第五部 栗原 八 離宮
延暦十二年(793年)初秋
長岡宮では、新都造営に向けて宮の解体が進んでいた。
長岡遷都と同様に、最も急がれたのは大極殿と大内裏の移転であったが、平城の都で政を執りながら難波宮を解体して行われた長岡宮の着工の様に運ぶはずもなく、順次長岡宮の宮殿を解体して移築を行う手筈となっていた。
宮城の内では大極殿と内裏南院の解体が進むなか、朝堂院とその北に並び立つ官衙では高位の官人も下級官吏も、解体の喧騒の中で声を張り上げて、忙しなく日々の執務が行われていた。
大内裏の移転に備え、南院の東宮坊では、先年男皇子(阿保親王)をあげた葛井夫人や伊勢夫人も離宮の木蓮子院へと移された。
東院の山部の後宮の数多の妃や夫人のあらかたは宿下がりさせられ、替わって安殿皇太子と、山部の意向で百川の遺児、東宮妃帯子だけがともに東院へと移り住んだ。
この取り計らいに、百官は、安殿皇太子が帝位に着いた暁には帯子が皇后となるであろうと胸の内に刻んだ。
今や山部の他に係累を持たなくなった酒人内親王は、宮の移転が済むまで神野皇子を連れて平城古京に還り、東大寺を近く臨む生まれ育った宮を仮の住まいとしたいと義兄に申し出た。
山部は冗談めかして「なんと酷い事を言う。この上汝までが朕を見捨てて宮から去るなど。」と一笑に付して容れることなかった。
酒人は釣られて笑みを浮かべ、「そのようなこと」と答えながらも、脳裏から明信の怜悧な面差しを拭い去ることは出来なかった。
人少なになった宮で、酒人には明信の存在は更に際立って感じられた。
この数年の間に、酒人の胸には確信に似たものが築かれつつあった。
義兄と共に宮に在る限り、己の裡に明信への妬みや嫉みを養い続けるのだ。
いつか己はその裡なる業に押し潰されてしまうのだろう。
浄らかな身でもなく斎王となり、一度はみ仏の教えから隔てられた業深い己だ。
退下して後、いくら篤くみ仏を信仰したところで、これでは到底、往生なぞ望めまい。
帯子は緒継がまめやかに訪れて、不自由が無いか気遣ってくれることを喜んだ。
「些細なことではありますが、どうしてもこれ迄と較べてしまうので。女官達も戸惑っておりましょう。」
苦笑混じりの帯子の言葉に、緒継は「手狭になりましたから気配りに欠ける所が目につくのでしょう。」と慰めた。
帯子は小首を傾げて考え深げに「ええ、そのように思われます。薬子様がおいでにならないので、尚更なのでしょう。今坊に在る者達では行き届かない所が多いのかとも思われます。」と答えた。
緒継は心中眉をひそめながら口に出しては「なるほど。」と相づちを打った。
「このところ我君(安殿)は食がお進みにならず塞いでおいでのようです。お召し上がりものや寝具のお支度などに、薬子様の差配が無くなったためではないでしょうか。」
帯子の声音からは心底無邪気に東宮を案じて薬子の不在を惜しんでいると窺えた。
帯子の曹司を退出した緒継は、安殿の夜御座所から文箱を持った弁官が、人目を憚るように退出する姿を見かけて足を止めた。
辺りは薄暮に包まれていたが、緒継にはその弁官が誰であるか一目で知れた。
東宮坊と関わりの無い右少弁の仲成が皇太子の許を訪れる理由など一つしかあるまい。
緒継が遠目に見守るうちに、仲成は東院の廻廊を出ていった。
程無く一人の舎人が足早に廻廊の出口へ向かい、辺りの気配を探ってやはり東院を後にした。
確か近頃大舎人から帯刀舎人に改められた佐伯氏の者だ。
緒継の脳裡で警鐘が鳴らされた。
直感に従い、気取られぬよう、一人その後を追ってみると、やがて宮を出て、予想通り木蓮子院に至った。
仲成が離宮の門を守る衛士に尊大に顎をしゃくり、堂々と門を潜るのを見届けると、舎人はしめやかに立ち去った。
翌日、緒継は東宮侍従として離宮を訪れ、移り住まれた東宮妃の暮らしに何か不自由は無いか、顔見知りの家司に改めて訪ねた。
家司は緒継の訪れに驚き、「こちらの事を気にかけて下さる方は、薬子様とそのご兄弟以外においでにならないものかと思っておりました。」と大層喜んだ。
「いえ、女君も仕える方々も、なに不自由無く、日々をお過ごしです。何しろ薬子様と右少弁に日常の糧も、調度も、大層まめやかに佳く誂えて頂いております。」
「そうか、右少弁がな。」
緒継のにこやかな相づちに、老いた家司は気を許したものか声を潜めて言葉を続けた。
「はい、こう申しては何ですが、私はどうもあの方を誤解していた様です。常々、粗野で思いやり薄い方と見てきましたが、此方に移って考えを改めました。」
緒継は頷いて先を促した。
「昨日も東宮から幼い皇子(葛井藤子の所生の阿保親王)様にお便りをお届け頂いたと薬子様より聞いております。」
緒継は「それは何よりだ。」と答えながら、心の内で危機感を募らせた。
まるで薬子こそがこの離宮の主である様だ。
更には、あの舎人は誰かの意を受けて東宮坊の様子を窺っているのだろうが、その意図が判然としない。
誰が何の思惑で探らせているものか。
間もなく東院の解体が始まる事になろうが、仮宮を何処に置くかは定まっていなかった。
いっそ帯子には里第として己の邸に下がってもらうが良かろうか。
八月の初め、内裏の南西の嶋院で蓮が見事だと曲宴が催された。
その席で山部は安殿に内裏の解体が進んだら、嶋院を仮宮にするのでそのつもりでいるようにと語った。
安殿は動揺を押し隠せず、顔色優れぬまま「承りました。」と答えた。
宴の後、東院へ還御して、山部は酒人にも嶋院を仮宮にすると告げた。
「東宮と神野も移させるつもりだ。無論汝も共に来てくれような。七大寺が無くとも諸ともに蓮の台で過ごせるのだ。南都に去るなどと言ってくれるな。」
義兄に改めて乞われれば、やはり酒人は否とは言えなかった。
新都の巡覧を兼ねて、山部は度々長岡宮を留守にして葛野の各地で巻狩を行った。
行幸となると大事だが、狩猟であれば便に応じて宮の外へ脚を運べ、付き従う官人は自然、葛野の地勢を知り、禄を得られる。
その日、大原野での狩猟の後、嶋院で宴となり、山部が上機嫌なのを見て、安殿は新都造営までの間の東宮坊を、木蓮子院としたいと申し出てみた。
たちまち山部の御気色は険しくなり、安殿は恐じ恐じと「あちらには幼い者も居ります。身近に在った方が心強く思われましょうから。」と言い足した。
山部は「和子よ、仮宮は嶋院だ。皇子を思うなら皇子を手元に呼ぶことを考えてはどうかな?。」と冷ややかに答えた。
このやり取りを傍近くで聴いていた中務卿(藤原小黒麻呂)が取り成すように「あちらには様々に心を砕いてくれる者が居るようでございますな。皇太子様もご承知とばかり考えて居りましたが。」と言った。
山部は怪訝そうな表情になり、安殿はあおった杯を取り落とした。
こぼれた酒が黄丹色衣の大袖を濡らし、安殿は赤くなったり青くなったりしていたが、緒継がすかさず「皇太子様が幼い方を思う涙で濡れたのでございましょう。お気になさいますな。」と言い添えた。
杯は伊予親王の膝の前まで転がり、親王の傍らで談笑していた乙叡に拾い上げられた。
伊予親王は安殿に一瞥を投げ、乙叡に目配せした。
頷いた乙叡は、安殿の落とした杯を下げさせて、酒を満たした新しい杯を持ち、采女に袖を拭われている安殿に恭しく捧げた。
「我君から皇太子様に献杯いたしましょう。」
山部の表情が和らいだのを見て、緒継は胸を撫で下ろした。
どうやら先の舎人は中務卿の意を受けているものと思われる。
己の円座に戻った緒継の耳に潜めた声が嘲笑混じりに「賎しい女のために袖を濡らすなぞ相応しい振る舞いとは言えまいからな。それにしても大夫も愽も行き届かぬことよ。」と聞こえた。
「古くから恋の奴などと申しますから。意のままにならぬ事にございましょう。親王とてつい先日も。」
「吾とは立場が違おうぞ。」
含み笑いと切れ切れの受け答えが、潜めていても誰の声であるかはすぐに知れた。
思わず安殿に目を向けると、安殿の耳にも届いたと見えて膝の上の手が震えていた。
緒継は声の主に鋭い視線を投げたが、当の二人は既に別の事柄で話が弾んでいる様子で、此方にはまるで注意を払っていないように見受けられた。
宴の後、安殿は意を決して山部の御座所を訪れ、嶋院に東宮坊を置くのであれば木蓮子院の者達も共に移らせたいと改めて申し出た。
「同じ東宮坊の者が別れて住まう事で仕える者達の間で格差が生まれれば、不安や不満ともなりましょう。坊の裡に不和が在るのは朕の望むところでは御座いません。」
安殿の尤もらしい訴えは山部には柔弱さの現れとしか映らなかった。
仕える者達のいさかい等、何処に居ても起こるものだ。
大君と成る者であれば、これから嫌というほど直面する事になる。
信頼できる者に常に留意させて、その都度対処する以外にすべなどない。
とどのつまり安殿はあの東宮妃の母を呼び戻したいのだ。
生まれた長子の傍に居られると言いながら、安殿の魂胆は見え透いている。
だがあの女君は何としても認められぬ。
山部の脳裏に、初めてかの女君の姿を見た日の事がまざまざと浮かんだ。
へりくだった呈とは裏腹に、心の裡ではこちらをどう丸め込むか算段していた。
「和子よ、それほど彼の女君に拘泥するか。」
山部の声音が冷徹になったが、安殿はこの度は怯まなかった。
「薬子の事は別としてお考え下さい。ですが父者とて氏族との所縁のために数多の妃や嬪や宮人がおいででしょう。なぜそう薬子に拘られるのです。尚侍とて」
山部の座した紫檀の椅子の傍らに立つ明信が眼を伏せ、安殿は山部の形相に口をつぐんだ。
安殿は動揺を鎮めようと大きく息をついた。
「無神経な発言をお許しください。それほど朕の行いが皇太子に相応しく無いと思し召しでしたらどうぞ他の親王を東宮に御立て下さい。父者には多くお子がおられます。朕より東宮に相応しい親王がお出でで御座いましょう。」
安殿の言葉に山部の形相は更に凄まじくなった。
「和子よ、和子は朕の継嗣ぞ。」
紫檀の椅子から音立てて立ち上がり、歩み寄る山部の握りしめた拳が白くなり、微かに震えていた。
安殿は己の言葉でこれ程父を動揺させるとは思ってもいず、激しく後悔した。
早良叔父君の事を思い出させてしまったのだとは容易に知れた。
「朕の東宮は汝一人だ。決して他の何人たりとも朕の位を譲りはせぬ。たとえ汝が望まぬとしても汝が大君となるのだ。必ずな。」
怒りに声を震わせながら山部が言葉を結び、安殿は袖を合わせて跪いた。
「大君のお怒りを招いたことを深く悔やみます。子でありながら孝無き朕をお許しください。」
安殿が退出して衛士が扉を閉めると、山部は崩れるように椅子に掛けた。
なぜ安殿には解らないのだ。
皇位を継ぐ者を揺るがせば政そのものが揺らぐ。
後継者自らあのような言葉を口にするなどもってのほかだ。
明信の捧げた水の注がれた瑠璃の碗を受け取りながら山部は「安殿は何も解っていないのだ。忘れてくれ。」と言った。
明信は眼を伏せたまま「元より。」とだけ答えた。
執務の合間に軽口は叩いても、宮の裡で明信が山部の床に侍った事は一度も無かった。
その理由が後宮への憚りだけででなく、公私を弁えぬ事を嫌う山部の性癖から来ると、明信は良く承知していた。
それでもやはりあからさまに指摘されれば否定できる立場に己は居ないのだ。
同じ頃、右少弁藤原仲成は東宮坊の安殿の曹司へ向かう途中で、帯刀舎人佐伯成人に用件を誰何された。
篝火の灯りに透かして見て、見慣れぬ顔の舎人であると知り、俄然仲成の態度は横柄になった。
「汝ごときに話す筋合いは無い。」
仲成の姿を認めた紀嶋人が駆けてきて「構わぬ。右少弁は東宮に直にお会いになるのだ。」と間に割って入った。
佐伯成人は意に介さず「そのご用件を伺っているのだ。東宮坊では舎人は闖入者を防ぐのは役目ではないのか?。何のために舎人が置かれている。」と同僚を睨み付けた。
仲成は不快そうに佐伯成人を眺め「汝、東宮坊では見ぬ顔だが、なぜ吾の邪魔をする。誰が吾を誰何せよと言った?。」と問うた。
佐伯成人は挑戦的に仲成に眼を向け「右少弁が正統な用件で東宮にご用なら堂々と申されれば良かろう。誰もそれを妨げませぬぞ。」と述べた。
紀嶋人が仲成に「こやつは先頃大舎人から帯刀舎人となったので、知らぬのです。」と耳打ちした。
佐伯成人は舌打ちして「これだから東宮坊が侮られるのだ。舎人が責務を果たさずしてどうする。吾はこの事を今すぐ舎人監に報告するぞ。いや直々に中務卿に陳情する。」と言い放った。
「舎人風情が偉そうに。」
仲成が紀嶋人の腰から太刀を奪って抜くと、佐伯成人がせせら笑いを浮かべた。
「使い方がお分かりですかな。右少弁。」
言い捨てて身を翻して駆け出した佐伯成人を仲成と紀嶋人が回廊の外まで追った。
佐伯成人が本気で中務卿に進言するとなると確かに様々に厄介だが、何よりも仲成には舎人ごときに脅されることが我慢ならなかった。
衛士の交替を告げる太鼓の音があちこちで鳴り渡った。
東院の回廊を出て北方官衙へ向かう広場は昼間の喧騒を忘れたように人影無く、遠く篝火の脇に立つはずの衛士も見当たらなかった。
「射ろ。今のうちだ。脚を狙え。」
仲成の声に紀嶋人は一時躊躇したが「早くしろ。衛士が戻ってくると厄介だ。」と急かされて矢をつがえた。
弓弦が鋭い音を立て、暗闇の中を駆けて行く人影は呻き声と共に地に倒れた。
駆け寄った仲成は起き上がろうとした佐伯成人の肩の辺りを烏皮履で蹴り、喉元に太刀を突き付けた。
追い付いた紀嶋人に太刀を渡して、仲成は佐伯成人を睨み付けた。
「汝、以前は大舎人だったと言ったな。なぜ帯刀舎人にされた。」
争う気配を聞き付けたものか、北方官衙から一人の人影が駆け寄って来て、暗がりを透かすように「何事だ」と問いかけた。
仲成と紀嶋人はとっさに顔を見合わせた。
「帯刀舎人佐伯成人に不忠の心があってこれを誅する所だ。吾は帯刀舎人紀嶋人、汝は?。」
紀嶋人の答えに佐伯成人が「よくも言う」と言い掛け、仲成はその腹を強く蹴りつけた。
「おう、嶋人か。吾だ。山辺春日ぞ。不忠とは東宮にか?。」
「こやつ、誰かの意を受けて東宮坊を探っていたのだろうよ。誰かが東宮を陥れようと企んでいるに違いあるまい。」
仲成の声に山辺春日は大きく頷いた。
「なるほど、右少弁がお気づきになったのですね。吾は内舎人となっても東宮に受けた恩義は忘れておりませんぞ。」
衛士が着込む短甲の立てる音が遠くですることに気づいて、佐伯成人は飛び起きて駆け出そうとした。
紀嶋人は咄嗟に背後から一太刀浴びせ、山辺春日が回り込んで一太刀浴びせた。
力無くその場に崩れ伏した佐伯成人の身体を、仲成の烏皮履が仰向かせた。
絶命したものと見える。
尋常ならざる状況の中で、紀嶋人と山辺春日は辛うじて宮城の内で人を殺したことだけを認識した。
二人の額に脂汗が滲んできて、手がわなわなと震えだした。
「骸をどうする。」
「舎人監に告げるが先だろうか、東宮に申し上げるが良かろうか。」
落ち着かな気に囁き合う二人を打ち眺め、胆の小さきことよと思いつつ、仲成は「骸は捨て置けば良い。汝ら二人、今夜中に都を出て何処へか身を隠せ。」と顎をしゃくった。
「何故我らが身を隠すのです。謀があるのはこやつでは。」
山辺春日の言葉に仲成は尤もらしく答えた。
「ああ、無論そうだが、こやつの死で謀を暴くに時間が掛かることになるやも知れぬ。その間に汝らの身に禍が及んではせっかくの勲功も意味を成さぬだろう。」
紀嶋人が「春日、吾の生国に来い。伊予だ。」と言い、仲成が「そうしろ。東宮には吾がよしなに伝えよう。」と懐から幾らか銅銭の入った袋を出して紀嶋人に渡した。
二人は暗闇に紛れて都を出て、南へと逃げた。
仲成はその脚で邸に戻って、何食わぬ顔で妻と臥して寝た。
己の父を射殺した者達の事が思われて、何者とも知れぬ誰かに一矢報いてやった様な心地だった。
父が生きていれば、この身は今頃参議で、薬子自身が皇太子妃だったやも知れぬのだ。
父を早世させ、己にこんな報われぬ運命を強いたのが天であるなら天にこの恨みを購わせてくれよう。
吾を妨げる者は皆報いを受けさせてやる。
見ているが良い。
夜が白み始めた頃、交替の衛士が血の臭いに気づき、無惨な姿となった佐伯成人を見つけた。
遷都事業の最中に起こったこの出来事に多くの官人は種継の暗殺を思い出した。
山部は大層怒り、必ず犯人を見つけ出すよう勅使を出した。
安殿は驚き、狼狽えながらも、姿を消した紀嶋人と山辺春日が犯人とおぼしき事を悟り、これを何とか救えぬものかと緒継に委ねた。
緒継は殺された帯刀舎人が佐伯成人だと知り、中務卿の元へ出向いて、この度の事を何かお知りならば大君に率直に申し上げたほうが宜しいのではと促した。
紀嶋人と山辺春日はたちまち伊予国で捕らえられた。
中務卿と東宮侍従の進言を聞き、二人の口から東宮の名が出るのを防ぐため、山部は左衞士佐を遣わして二人を即刻断首するよう命じた。
緒継は安殿には吾の力及ばず憐れな次第となりましたと報告した。
二人は物言わぬ塩漬けの首級となって都に帰り、獄舎の栴檀の樹に吊るされた。
緒継は栴檀の樹の前で二人の首を眺めた。
この二人のために、坂上少将が弓場の私闘の処断について酌量を陳情してくれたというのに、全ては無駄になってしまった。
緒継は北の空を見上げた。
坂上少将は陸奥にあってこの出来事を知るよしも無いが、それはむしろ幸いであったかもしれない。
実際に何があったか、推測でしかないが緒継には解るような気がした。
その事が明らかになる時はおそらく来るまい。
だが、と緒継は胸の内で呟いた。
この出来事の裏で己のみ罪を問われず、関わり無いかのように振る舞っているあの男君にはいつか必ずその報いが訪れよう。
この騒ぎの間も淀みなく遷都事業は続けられ、九月の初めには、菅野真道と藤原葛野麻呂が葛野に遣わされて新京の宅地配給が行われた。
官人は先を争って住まいを新京へと移し始めた。