男君はな、この見慣れぬ姿で会う者を驚かしておいて、人懐こい性根ですぐ親しんでしまうのよ。それで女どもなぞ、すぐ骨抜きにされてしまうのだ。不公平極まりないと思わぬか。」
俊哲の言葉に御盾と二人、笑いながら田村麻呂は「確かに私はこのような姿なので、常日頃から行く先々で出会う人々に訝しく思われるのものですが、今日見かけた俘囚の翁は常とまた違う感想を持った様でした。」と答えた。
「ほう、どう違った?。」
「私が都人と知っての事かもしれませんが、面映ゆいことに、敬われているような気が致しました。」
田村麻呂の言葉に、御盾は拳で掌を打った。
「それについては思い当たる節があります。」
二人の注視を受けて、御盾は「恐れ多いことですが、おそらくその翁は坂上少将のお姿に悪路王を連想したのでしょう。」と答えた。
「悪路王?。」
田村麻呂のおうむ返しの言葉に、御盾が頷いた。
「毛野の民が信仰する国つ神の依り代となる者と聞いております。部族ごとの長とは違い、神祇官の様な立場で毛野の民を統べる者とのことですが、何でも肌の色や髪の色が際立って薄いそうで御座います。」
俊哲が「我も名前だけは耳にしたことがあるが、言い伝えだとばかり思っていたな。」と腕を組んだ。
御盾の濃い眉が寄せられた。
「吾も巣伏の戦までは何れ口伝の類いであろうと思っておりました。ですが、」
御盾の脳裏に、巣伏で太刀を交えた時の阿弖流為の言葉が蘇った。
「巣伏で阿弖流為はこの地に悪路王の呪いがかけられると言い、そして確かに常識では考えられない勢いで水が押し寄せ、北上川は氾濫したのです。この地には未だ人智の及ばぬ力が働いているのかも知れません。」
田村麻呂は真摯な表情で「成る程。」と頷いた。
鈴鹿峠で、かの葛城の斎媛が天の水気を呼び集め、雨を降らせた夜が鮮明に思い出された。
鈴鹿は、毛野の地には篤く信仰される国つ神とその守り手が在ると言っていた。
悪路王とは、或いは鈴鹿と同様、この地の国つ神の巫や祢宜の様な存在か。
俊哲は笑いながら田村麻呂の肩を叩いた。
「ならば尚のこと、この男君に働いて貰わねば。何しろ天邪鬼をも使役する毘沙門天の化身だからな。頼りにしているぞ。」
田村麻呂は俊哲がどこでそんな話を耳にしたのかと思いながら「使役できる天邪鬼が居るものなら、是非とも土地勘のある者をご推薦願いたいものです。」と笑った。
俊哲はほうという顔になり、腕組みして考え込んだ。
「出来うるものなら我自ら案内したいところだが、今は雑務のあらかたを担ってしまってな、思うように時間が取れないのだ。」
集めた兵の中からは、早くも規律や兵役に嫌気がさして脱走する者も現れ始めていた。
兵の統率は大使に譲っても、俊哲は兵の管理に伴う雑用に追われていた。
「兵役が嫌なら他にも働く場はいくらでもあるのだが。何も好き好んでこの時期に逃げ出すこともあるまいにな。」
俊哲は杯を干して、やがて厳しく長い冬が訪れるというのにと呟いて魚の身を毟った。
「何処か当てでもあるのでしょうか。」
田村麻呂の問いに、俊哲は「嘗ての雄勝城の辺りに流民達が集っているが、集落と言えるほどの物ではないな。」と答え、御盾は深く頷いた。
「辛うじて暮らしてはいけましょうが、言ってみればならず者の集まりです。彼処も何れどうにかせねばなりますまい。」
苦々しげに言って御盾は杯を煽った。
「朝廷と蝦夷が戦をしている間はあの連中も枕を高くして居りましょうな。何と言っても出羽柵からも離れていることです、好き放題に振る舞っておりましょう。」
俊哲の杯に酒を注ぎながら田村麻呂は言った。
「先ずはこの地の地勢を知りたく思います。大伴の大使殿にも見聞を広めたいと申し上げて参りました。出来れば庶人や流民の動向にも詳しい者が身近に居てくれるのが望ましいのですが。」
田村麻呂の言葉に俊哲は再び考え込んだ。
「地勢を知りたいということならそれこそ御盾辺りに頼みたい処だが、生憎御盾もこれで中々重い身だ。もっと身軽な者が良かろうな。」
御盾が控えめに「坂上少将が身分に拘られず、あまり来歴の芳しくない者でも宜しければ吾に心当たりが御座います。」と申し出た。
「高野の帝の御代に移民としてこの地に移り住んだ男でして。若い頃から抜け目の無い男だったと見えて、宝亀の乱をも生き延びました。老いてもなかなか目端の利く者でございます。ただ一つ、良くない癖がございまして。」
言い澱んだ御盾に、俊哲が「何だ、言ってみろ。汝が推すなら八逆でも耳を塞いでおこうぞ。」と笑った。
御盾は困ったように頭を掻いた。
「賭け双六でございます。幾度も公民となりながら、賭け双六で咎を受けて、奴と成り果てております。」
朝廷の移民政策は奴や流民の公民化、税逃れの私度僧、咎人の矯正と称した放逐といった目的で行われてきた。
自然、移民達には咎人や奴が多く、遠国の治安の悪化の一因でもあった。
同じ頃、都で目に余るとして孝謙・称徳帝が出した賭け双六の禁止令に反して捕縛された公民のなかにその男は居た。
天平宝字元年(757年)の移民令で雄勝柵に配されたその男は、神護景雲年間の伊治築城や出羽陸奥伝路建設にも徴発され、宝亀十一年(780年)の宝亀の乱では出羽柵へと逃げ延びて永らえた。
乱の後は再び陸奥国へと帰り、多賀城、玉造、色麻、牡鹿と城柵を渡り歩いて生きてきた。
行く先々で賭け双六で恨みを買い、訴えられては咎を受けてきたのだが、一向に改める事もなく、身分は奴のままであると御盾は語った。
俊哲が愉快そうに「双六とな、強いのか。」と訊ねると御盾は憮然として「そのように思われます。」と答え、俊哲に「さては汝も手痛い目にあったと見える。」と揶揄された。
「吾が勝ったら賽(振り壺)を棄てるよう誓わせて挑んだのですが。」
きまり悪げに答えた御盾の背を、「負けたのだな」と呵呵と大笑いしながら俊哲は幾度も叩いた。
「なかなか面白そうな男ではないか。どうだ、召し使ってみるか。」と俊哲に訊ねられた田村麻呂は大きく頷いた。
「宝亀の乱を知るなら者なら願っても有りません。是非お願いしたい。」
翌夕べ、御盾は初老の男を連れて俊哲の邸を訪れた。
「牡鹿柵の奴で虫麻呂と申します。」
貧しげな身形ではあるが小柄で俊敏そうな身体つきで、日に焼け、深く皺の刻まれた角ばった顔と、抜かり無く辺りに配る目が印象的だった。
田村麻呂は頷いて御盾を労い、簀子に双六の盤と賽を持ち出した。
「虫麻呂、日々伴に居てもらうことになるのだから、まずはお前を知りたい。私と一局打ってもらおう。此は賭け事ではない、その証しに大領殿も見届けて頂けようか。」
田村麻呂は事も無げに言い、御盾は仰天した。
虫麻呂は意外そうな顔つきになり、御盾を窺った。
「双六には打つ者の性状が現れる。互いをよく知るには持ってこいだろう。」
田村麻呂は屈託無く笑い、御盾が不承不承頷いたのを見て、虫麻呂は気後れした風も無く盤に向かった。
双六の成り行きの多くは骰子の目に左右されるものだが、戦略をも必要とされる。
指し手の才覚や思考の方法が顕著に現れるものだ。
虫麻呂は確かに巧みな指し手であり、出た骰子の目が悪くとも悪態を吐くでもなく、確実に田村麻呂の石を切り、妨げながら己の入りを進めた。
打ち方にも振る舞いにも卑しさや狡猾さが見出だされないことに田村麻呂は満足した。
勝負は一見して虫麻呂が着々と入りを進め、田村麻呂の石は遅々として進まぬように見えたが、御盾は、進むにつれて虫麻呂が焦りだしたことに気づいた。
田村麻呂の賽が振られて出た目に、虫麻呂の顔色が変わった。
田村麻呂が静かに石を進めて虫麻呂の石を切った。
虫麻呂を見やると、額に汗を浮かべていた。
御盾は盤上の石の配置を改めて見なおして、虫麻呂が詰まれたことを知った。
田村麻呂が初めからこの配置を目論んでいたのだと御盾は漸く気付いた。
「蒸されましてございます。奴が負け申しました。」
虫麻呂の言葉に田村麻呂はにこやかに頷いた。
「幸いにして私が骰子の目に恵まれたな。良い一局だった。お前は賭け事を好むのでは無く、胆の据わった双六の上手であるように私には思われる。以後双六を打ちたくなったら他の者とでは無く、私と打ってくれぬか。」
笑顔を向けた田村麻呂に、虫麻呂は床に額を付け「奴のような者でお役に立つなら、存分にお使い下さい。」と答えた。
「この国の山並みの大方は西側がなだらかで東側が険しいものですが、この日高見の山並みも例に違わぬ形状でございます。」
翌早朝、高台にある多賀城の櫓から、周囲を見渡しながら、虫麻呂は田村麻呂に語った。
「あすこに見えます広い道は、かつて大野の将軍が出羽柵まで拓かせた伝路でございますが、今やその粗方は伊治から先、比羅保許山までの間で森に呑まれつつございます。今では牡鹿、桃生を東の限り、玉造を西の限りとした僅かな区間を残すのみとなりました。」
国府の大路から東西に連なる、広く、堅固で平坦に築かれた伝路こそが朝廷の令国の証しであり、毛野民との国境であったのだろうが。
「栗原など駅家もございましたが、今は流民が住み着いてでも居りましょう。」
「栗原?。」
「はい。高野の御代にはその辺りは栗原郡とされておりました。蝦夷どもは以前より伊治と呼んでおりますが、それも元々はその地を訪れた高名な禅師がそう名付けたと伝え聞きます。」
「成る程な。伊治か。」
口の中で田村麻呂は呟いた。
初めの半月程を田村麻呂は、虫麻呂一人を連れて、この伝路の現状を調べながら、近在の柵を廻ることに費やした。
国衙の内では言葉に出しにくい問いも、道中虫麻呂に訊ねることで忌憚の無い答えを聞くことが出来、田村麻呂の胸中には次第に陸奥国の現状が構築されていった。
「俘囚達の今の様子はどうだろう。国府の政策に不平や不満は持たないのだろうか。」
「年若な者であれば、ものの考え方も、良しとすることも、今や朝廷の民と変わりありますまい。身分や姓を得れば楽に暮らせるとなれば、多くはそれを望みましょう。」
事実、俘囚の大領達の中でも伊佐西古の縁者吉弥候部の荒嶋は宝亀の乱での伊佐西古の離反を長く憤ってきた。
それ故に昨年、荒嶋は俊哲から朝廷との和睦を考える毛野の民が居ると聞かされて、阿奴志己の子、宇漢米の隠賀、尓散南の阿破蘇等を率い、密かに長岡の都に朝参し、叙爵を受けさせた。
毛野の民総てが朝廷との抗戦を望んでいるのではないのだ。
「何より、俘囚達は巣伏での戦で多くの肉親や同輩を喪っております。胸の内には様々に恨みも残りましょう。」
伝路周辺を見て廻った田村麻呂は、まず手を付けるのは伊治柵奪回が最も妥当ではないかと考えた。
機を見て俊哲にその旨を打診してみると、俊哲からは、伊治の護りは堅く、過去にも数回襲撃を試みて、柵に近寄ることもできず撃破されていると苦々しげな答えが返ってきた。
「伊治柵の奪回は我も望むところだが、何より周辺の地勢が掴めていないのだ。大使に申し上げるには戦略に欠ける。」
かつての伊治柵は宝亀の乱から蝦夷が住み着き、砦としている。
付近では警備が厳重で、幾度か斥候兵を差し向けた事もあったが、栗駒山付近に脚を踏み入れた斥候兵は迷うか帰って来ないかのどちらかだった。
田村麻呂は袖を合わせて「承知いたしました。では私と虫麻呂を玉造柵にお送りいただき、小船一艘とそれを操れる俘囚兵を二人お貸しください。何ができるか試みてみましょう。」
と述べた。
田村麻呂は虫麻呂を連れて、最も伊治に近い玉造柵に着任した。
俘囚兵の中から自ら二人を選び出し、厳しく略奪や暴行を禁じた上で、北上川沿いに伊治柵の周辺で斥候を繰り返した。
毛野の民が使う喫水の浅い小舟を使い、北上川を遡り、地形と川の水深を調べ、城柵へ戻っては地図に記した。
伊治城の南、渓谷の狭隘部からは水深も川底の勾配も変わり、川の流速も違った。
玉造柵では新しい副使殿は釣りがお好きな様だなどと言われたが、田村麻呂は意に介さなかった。
人々の目にそう映るなら上々だ。
日々小舟を操るうちに、巣伏以南の川沿いは大概踏破できた。
田村麻呂は今度は上陸して小舟を隠し、辺りの地形を調べ始めた。
秋は深まり、木々の葉が色づき始め、森は実りの季節を迎えつつあった。
木々の下ではやがて訪れる冬に備えてか、多くの動物達の姿が認められた。
田村麻呂は朝夕の霧に紛れて、日々川沿いから森へと脚を踏み入れ、徐々に伊治柵の周辺へと脚を向け、毛野の民の集落があればその位置や戸数、規模を探り、北上川に支流が流れ込む場所、湿地帯の在処などを詳細に調べさせた。
時には毛野の民に姿を認められ、矢を射かけられたが、田村麻呂は決して報復させなかった。
かつて伊治柵で暮らし、周辺の地形をよく知る虫麻呂は大いに役立った。
次第に支流や森の奥まで脚を伸ばすようになった田村麻呂はある日、虫麻呂に「この辺りには確か大きな滝がありまして、蝦夷どもの多く住む里があったはずでございます。」と教えられた。
果たして兵の一人が打ち捨てられた集落の跡を見つけたと知らせてきた。
「もう暮らす者は居ないと見受けられるのですが、人の争う気配が致します。荒蝦夷の言葉のようにも聞こえますが、倭言葉も聞こえました。」
戻ってきた俘囚兵が声を潜めて告げ、田村麻呂は周囲に気を配りながら近づいた。
住むもののない集落の中程、崩れかけた倉の前で、薄汚れた短甲を身に付けた雑兵姿の男が数人、座り込んだ毛野の娘を囲んで罵り声をあげていた。
「隠れ里なぞ、よくも謀ってくれたな。」
「何も無く誰もおらぬではないか。無駄足を踏ませおって。盲いと思って手荒にせずにおいたものを。」
腹立たしげに言い捨てた男は娘の胸ぐらを掴んで引きずり起こした。
「見返りは高くつこうぞ。」
毛野の娘は青ざめた顔をあげ、誰にともなく面を向け「お前だちなんぞにはここで沢山だ。疾く去ね。」と鋭く言い放った。
娘の頬が打たれて高く鳴り、娘はその場に膝を折った。
「うぬが住む里はどこだと聞いたのだ。言う気が無いなら、そうよな、獣に等しい輩でも牝には違いあるまいからな。」
男は言葉を切り、下卑た笑いを浮かべた。
男の一人が襟首を掴み、もう一人の手が娘の足首に伸びたのを見て、田村麻呂は手近にあった礫をその腕めがけて投げた。
飛んできた礫に驚き、打たれた腕をさすり、娘の襟首を掴んだ手を離して、男達は銘々辺りを見回しながら立ち上がった。
「恥を知れ。兵役が嫌で城柵から逃げただけでなく、人の道からも外れるか。」
森から姿を現した太刀を佩く挂甲の武官姿と田村麻呂の異国人の様な容貌に男達は一斉に怯み、我先に逃げ出した。
虫麻呂と二人の俘囚兵に男達を追わせ、娘を起こしてみると、打たれた時に切ったものか唇の辺りに血を滲ませていた。
起こした手を疎んじて払いに来た小さな手を捉えて、水の入った竹筒を握らせた。
意外そうにこちらを見上げてきたところを見ると、どうやら全く見えていないというわけでもないらしい。
「水だ、落ち着かれよ、私は貴方を害さない。」と語りかけると、娘はそれ以上抗わなかった。
突然、腰に佩いた鞘逸太刀が微かな金属音を立てた。
不審に思って手をやると、刀身が鞘から浮き上がっていた。
背後に大きな存在の気配を感じて、田村麻呂は身構えて振り向いた。
森の入り口に見覚えのある大きな異形の影が微動だにせず立っていた。
土蜘蛛だ。
思わず「前鬼?。」と呼び掛けて、田村麻呂はいやそんな筈はあるまいと首を振った。
以前鈴鹿が垣間見せてくれたこの太刀の記憶にも土蜘蛛の姿が見られたのだから、この土蜘蛛は毛野国の土蜘蛛なのだろう。
田村麻呂は静かに太刀を抜いて、土蜘蛛を見据えたまま、座り込んでいる娘に向けてゆっくりと後退して間合いをとった。
この土蜘蛛が何を目的に姿を現したのか推し量りようもないが、鈴鹿の守り手同様に、その力は常人を遥かに凌駕するだろう。
土蜘蛛の背後に複数の人影が動いた。
「高丸、七魚は居たか?。」
快活そうな若者の声がして、座り込んでいた娘が顔を挙げた。
土蜘蛛の背後から姿を現した毛野の若者は、抜き身の太刀を持ち、倭人の挂甲を纏う武官の姿に素早く身構え、次いでその武官の容貌に目を見張り、小さく「御白様?」と呟いた。
だがその背後に傷ついて座り込んだ娘の姿を認めると、形相を変え、即座に自身も太刀を抜いた。
「どうした。」と良く通る声が響き、若者が「阿弖流為、お父、倭の兵だ。」と叫び、打ちかかかってきた。
田村麻呂は若者が打ち込んできた一撃を苦もなく受けて、巻き上げるようにその手から太刀を弾き飛ばし、間髪を入れず鳩尾に柄を打ち込んだ。
森から二人の壮年の毛野の男が現れたのを田村麻呂は見てとった。
背の高い一人が娘に駆け寄り、眼光鋭い一人が踞った若者を背後に太刀を抜いて対峙した。
向けられた切っ先に微塵の動揺も見られない事に田村麻呂は密かに舌を巻いた。
幾多の修羅場を経験して来たのだろう。
先程の若者の様にいなすことは叶うまい。
この男と太刀を交えるからには命のやり取りとなるは必然だ。
「毛野の将よ、名乗られよ。私は征夷副使、坂上大宿禰田村麻呂。」
田村麻呂の言葉に、壮年の毛野の男は僅かに目を細めた。
「倭人に名乗る名なぞ持たぬ。」
打ち架かってきた鋭く重い一撃を田村麻呂は寸前で一歩退いた。
今この将と太刀を交えて遺恨を作ることは本意では無い。
座り込んでいた娘はもう一人の毛野の男に手を貸されて立ち上がった。
毛野の男が弩を構えた気配に娘が叫んだ。
「母禮、阿弖流為、止せ。その倭人は吾を助けてくれたのだ。」
娘の切迫した声に傍らの男は弩を降ろしたが、田村麻呂と対峙する男は太刀を構えたまま、視線を動かさなかった。
娘が更に一声「高丸、止めさせてくれ。」と言い、土蜘蛛がその巨体に似合わぬ俊敏さで、二人の間に割って入った。
「阿弖流為、七魚は止めろと言っている。」
低い喉声に諭すように言われ、男は渋々太刀を下ろしたが、田村麻呂に向けられた鋭い視線は揺らがなかった。
「副使自らここに脚を踏み入れるとは何故だ。」
よく通る声が問い質してきた。
数多の戦で号令をかけて鍛え抜かれたのであろうと思われた。
集落の奥から、虫麻呂と兵が捕らえた男達を牽いて戻ってくる姿が垣間見えた。
虫麻呂は田村麻呂が毛野の民と対峙していると見てとり、兵達の脚を止めさせた。
「私は今ここで争うつもりはない、退かせて頂こう。城柵から逃げた兵達がそこの娘御に乱暴を働いたことを謝罪する。その者達は捕縛して連行する。相応の罪を蒙ろう。」
訊ねた事に答えない田村麻呂に、男は「このごろ、この辺りを窺う倭人の兵が幾人か居ると聞いている。脱走兵以外でな。」と、更に畳み掛けた。
「朝廷はまた戦の機を窺っているのだろう。だが無駄な骨折りだ。この辺りは悪路王の庇護の下にある。早々に兵を退かせる事だ。戦となれば吾らはお前達を易々と屠れるのだ。巣伏の比では無いぞ。誰一人として逃れること叶わぬ。」
田村麻呂は太刀を鞘に納めたが、太刀は鞘から僅かに浮いたまま納まりきらなかった。
「忠告は伺っておこう。」と袖を合わせて礼をした田村麻呂は、毛野の男に背を向けると虫麻呂と俘囚兵を促し、廃墟の集落を出た。
阿弖流為の背後で踞って吐いていた石盾はどうにか立ち上がった。
七魚を抱えて近寄った母禮に高丸が歩み寄った。
「七魚よ、結界の強化より己が身を案じてくれ。独りで出歩くなど、阿弖流為も俺も肝を冷やしたぞ。」
母禮は小言を言いながら高丸が差し出した腕に七魚を渡し、歩み寄ってきた石盾の背をさすった。
阿弖流為が漸く蕨手刀を納め、抜かり無く辺りを見回した。
「あの男は小角を知る者だ。」
田村麻呂が立ち去った方を見ながら、高丸が独り言のように言った。
「何と言った?。」
思わず振り向いて阿弖流為が聞き返すと、高丸は感情の見えない低い喉声で答えた。
「あの男は小角を知っている。我を前鬼と呼んだ。」
高丸の言葉に阿弖流為と母禮、石盾は思わず顔を見合わせた。
延暦十年に編成された征夷軍の使節
征夷大使:大伴弟麻呂
副使:百済王俊哲
副使:多治比浜成
副使:坂上田村麻呂
副使:巨勢野足
八逆
大宝律令に定められた八つの重罪。
この八罪は常に大赦からも除外された。
双六
飛鳥~奈良時代に大陸から伝わったボードゲーム。
明治初期まで親しまれた盤双六と同様に現在のバックギャモンによく似た遊びだったと思われるが、当時の詳細なルールは文献に残っていない。
美術工芸品として正倉院に納められる聖武帝の双六盤、文献に残る度々の禁止令などから、貴族、庶民を問わずこの遊戯が楽しまれていたことが窺える。
ここでは盤双六の規則で遊ばれたと仮定しました。
蒸す
盤双六で盤上の全24区画中に、相手の石が進めない区画を六ヶ所連続で造る勝ち方。
盤双六の規則では、相手の石が二つ以上あるとその区画には入れない。
盤上で骰子の目数通りに石を進める区画が無いと、その回は置き(パス)となり進めない。
また切られた石があれば次の手は盤上の石ではなく、必ず切られた石を始点から進める規則。
この陣形を造られ、切られた石があると蒸された側は詰みとなる。
挂甲、短甲、胴甲
一般には古墳時代から飛鳥時代、奈良時代まで、同名の鎧の名称が使用されているが、実際には時代によって、素材、製造法、形、機能ともに全く違うものであった可能性の方が高いとされている。
特に奈良時代の鎧については文献以外に現存するものが無く、国家珍宝帳の記述の武具についても諸説ある。
あえてここでは古墳時代から飛鳥時代の同名の鎧の発展型と考えさせて頂きます。
胴甲 古墳時代から使われていた主に胴のみを守る形の金属製の鎧
短甲 皮革と金属の小片を連ねて、胴甲に褶、肩当てなどが着いた型に仕立てた歩兵用の鎧。防人や衛士もこの鎧であったか。
挂甲 騎馬兵の為に胴の前後の防備に重点を置いた軽い鎧、肩当て等は無かったと考えられる。
荒蝦夷
朝廷と友好的に接してこなかった蝦夷
ここでは奥地に住む蝦夷の意で使用しました。
以下は多賀城の立地と仙台湾、松島湾、塩竃津について個人的な思索です。
仙台湾では初代仙台藩主、伊達藤次郎正宗の治世から明治までの長期に渡る治水事業が行われ、湾に流れ込む多くの河川は流路を変えられており、それに伴い海岸線も変化している。
冠川(七北田川)と砂押川は合流後、当時の多賀城国衙の南を東西に横切って、現代の塩竃湾を河口付近として仙台湾に注いでいたか。
国府の南北の大路に大橋が掛けられていた記録が残る。
後世、河原左大臣源融が六条邸で再現させ、陸奥の歌枕となる塩竃は、河口付近の遠浅の浜であった千賀の浦での塩焼きの風景であり、塩竃津はより内陸の川湊だったのではないか。
また、おそらく古代仙台湾に松島湾は存在せず、陸地であったと思われる。
松島湾がいつ溺れ谷となったかは不明とされるが、三陸沖で起きる群発地震の性状からすると、度重なる地震での地盤沈下、津波での海水流入による侵食で湾になったと考えられる。
あるいは貞観年間に起こった大地震によって大きく海抜が下がり、大津波で海水が流入して湾になったか。
724年に陸奥国府が海抜の低い郡山遺跡から松島丘陵にある多賀城へ移転したのも、倭朝廷の北進だけが理由では無く、この時期にも地震と津波の被害があったのかも知れない。